2023年12月20日 (水)

『集中講座 夏目漱石』を読む

  漱石研究はボケ爺の趣味だ。『吾輩、漱石はビジネスマンである』(Amazon-Kindle)で、イノベーションの発想を、漱石から学んだ内容である。12年間の漱石の小説には何一つ同じパターンは無い。絶えず新しい手法(イノベーション)を世に問うてきた。

  主題の漱石研究も同じ趣向だ。だが、ボケ爺より、さらに深読みであった。講師は「阿部公彦」だ。取り上げた小説は;

『吾輩は猫である』を「胃弱」のから読み込んでいる。大ヒットした小説であり、自分の心理状態を猫にしゃべらせるユーモアは表向きである。実は胃弱で苦しんでいたのだ。講師の指摘のように胃弱をこんなに書き込んでいるとは気が付かなかった。新しい発見だった。

『三四郎』を歩行の仕方から読み見込んでる。ボケ爺も同じ経験を回想できた。田舎から東京を目指し、何かを成したいと富士山を列車の中から眺め、未来に夢を抱いた。友達から、東京生まれの女性を紹介された。その頃のデートは「目的無く歩く」「話をすれば、ハイカラ東京の女性、と田舎者の僕」とは、今一つかみ合わない、であった。三四郎と同じであった。

『夢十夜』不安で複雑な世の中を、読み込んでいる。この小説が出来たころの明治政府は不安定な動きの時だった。今日と同じだ。岸田首相政権の曖昧は発言と、筋が通らない説明、行動を「夢の中」で奇妙な物語となる。

『道草』は腹の具合とそれに伴う精神不安を、読み込んだ。ボケ爺の幼少時期の何か不安を引きずり、親や、兄弟との関係、友人なども加わり、死を迎える時になって、片付いていない人生を回想できた。

『明暗』は表層から裏を読み取ろうとのやり取りで、読み込んでいる。日常会話の中に、表と裏が潜んでおり、表だけでは不安がつのる。裏を知りたいがそれを探ることはそうたやすいものはない。奥の深い深い小説を改めて確認できた。

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2020年10月16日 (金)

人生は還暦過ぎてから

 APU総長の出口治明氏は「還暦からの底力」と勇ましく「哲学と宗教全史」の大著を世に説いている。他に、元中国大使の丹羽宇一郎氏(81歳)は「死ぬほどの読書」と、これまた勇ましい。

 外山滋比古氏は、御年93歳で、未だ執筆稼働中である。東大生の毎年のベストセラーに選ばれる「思考の整理学」は未だに健在。知力の元は「老人は悪人であるべし」と。

その源は「生い立ちに起因」しているらしい。幼少のころから異端児。このボケ爺に通じる。利子を生む知識は皆無。だから知的長寿となるか?異端児老人、万歳!

次の最近読んだ本は、生い立ちが人生論に関係している、と思わせる。

<読書>

「100年人生七転び八転び」外山滋比古 さくら舎

=知的思考錯誤=との副題。英文学者の人生エッセイ集である。本著は、92歳の時の著述である。記憶力に自信がなく、学業優秀は無い、と。親との確執から中学は寄宿舎生活。反骨精神が養えられた。記憶の悪さが幸いして過去に拘らず次々に新しい事に挑戦出来た。反骨精神が、他人に迎合することなく、自由な発言に躊躇する必要は無かった。歳をとる不安を逆手に、悪人であるべし、と。楽しいことは何か、を考えていると次々をアイデアが浮かぶ。兎に角、好きに、自由に考える、と。100歳まで考え続ける、と豪語。

<読書>

「類」朝井まかて 集英社

森鴎外の末っ子の名が、「類」であり、類を中心に鴎外の子供たちの一生を綴っている。優秀な父を持ち、優秀な兄を持ち、放蕩だけれど文学に才のある上の姉、何事も完ぺきにこなせる次姉の囲まれた家族構成。末の「類」は鴎外の年を取ってからの子供。パッパからは一度も叱られた事が無く、可愛がられた。勉強は出来ず、中学中退。「不肖の子」を自任しながらさまようよう青年時代。母から、絵画を進められ有名な先生に習う。パリへも留学。だが絵画も目が出ない。文学も鳴かず飛ばず。だが、4人の子供を、献身的で完璧な妻のお揚げで、何とか育てあげる。偉大な鴎外の子供たちに、色々な事件が起きる。少々誇張しつつも、克明でリアルな表現で、500頁をも一気に読ませる作家はスゴイ、名作だ。

