2019年6月28日 (金)

「京大変人講座」

 「京大変人講座」酒井敏、ほか 三笠書房、を読む。ボケ爺も「変わり者(変人)」と言われて久しい。今はボケてしまって、すっかり変人が真面に見られるらしいが?

 若かりし頃、京大の最強の変人と言われて有名人の「森毅 教授」の著書を読んで、憧れた。だが「変人」になるのは容易なことではない、と悟った。京大の天才の最強の天才の「岡潔 教授」の著書を読んで、「哲学の道」を散歩した。散歩すれば、「アイデアが生まれ、解が浮かぶ」を凡人のボケ爺は信じた。だが、当然に凡人には出来ない、自明だったのだが。京大には、霊長類研究所がある。ここ出身の先生方の本も、又、愉快だった。

 「京大変人講座」は実に愉快!創造性には、この変人的要素が必須!と悟る。

1:地球学;地球は毒ガスに満ちた「奇妙な惑星」=>地球の成り立ちは奇跡の研究

2:経営学;なぜ鮓屋のおやじは怒っているのか=>「おもてなし」は経済合理性に相いれない、の研究

3:法哲学;人間は「おおざっぱ」がちょうどいい=>不安と共に生きて耐えることこそが、ワクワクして生きるための秘訣の研究

4;社会デザイン学;なぜ、遠足のおやつは「300円以内」なのか?=>「不利益」は「社会の豊かさ」を考える手本である事の研究

5:生物学;ズルい生き物、へんな生き物=>変人(はみ出し者)が進化のチャンスを作るか?の研究

6:予測学;「ぼちぼち」という最強の生存戦略=>あまり計画的に生きることは、徒労。「ボチボチでっせ」が好い事との研究

<読書>

「京大的アホがなぜ必要か」酒井敏 集英社新書

=カオスな世界の生存戦略。アホ(無駄を好む)は人類「生き延びる」には必然である、と説く。この世は予定調和はなく、予測不可能である。生物は多様性の変化に耐えてきた。そこには無駄で、非効率がある。人間の社会も生物の多様性的な生き方が必然だ、と説く。「選択と集中」を続ければ必ず滅びる。世はカオスであり、フラクタスであるが結論である。イノベーションは「ガラクタな知識と行動」が生み出す。好奇心の「面白い」が一番有効だ、と。

 

 

 

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2019年6月14日 (金)

お役所仕事?

 幼児や、幼少の児童の虐待が目立つ。何とも悲しいニュースだろう。そこに、記者会見が行われる。「そこまでとは気が付かなかった」「配慮が足らなかった」「警察との認識違いでした」「役所間の伝達不十分でした」「縦割りの連絡ミスです」など言い訳は決まっている。

 そこには、「無責任と、責任逃れの言い訳」と、誰もが気が付くし、怒りを抱くのだが。当の本人たちは、その後、平然と地位の降格もなく、給与も減額もなく、平然と勤めが継続出来ている。民間の企業とはまるで違う。これがお役所仕事?

 同じことは、「虐めの検証の言い訳会見」も同じである。ここでは、担当教員は一切、会見に現れないことだ。「校長、あるいは教頭が代弁」する。「教育委員会は証拠を隠蔽する」ことに躍起である。その言い訳や、限界を聞いて、お役所仕事だな、とため息がでる。

 だが、教育の場で、「教員が責任を取らない」ことは教育を放棄していることと同じだ、と思う。未来のある学徒に、示しがつかない、「世の中は無責任で良いよ!」と教育していて、後ろめたさが無いのか?日本の未来に暗雲が覆っている。

<読書>

「集中力はいらない」森博嗣 SB新書

集中力を必要とする場面は、作業や、その効率化だから、そんなのはいらない、と嘯く。本当か?考えることは、分散であり、拡散事象だと言う。もっともだが。その「考える」何かの創造する作業にはやはり集中力は必要だとボケ爺は思う。カフェで、周りの雑音が消える、するとそこに、あれやこれやの思考回路が生き生きと作動する。だが、その場では決して答えは出てこない。答えは、忘れたころ、ふとした時に生まれる。集中した時の思考が、想像を生むことが多いことはボケ爺の経験から明らかだが。なんと言っても、集中力は要る。

 

 

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2019年3月14日 (木)

千利休で考える

 突然に千利休を持ち出して、「ボケ爺、遂に狂ったか!」と言われそうだが。前にも話したように、イノベーションとは何か?を生涯の課題としている。

 その中で、イノベーションに必要な作動(作業)として、「抽象化」作動が必要だ、と考えている。今までのイノベーターは、多分この作業に優れた能力を備えているのでは、気になっている。日本人がなぜ、今日、イノベーションに後れを取っているのか?明治維新や、戦後復興での日本人は「物まね」が巧いのだ、と言われながらも、実用段階のイノベーションは現実に存在していた。

