2009年12月28日 (月)

漆工芸(ジャパン?)

 帰国した当時は寒波が押し寄せてどうなる事かと思っていた。田舎のお袋が、入院しているので、見舞いに行った。以前のような危機的状況は脱したようだ。その時の新幹線からの車窓は、富士山が、その寒波のおかげで美しく観えていた。

 

平塚市

近くの平野からの富士山は、東の崩れも雪が積もって、雪の白さの陰影に、思わず感激の声を出しそうになった。富士宮駅を過ぎてからの富士山は、完全に全景が見える。やはり美しい。日本は富士山を誇りとして、富士山を日本人は、日本の故郷と思うことに、異存を挟む人は少ないと思う。ボケ爺も海外生活で、富士山を意識するようになった。

 日本の誇る工芸品に、「漆」をあげる事に異存を挟む人も少ないと思う。漆は又の名を「ジャパン」、とも言われると言う。タイミングよく、「漆の文化史」四柳嘉章 岩波新書が発売になった。ボケ爺はITと日本工芸(美術)とを結びつける新しい美術に挑戦しようと思っていることは、すでにこのブログで告白している。その中から、漆に大変に興味を持っている。自然な有機接着剤でも在り、塗装剤でもある。縄文時代からの工芸である。

 そんなことを風潮していたら、首都大学東京、社会科学研究所の方から、「伝統産業におけるイノベーション:株式会社阪本乙造商店の事例」と言う論文を送ってきてくれた。阪本乙造商店は漆工芸を産業化、工業化に挑戦している姿が、鮮明に述べられていた。美の付加価値と、環境課題の解決から、この漆が工業化でイノベーションの中心になること、ボケ爺、請け合いである。更なるチャレンジに心強い味方を得て、楽しみが増えてきた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年4月 5日 (日)

ニュー・コンパクト?

 「ニュー・コンパクトの発想」、と耳慣れない言葉に出会った。企業メセナ協議会(福原義春会長)の政策提案らしい。「Community Policy for Action」から作った造語だと分かった。政策の内容は、文化に集中投資して、地域を再生し、人間の生活に見合うコンパクトな社会を目指す。と言うことだ。

 経済危機に触発されて、考えられた政策のようである。ボケ爺の主張とも一致するところが大いになる。「江戸文化も、同じように経済危機からの産物で、貧しさを、清貧に浄化していった先輩の知恵に学ぶところが多い」と、常日頃、主張している。

 日本の一人当たりの、文化予算(787円)は韓国の20%しか無いようだ。GDPの比較からして、10%以下となってしまう。近代日本は如何に、文化(心を支える)から遠ざかってしまっているか。労働のみが是とし、競争第一主義の金本位社会となって、人間の心をおろそかにしている事が良く理解できる。今回の提案は、せめて、韓国並の5倍の予算を実現したいと、言う。

 1930年代のアメリカのニューディール政策でも、文化予算が増やされた。無料講演を全米で展開する。公立大学の劇場を、新進作家に解放、支援する。実験的な戯曲を競って求める、など。観賞客の創出は、2500万人が、作品を鑑賞して、13千人の俳優と技術者が雇用できた。そして、830本もの作品も出来上がった、との実績もある。今日のアメリカ文化の基礎を築いた。

 いつの間にか、文化を大切にしない国になった日本、この際、政府は良く考えてもらいたい。

<読書>

「制服捜査」佐々木譲 新潮文庫

街のポリスボックスの制服警察官は、直接逮捕だとか、捜査ができないのだが、地域に未着した情報から、捜査官の裏を掻くような推論によって、犯人に自首に導く手法は、愉快である。

| | コメント (0) | トラックバック (4)

2009年2月26日 (木)

米アカデミー賞

 アカデミー賞、おめでとう。手放しで嬉しい。このような、文化面の活躍が高く認められることは、本当に良い事である。作品の内容は全く知らない。滝田洋二郎監督「おくりびと」加藤久仁監督のアニメ「つみきのいえ」いずれも人間の深遠に迫っている。乾燥した人間の心に、メスを入れたことであり、世界中で認められる事は、人間共通点があるのだろう。

 ボケ爺は、全ての現象は波動であると思っている。経済も、地球温暖現象も、気象異常も、量子も、生物の生態も。長い周期もあれば、短い周期もある。ノイズもある。それらが、重なり共振する事もある。共振の時は深刻だ。バランス作用が必要となる。

今回の経済危機は、人間の欲望の拡大と貧困の拡大の周期が一致して起こしたこととも考えられる。歴史を見てみると、江戸時代の周期的に起きている経済危機。自然災害と、政治における権力の欲望が周期的に一致した事で大きな社会混乱を起こしている。不思議と、人間は危機を受け入れて、結構、心が豊かになっている。心豊かとは、そこには、文化が拡大している。芝居や、版画や、お祭りや、お参り旅行、など、文化面が盛んになるのだ。