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2019年4月21日 (日)

下りる

 4月だが、五月晴れの日が昨日から続いている。我が家のつつじの真紅の花が眩い。満天星つつじもソコソコ咲いている。ハナミズキの時期でもある。春の、この華やかな四季は毎年訪れる。小鳥の春、いたるところで新生児の鳴き声が、動物の流転を告げる春。これが動物の世界だ。

 図書館の近くの中学校の校門近くの楠木は昨年末に、バッサリと剪定されて、高さは昔の半分、枝は、ほとんど切り取られてしまってこれで良いのか?と思っていたら、見事に新芽が芽生えてきている。痛みつけられてもまだ生きる勢力がある。これが植物だ。

 それに代わって、定年後の人間とは、1年ごとの四季で、何が変化するのか?目標を立て生き甲斐を感じることが大切と言うが、何事も今までの如く進まない。

 それを、人生を「下りる(降りる)」とか、「下る(山を下る)」とか言うらしい。そんな慰めの本が沢山出版される。又は、「老人パワー」なる老人の勇ましい生きざまを啓蒙する本も、結構多い。だが、ボケ爺は何れも賛同はできない。

 老人は体力も、頭脳も確実に衰えてきている。ただ、その差はある。無理して衰えに逆らわない方が好い。生物には寿命がある。その内、動物の方がそれをはっきりと意識させられる。だから、その証に子孫を残す本能が明確だ。植物は、そこが曖昧だ。その分、四季を華やかに飾ってくれているのだろう。

 老人の車の運転事故の悲惨さは目を覆う。事故を起こす老人は、典型的に「下りる」ことに逆らっている人だ。過去の栄光にしがみ付いている人であろう。先日の池袋の87歳の老人の事故も過去の栄光を引きずった人の典型的な事例であろう。

 老人よ、過去にしがみ付くな!頑固を捨てよ!老人の出る幕はない。若者に従え!

 

 

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2019年1月30日 (水)

人間の性(サガ)

 人間には自我がある。この自我が、なかなか厄介なことを起こすことが多々あるのだ。人間は、自我を主張したい、否、主張し続けてしまうというエゴが生まれる。

 自我をエゴと言うのは、エゴとは、他人が認めてくれない、他人から見る(聞く)と認めるには困難な状態も事である。「彼奴は、エゴを通したがる、我儘なエゴイズムな奴だ!」と言われる。

 夏目漱石も、自我と戦って来た作家であった。自我と個人主義との違いを主張もしてきていたが、理解されることは難しかった。

 小室圭さんと、秋篠宮さまの長女・眞子さまの婚約延長の件で、それである。「それ相応の対応をするべき」とする秋篠宮さまの問いかけに対する回答に。先日、やっと、小室圭さんが「元婚約者とのやり取りは、解決済みである、と。」文書で出された。

 だが、関係者や、国民全体が、「それ相応の」の意味とは少々違和感があると、感じたであろう回答内容であった、と思う。ボケ爺は、此れでは益々泥沼だ、と思った。

 何故か?小室圭さんの主張は、自分たち(圭さんとお母さん)は、「借金の話は、過去に解決していたので、今更持ち出す元婚約者が悪い」と、自分たちの一方的な主張であった。つまり、「皆様、解決しています。それを認めてください」との自己主張、つまり、これは自我である。ボケ爺も、こう主張したいことは良く分かる。しかし、これは、一種のエゴです。回答を発表前に、元婚約者と合意を得なければ、国民は納得できない、という国民側の思いが理解できてない。それを理解できず「先ず、こちらの主張を聞いてくれ」では一方通行となってしまう。すれ違いである。

 自我というものは、このように一方通行のすれ違いを起こしてしまう。漱石の悩みもここにあった。

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2018年12月 8日 (土)