 だが、今日、日本人のイノベーション力は世界から見ても下降している、と評価されている。なぜだろうか?そこがボケ爺の課題である。

 日本人の抽象力は高いと思っている。千利休が冴えたる人物だ、とも思う。イノベーターの代表選手である。「詫び、寂び」=「無言の前衛」だ。には、皆様も賛同される、と思っています。江戸時代の浮世絵、明治維新での画家たちも。

 前衛は、絶えず変化を求めて走り続けなければ、前衛とは言われない運命なのだ。変化を求めて走り続ける悲哀が、そこにはなければならない。そこには、「スピードとエネルギー」が必然として必要だ。疲れる、そこには「一期一会」を飲み込む勇気が必要だ。

 だから、無言のスピードとエネルギーの持ち主の利休は、それを恐れた秀吉に殺(切腹)されてしまった。

さて、今の日本はどうだろうか?太平の今日、「形式美」すなわち「管理された教科書」を学び、管理されることに満足する「マゾヒスト」を快いと感じている。

前衛という先頭を走る勇気をなくしてしまったのではないだろうか?

<読書>

「千利休 無言の前衛」赤瀬川原平 岩波新書

千利休を路上の前衛化の赤瀬川原平が評する組み合わせが、何が飛び出すか?楽しみだ。ところどころ脱線するが、急所は鋭い。イノベーターの研究には十分な示唆に富んだ評論がある。満足な一冊である。だが、奥が深い。

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2019年2月18日 (月)

イノベーションの効率化?(その2)

 イノベーションの重要性は、世界共通の課題である。だが、 世界経済フォーラムが発表した2017年版の「イノベーション能力」について は、14位から21位へと大きく順位を下げる結果となった。その原因は?

  高度経済成長期以来、日本は欧米先進国 への「キャッチアップ」(目標があった)を志向する中で、「効率と品質」を追い求めてきた。1990年代前半のバブル崩壊後は、無駄を省いて短期的な業績や成果を追求する姿勢を強めた。その結果、「過去にないことを独創したり、多少の無駄を承知で試行錯誤したりするような、創造性に不可欠な「思考態度の後退」が起きた。つまり「思考停止」現象である。

 「すべての事業・製品・サービスの目的、それが豊かさ、幸せ、快適、感動」である根本的な問いを考え抜く思考態度こそが、AI時代の人間に必要な思考力である。それは人間学であり、哲学である。

 「あらゆるスポーツや、芸術は、頭で理論を覚えただけでは出来ない。何度も繰り返す訓練が必要だ。フィギャスケートの紀平嬢の様に練習の虫が、本番で臨機応変に演目を変えることが出来る。不思議ですよね。そう訓練以外に方策はない、と思う。創造も同じことで、違和感や、感動が何処から来るのか?毎日、毎日の「思考鍛錬」を積み重ねて、五感全体で応答できる「哲学体質(Why)、芸術体質(What)」を教育と訓練をしなければならない。と、ボケ爺は考えるのだが。即物からは何も生まれない。

<読書>

世界経済大いなる収斂」リチャード・ボールドウィン 日本経済新聞出版社

このような技術革新の歴史書が、創造性の思考訓練に役立つ、と思う。直接の創造性の教えは無いが、物のとらえ方、味方が、心地よく伝わる。感動がいい。さらに読者は、そこに、「何故か?」を付け加えるからだ。

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2019年1月21日 (月)

梅原猛を偲ぶ

 ボケ爺などの凡人が、梅原猛大哲学者の死を悼み、それを偲ぶなどおこがましい。だが、一言だけ、偲びの言葉を述べさせてもらいたい。

 ボケ爺は、田舎から東京に出てきて、大学生活を送り始めたが、如何せん暇であった。田舎の高校生時代の友達の何人か東京に出てきたが、場所が離れていて、会うことはままならない。大学の友達も簡単には作れなかった。部活も今一気が乗らない。

 暇なボケ爺は、本屋で手に取ったのが、三木清の哲学ノートであり、梅原猛の、確か「哲学する心」だたか?だが、古代日本の思想を中心とされていたので、読む機会はなかった。

 ボケ爺は、ご多分に漏れず西洋哲学、デカルトの「方法序説」に魅せられた。梅原哲学は東洋哲学であるから、この哲学とはほど遠いと思っていたのだが、何時だったか、何処だったかは全く失念しているが、「デカルト哲学を賛美」されていて驚いた。