バランスを取るように働く現象が、文化だと思う。だから、映画とか、文学とか、絵画のような芸術、音楽芸術、デザイン、アニメ、歌謡曲、何でもいい。体で表現できるものだ。それが文化であり、バランスを保つ(共振を減衰させるように作用する)には文化が重用だ。

品格も、清貧も、形而上的な精神論では解決しない、関係ない。ボケ爺は、今回のアカデミー賞が嬉しい、これを励みとして、多くの人が文化(芸術、アニメ、映画、デザインのような遊ぶ空間)に目を向けるべきである、と思っている。職人のような世界が良い、と思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年11月16日 (日)

聴覚派、視覚派

 先日のブログで、韓国人は、視覚派であり、日本人は、聴覚に強い感がすると記した。韓国で、よく山登りをする。しかし、小鳥の声に驚く事はない。聞こえていないのか、小鳥が少ないのか。それ以上に風景が気になる。秋の紅葉時にも、美しい紅葉に見とれて、聴覚が働かないのか、と疑って、今日、雨上がりの小春日に山に行ってみた。雫や、霧と紅葉の絡みには堪能したが、小鳥の騒ぎはやっぱり聞こえなかった。

 思い出すことに、東京の実家近くでは、特に秋口、時雨の後など、木の実を争って、啄ばむ小鳥の鳴き声にヘキヘキするぐらいにぎやかである。虫の音が気になって、秋を感じたりする。と言う想いに、日本人は聴覚が優れたのかな、と考えた。今、出だした、そのブログでは、匂いの強い木の花のことを書いた。初は沈丁花、秋は金木犀の臭覚派であったか。

 木田元哲学者が、日経新聞のコラムで、「視覚型か聴覚型」で、俳人の分類を試みておられた。芥川龍之介が「蕪村は目に訴える美しさ」「芭蕉には、調べの高さ」と供されたらしいが、ボケ爺は、芭蕉は音にこだわったのかな、と思い聴覚型と想っていた。さらに俳諧には、花の匂いなど、匂いの臭覚型もあり、触覚型の人も居るという。「何所やらに 花の香すなり 小夜時雨」に至っては、分類は無理のようだと締めくくられていた。

 ケンブリッジでの経験では、5月の初めだったと思うが、小鳥の騒ぎで目が覚めた事が印象に残っていて、イギリス人に尋ねたが、一向に気にすることはないようだ。ここでは、右脳と、左脳の発達の違いかもしれない。

 ここで一句、「紅葉が 喜び騒ぐ 雨上がり」「水たまり 落ち葉に夕日 萌えるなり」

<読書>

「俳句脳」茂木健一郎、黛まどか 角川oneテーマ21(新書)

俳句はひらめきだ、お二人。自然への挨拶、自己の発見につながる、まどか。完了ではなく継続の何かである、茂木。「さくらさくらもらうとすればのどぼとけ」まどか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月16日 (日)

私の知らない漱石

 カラマーゾフの兄弟、ドストエフスキー作の新訳が評判で、ベストセラーになるという。文学愛好家には正当な読者に感激をするであろう。また海外からは、村上春樹が人気で多くの翻訳が発売されていると言う。夏目漱石の翻訳は少なくて、海外ではほぼ無名だと言う。ボケ爺は、漱石のファンであるが、良い読者ではないであろう。もっと繰り返し読まなければならないし、もっと深く解釈をしなければならないのだろう。

 一方、森鴎外は、自己主張の私小説者だと断定する。自己主張の小説や、不満を小説にして、鬱憤を晴らしていた人と思える、特に後半の時代小説が特に鼻に付く。

 「三四郎」では、冒頭の上京シーンがいい。ボケ爺の上京と重なるところがある。ボケ爺の親父が言った、「お前には何もしてやれない、やれなかった」と繰り返していた。三四郎もその意味で、多少、田舎では父親の恩恵を受けて育てられたが、東京では、全く通じない、孤独で、東京には、もう一つ馴染めないまま、複雑な社会に巻き込まれていく。ボケ爺は、三四郎から、やっと親父の意味が理解できた。

 「坊ちゃん」からは、偏屈な人の生き方が、社会の体制の中で生きていくことの窮屈さが、ボケ爺の偏屈と重なり、慰められた。勝ち組、負け組みと言う先読みも、さすがである。負け組みのボケ爺には、痛いほど良く理解できる。

 イギリスでの生活は苦痛で、それを逃れたから、より日本的な文学が生まれた、との多くの学説に、ボケ爺は何時も疑問を抱いていた。

 「世界のスパースター夏目漱石」ダミアン・フラナガン 講談社インターナショナルから発売された夏目漱石論は、一風代わっている。が、ボケ爺の疑問に真っ向から答えてくれている。彼は、漱石がシェイクスピアと並ぶ、2大世界文豪だと言う。嬉しいではないか。人間は多様であり、生活で抱える悩みの表現力は、世界ひろしと言えど、シェイクスピアと、漱石以外無い、と闊歩する。