紅葉に十色

 今日も残っていた庭の剪定作業。高さ70cmほどの小木の早咲き椿が二輪咲いている。残念ながら、一輪は、首から落下している。口を細めて突き出した少女の様な、茶目っ気の形をしている。単衣で、ピンク色である。根本がやや濃いいピンク、外環に行くほど淡いピンクに、美しいグラディエーション。夏場の夕顔の様だ。源氏物語の夕顔をも想像させる。

 実篤公園の落ち葉のジュータンの道を、枯れ葉を足で踏みこむと、乾いた音が聞こえる。その枯れ葉を一枚、一枚、拾っては、太陽に当ててみる。その色の複雑さ。形の複雑さなど、多様である。これが生物の多様性の世界か?

 都内のイチョウの紅葉は、集団では黄色の単色に見える。だが、一枚一枚は全く違い色であり形だ。今年のイチョウの葉は、昨年よりは小さい、と言う。又、台風襲来の潮風で、少々淵が汚れている。

 サラリーマンを生きて来たボケ爺の人生も十色であった。仲間も十色の人格を確認して戦友を組み立てて来た。思い出す顔もちらほら。

江上剛の作品に「人生、七味あり(人生七味とうがらし)がある。ボケ爺の言う十色は、恨み、つらみの「七味とうがらし」ではない。人はいろいろ、多様性の十色のことである。

<読書>

「妻恋坂」北原亜以子 文芸春秋

江戸市井の艶っぽい話、女心の艶っぽさ。男意気に女の艶が恋を生む。恋心、艶にも、色々。江戸には、恋を生む坂がある。淡い恋心が、坂で燃えたり、冷えたり。忍ぶ恋に悲しさや。筆者の細やかな筆致で描き出す恋の十色。

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2016年10月16日 (日)

漱石の妻

 NHKの土曜ドラマ(午後9時)の「漱石の妻」の全4回の放映が昨日終了した。素晴らしく、良い出来であった、と思う。実に忠実に再現されている。元ネタは、「漱石の思い出」で、妻、鏡子と、長女の夫、松岡讓の筆録という。ボケ爺は、この本はまだ読んでいない、ので、この感想は言えない。しかし、

「漱石の妻」鳥越碧 講談社 を、二度程読み直していた。この内容と実に似た展開であった。

漱石の妻は、ソクラテスの妻と同様に「悪妻」との悪名が高い。本当にそうか?女流の本著者が、同じ女性としての見方から、見事に「漱石の妻、鏡子」をあぶりだした。

明治の時代からすると、鏡子は、結構オープン(漱石曰く、自然児)な人だったようだ。現在の男女平等までとは言わないが。漱石は、同僚、教え子や、若者物などの出入りが多い。それを受け入れていたことは良き妻であったはずだ。しかし、漱石は、外向きの顔はいい人であった。だから来訪者は、妻の対応が気に入らないのだ。

この著書は、男と女オープンな会話、否、夫と妻の、妻から見た、良い妻とは?の悩みの実態が生々しく描かれており、実に考えさせられる。外からの目、夫の真実など心は解らない。信頼が相互に得られない。これっポッチも理解し合えていない人間の心の葛藤がリアルである。知れば、悲しいかな。

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2016年9月24日 (土)

無名

 以前にも、この主題で、書いたことがあった、と思い出す。しかし、元のネタは違っていたはずだ。改めて「無名」を考える。と言うのは、

 「無名」沢木耕太郎 幻冬舎を読む。一気に読む。作者の父の介護を通じての、父の思い出と息子としての作者と関わりに付いて、実に丹念に掘り起こしている。実に巧みな構成で、読者を惹きつける。さすがにノンフィクション作家の大御所である。リアルであり、親身な親族のほのぼのとした父の思い出である。

 父は、無名であって、平凡な父であったらしい。しかし、本の虫であり、読書しか趣味が無かったらしい。病気も多く患っていたようだ。仕事は一種の職人であって、真面目で、器用ではあったようだ。

 ボケ爺は、作者の物語に状況を合わせて、ボケ爺の親父は如何であったかを重ね合わせて、親父との出来事を思い起こすことに、深い感銘を得た。いやはや、歳を取るとは、昔を思い起こすチャンスが与えられる。愉快だ。無名な親父を、無名なボケ爺が、ここまで思い起こせたことに、この本に感謝する。

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2016年3月18日 (金)

頭の体操は?