 方法序説で言えば、2つの教えがあると思う。一つに、「部分に分解してみよ」から始まるロジック。もう一つが、「疑え」疑い続ければ、そこに仮説が生まれる。その仮説を証明せよ、だったと思っている。そのロジックを梅原哲学は踏襲して、日本学を展開されていたのか、と感嘆した。西洋哲学が東洋哲学に通用するのか、同一視して考えられるのかは凡人のボケ爺には、未だに解らない。もしそうならば、ボケ爺の慰めとなろう。

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2019年1月11日 (金)

シンポジウム・大学改革

 日経新聞社主催で、大学改革シンポジウムが開かれた。題は「企業人の経験をいかす」。有名な池上彰のモデレーターにより、企業人経験者が、学長、あるいは理事長である大学の変化を議論された。

 立命館アジア太平洋大学、学長「出口治明」。大阪府立大学、学長「辻 洋」。北海道大学、副学長「西井準治」の出席であった。いずれも企業経験者である。

 いずれの大学も、結構変わった試みを進めているような話である。ボケ爺の感想は、予想以上に進んでいるように思える。然し、いずれも、「外堀から攻めている」ようであるが、内部からの改革が見えてこない。多分、文科省の縛りがそれを許さないのだろうか?

 研究者の数は少なくなってきている。世界的には、企業と同じであるが、日本の大学だけが、一人負け、と状況だ。残念な日本の大学。もっと大胆な改革が必要な時であるのだが。いずれの学長も、口をそろえて言うことは、資金が極端に日本の大学は少ない。国の予算が世界の平均より少ない、GNPからでは、ボトムを泳いでいる。日本では、大学に寄付をする人が少ない、が原因だそうだ。

 出口学長の話では、今の日本の優秀な人材の養成はそのまま進めればいい、だが、変人や、変態の人材も育てなければならない。偏差値か、優秀な人の進学大学と、平均値な人材の大学で、自由な議論の出来る大学も必要だ。そこには、海外との交流を盛んにすべきだ、とか。

 それに、企業も注意が必要だ、と。それは、採用に際して、面談で「好い人、協調性のある人、大人しい人、大人しい人、など」の採用ではなく、面談をやめて成績だけで採用すべきだ。大学の成績がいい人はそれなりに学問をしてきているし、考え方もシッカリしている。企業にもくぎを刺していた。そんな人に尖った人がいるはずだという。

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2018年10月26日 (金)

日本の異常報道

 安田純平氏が中東の武装組織から解放された。ジャーナリスト(NHK-TVをはじめ、その他のTV、新聞、など)が、どこかの英雄かのように、そのハシャギぶりには、日本人感覚か、日本ジャーナリズムかに違和感を覚える。異常である。

 安田氏は、自己責任で、危険な地域に行って、その報道が日本にもたらした功績もないにもかかわらず、今回の釈放でお祭り騒ぎである。

 一体、安田氏は、日本にどのような功績を寄与したのであろうか?また、両親のインタビューでも、「息子がご迷惑をお掛けしました」とは一言も、謝らない。親も親なら、息子も息子だ、と言うことか?

 安田氏の取材で、日本国は、何を得たのであろうか?何かが得られるとしても、何も得る前につかまっている。国としては、大変に迷惑な事であったことは間違いない。裏でいくらの税金がつぎ込まれたか?これは、政府は立場上、公表はできないだろうが。

 冷静になって考えてみれば、こんなに騒ぐことでないことは誰でもが分かるはずだし、この騒ぎ様に、日本人は異常を疑問も感じなくなったことが異常である。残念な日本!

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2018年5月26日 (土)

「長いものには巻かれよ」とパワハラ

 今の日本の世は、隠蔽がまかり通る。そして、隠蔽体質は日本の根源に関係するのだろうか?昔から「長いものには巻かれよ」の熟語(慣用語)がある。不祥事は、この慣用熟語に従ったので、「目くじらを立てる」ことは無い、と。つまり簡単に言えば、「パワハラ」には耐えなさい、が日本の日常的慣用である、と言えるのか?