 頭の体操で一世を騒がせた多湖輝氏が無くなった。1966に頭の体操が出版されて、ボケ爺も、これが解けると、頭が良くなると、試みたが、全く歯が立たず、失望して落ち込んだ思い出がある。

 先生は、心理学者で、千葉大の教授であった。心理学者なら、気落ちする読者を作ってはならない、恨んだものだが、追い打ちを掛ける様に、シリーズ化された。

 更に、ボケ爺は、この落ち込みで再生は叶わなかったが、「60歳からの生き方」なる多湖輝氏の著書が出た。きっと慰めの本であろうと、読むと、期待に反し、もっと追い打ちを掛けられた。小生にとって、なんとニックキ著者であったが。90歳、心理学者として、十分に長生きをされた。ボケ爺もこれ以上イジメられることはなくった。合掌!

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2015年11月15日 (日)

11.13.2015のパリテロ

 夕方、雨が上がって、三日月が西の空に輝いている。パリでみえた13日金曜日の夜も、三日月が輝いていたのだろうか?

まさに、不吉な13日金曜日の夜であった。パリの繁華街で同時テロが発生した。レストランで4か所(すし屋も含む)、サッカー競技中、劇場でコンサート中である。129人の死亡の犠牲となった。

IS(イスラエル国)が、犯行声明を発表したのだが、今一、信ぴょう性が無い。声明が遅い、内容が、記事の拾い読みである。どう見ても、IS本部が指揮したわけではないのだろう。フランス支部の単独行動では?とすると、アルカイダ―系も含まれているかもしれない。

事件から思うことは、「サミュエル・ハンチントンの文明の衝突」である。その中で、これからは、「多様な民族と、その文化が絡み合う世界となる」。「宗教ではイスラム教が問題に」。

安倍首相は、性急に、単純に「テロに対応する。その為の支援もする」。と言うべきではない。安保法制で、アメリカの支配下にはいり、世界に「歯には歯を」の硬派発言で、気を吐くと、日本もテロの標的になってしまうだろう。慎重にしてもらいたい。

<読書>

「巡査の休日」佐々木讓 角川春樹事務所

犯罪者を取り逃がしてから、次から次へと、色んな犯罪が続く。仮想の置き方に、思い込みがあったりして捜査が混乱する。その構想の大きさに作家の創作に感動する。結果は一度に解決する結果となる、が。それも爽快だ。

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2015年11月10日 (火)

漱石のミステリアス

 夏目漱石の「こころ」は今さら申すべきも無く、名作中の名作である。ボケ爺は高校の時、大学の青春時、そして今と読みかえす。男子の「こころ」の葛藤が良く表現されている、と気に入っている。

 そう単純ではない?先生の遺書の最後の文章が、「ややこしい」、と、気が付く。ミステリアスだ。「遺書(手紙)を公開されてもいい、但し、妻にだけは秘密だ」。その理由は、「妻が己れに持つ記憶を純白に、なるべく保存したい」、から怪しくなってくる。

 ミステリアスの一つ目は、妻が死んでからでなければ手紙を公表できないのだが、青年は公表する。その理由が、先生が「なるべく」と、言っている、「絶対」とは言っていない。これは後から挿入(風船)されたのだ。実は、妻「静」が生きている内に公表してほしかった、のではないだろうか?

 二つ目は、「妻が己れに対して持つ」と。「妻が過去に対して」と書かれたなら、先生の過去であるが、どうやら、「妻自身の過去」となる。Kから「静」を奪ったのは、先生だった。その為に、Kは自殺した、とされてきた。

「静」が、先生のKへの嫉妬を利用した女性としての策士からの「政略結婚」であった、とすれば、「静」もKの自殺に加担したこととなり、ミステリーとなる。

 「己れの」も風船である。漱石は、「こころ」の作品に、男女の、より複雑な「もつれ」を表現したかったのではないか?単なる青春小説ではなく。漱石は、何時、読んでも、奥が深く、新鮮な発見がある。

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