 一連の大企業の不祥事(決算改ざん、データー改ざん、など)も、トップの過度なパワハラである。不祥とは隠蔽の事であり、「長いもの」に、部下は忖度をしなければ会社人生は続けられない。

 今日の安倍政権は安倍首相の一極集中により、立派に一極のパワハラが通用している。人事でパワハラをする。自衛隊日報も、森友・加計の財務省も、全ては安倍首相と首相秘書団からのパワハラで、部局は生きるために隠蔽に走る。だが、隠蔽は官僚が悪くて、政府は悪くない、との二重構造で誤魔化し、幕引きを図ろうとしている。

 スポーツにおいても、同じことだが。監督コーチの「長いもの」のパワハラに選手は「巻かれ」なければならない。試合に出られないからだ。レスリングの伊調選手問題も中途半端なままだ。その「長いもの」は、事実を隠蔽したままで健在である。

日大アメフト部も学長、広報から、監督、コーチの「長いもの」の保全のために隠蔽がまかり通っている。それにしても、学府の日大トップの人格はどこに存在するのだろうか?違反プレーの選手(20歳)の学生は明らかに「パワハラ」を受けていた。記者会見は実に見事だった。理路整然とした抜けの無い、しかも滑らかな説明は素晴らしい。企業人のプレゼンよりも上手かった。それに比べ、年長の監督の説明、コーチに至っては、何が言いたいのか、しどろもどろで内容の理解が難しく、おどおどした狼の遠吠えの様で醜い。学長もしかりだが。パワハラからの忖度が故である。

学校のイジメ問題も、常に隠蔽が働く。校長と言う「長いもの」にパワハラの構図があり、下々の教員はそれに従ったまでだ。

然も隠蔽の中には、忘れがちだが「責任感を放棄」した人物像が存在する。ある人はパワハラの中にも正義心(感)あるはずだと言う。さて、日本の「長いものには負かれよ」には、正義感(責任感)無視されて、正論か?

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2018年5月20日 (日)

天才はいる。

 将棋界に彗星のように現れた「藤井聡太」である。高校に入学した途端に、プロ7段だ。強さの秘密は、将棋を良く知らないボケ爺には分からない。評価できない。

 しかし、彼の話する言葉には、難しい言葉がすらりと飛び出す。この語彙力は、斎藤孝明大教授が、常日頃、主張されている様に「思考の原点」である、と。この能力がなくして、物事の判断や、理解は難しい、「論理の組み立て」も難しい、と。

 歳から、語彙力からして藤井聡太の記憶力は並ではない。どれほどの定石を覚えているんだろうか?先ずは定石を覚えられなければ話にならない。当然、将棋ソフトゲームでの訓練もするようだが、彼は自ら、将棋の問題集(演習)を作っている。

 それに、一戦一戦の戦いの時間の長さは信じられないほど長い。12時間ほども集中力が続く。それだけ長く続けられることに脅威を感じる。ボケ爺など、1時間がせいぜい良い所だが。

 よく言う「好きこそものの上手なれ」つまり興味、それに情熱、気概、集中力、などは当然である。どうすれば、この様な人物が育成できるのだろうか?方法があるのだろうか?もし無ければ、藤井聡太は天才だ。ボケ爺の人生経験からして、スポーツの短距離走の能力と同じで、特に、記憶力は育成で来るものではない。ボケ爺の記憶力は全く能力不足だ。つらい人生を歩んできた。

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2018年3月 7日 (水)

平昌オリンピックの余韻と日本人

 まだまだ続く平昌オリンピックの話題で盛り上がっている。特に団体戦の活躍の話題が多い。

 ボケ爺は、一連のオリンピックの活躍の件で、コメントしたが、個人戦と団体戦の違いはある。日本は団体戦に向いているのではないか?小平さんや、羽生君などは別として。金でなければ後は一緒と主張する「張本氏」の弁は良く分かる。

 ビジネスの面では、日本電産の会長(永森重信)は、「一番にならなければ皆一緒」と常日頃社員に口酸っぱく訴えている。「リーダーこそ生き延びられる」、と。2個の高木菜那は、会長から、特別ボーナスをもらっている。本人曰く、永森会頭のこの言葉に、頭に叩き込んで練習してきた、と。

 AIの研究会に出席した。AI(ディープラーニング)や自動運転などのソフト開発を見ると、日本人のジャーナリストは日本も検討している様に書き続ける。が、実態は、トップから3周遅れだろう。

 何故か?ソフトウエアの世界は、「個人戦」だ。日本はその教育を怠っているし、個人戦で勝てるこの分野の秀才は出てこない。工業用ロボットだとか、機械制御だとか、計測器制御などは、なるほどソフトウエアの勝負でもあるが、ソフト開発の「団体戦」である。だからこの分野は勝てる可能性が大である。

 ボケ爺の事業分野でも、このソフト開発で、いや、と言うほど辛酸を舐めてきた。アメリカしか知らないが、兎に角できる。スバ抜けてできるヤツが居る。今、顧問しているアメリカ企業のソフト開発VPも、ずば抜けている。さて、日本はどうする?

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