 ニーチェは多くの漱石作品に影響を与えていると言う、取分け「門」に。シェイクスピアも影響を与えたのではないか、「虞美人草」などの仕立にも及んでいると言う。

 「坊ちゃん」は「ドン・キホーテ」に匹敵すると言う。「野分」や「こころ」は「ベニスの商人」と対比できると言う。

 日本人の漱石研究は、「箸の上げ下げ」しか、出てこない。ボケ爺は外国人による漱石研究に期待する。漱石の発想はイギリスから見た日本、日本人と、海外文学の読み込みから想像で成り立っていると思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月11日 (月)

空白は2次元、3次元、無限か

 悩みの一つには、価値創造を脅迫的に迫られている、ことである。企業の生き残りに、価値創造が必然だからである。昨日に引き続いて、発想、想像力を得るために、どうすれば良いのかが、課題である。モトモトな鋳物を作り出すのは大変である。

 「空間」が一つの解となるのではないか、と考えてみた。「音と旋律が生み出す連続の中の空間」、黒のバックを消したあとの「白の作り出す空間」は、思わぬ遇有性に補助線がある。

 空白という言葉が浮かんできた。空白は2次元の世界か、3次元なのか?時間経過を含んだ4次元でもあるのか?空間は明らかに3次元だと思う。空白とは無限を含んだ4次元だと思う。

 価値とは、無限である。無限はクアリアである。クアリアをデザインする。デザインが価値を生む。今のデザイン性は表皮的な形だけではないようだ。デザインの定義が塗り替えられている。機能という概念を加えなくてはならない。そこに興味がある。

 デザインが価値を生むのであるなら、クアリアを研究しなければならないことになる。クアリア、つまり五感の感動であるという。「可能無限」を追求することになる。しからば、「空白」を埋めていく、俯瞰していく「何か」、を見つけなければならない。

 ボケ爺はここまで!これ以上はボケていて、考えることは出来ない。確かに、無限の可能「空白」を考えることが、解に近いことは確かである。それには「空白」が思考の補助線になることも確かである。

 ボケ爺は、昨日、深酔いをして、記憶をなくした「空白の時間」に恐怖を抱いている。何を喋ったのか、何をしたのだろうか、を思い出そうとする努力程度しか補助線を生かせない。トホホ!

<読書>

「氷葬」諸田玲子 文芸文庫

面白いミステリー、と一言。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2007年10月 6日 (土)

ことばのちから事業

 松山市は「ことばのちから事業」推進していると言う。市内の路線電車には投句ポストがあるらしい。今春から、車体の外側に当選句が張り出されているらしい。

 一例を挙げると、「伝えなきゃ伝わらない」「ピカソはピカソ、私は私」「「ありがとう」で心がまんまる」「君の速さであるけばいい」など、思わず元気が出てくるように思える。

 「まんまるい 地球の隅で ゆがみあい」「道路族 天の川にも 橋をかけ」は、健やか食生活協会会長の「堤恒雄」さん、の川柳である。目がご不自由で、川柳の会員の全員が目に障害がある、と言う。本当の意味で言葉が命である。

「社会保険庁 言葉なくしても なんでもあり」はボケ爺の発句である。「安倍詭弁と 病院へ逃避行 これ常道なり」は字余りすぎで、ごめんなさい。「安倍おどる 御主も悪よの! と黒幕は言い」など、簡単だ。出来栄えを無視すれば、川柳は面白い。

今では川柳専門誌「川柳マガジン」なるものがあるらしい。「大物だ 漫画になれる貌を持つ」「百歳に聞けば薬は止せと言う」これらは句にユーモアがある。まだまだある。「核ボタン押すとき終わる進化論」「いい友を沢山もって茶がうまい」「ケータイを切って高原を謳歌する」などなど。

川柳と、俳句の違いは何か、の議論の結論は、川柳は一義的、俳句は多義的、であると言う。ボケ爺には才能がないのだから、どちらでも良い。

ビジネスの場でも、川柳でも俳句でもいいのだが、そのセンスは必要である。提案書、報告書なるものが、Power-pointで作られるのが、川柳であり、ワードで作られるのが、短編小説である。いずれの力も必要であるが、コトの発想には「Power-point」流、つまり、川柳的センスが必要だ、と常日頃考えている。如何かな?

<読書>

「別れてのちの恋歌」高橋治 新潮社

実に巧い。言葉も、ストーリも。「風の盆恋歌」でも感動したが、祭と恋を絡ませて、田舎言葉を巧みに操る作家は高橋を右にして誰も居ないのではないか。余韻も楽しめる。女心を知り尽くしているようだ。また、近年の高橋治は小説だけではない多彩な活動を続けている。高橋治を読もう。(3200円の中の一冊であった)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月24日 (金)

チャイコフスキー国際コンクール、バイオリン製作部門

 今年の6月に開催された、チャイコフスキー国際コンクールで、バイオリン部門で神尾真由子さんが優勝したことは、多く報道されて、喜びに沸いていた様子を知っている人も多いことと思う。その時に、楽器製作部門で、コンクールがあったらしい。バイオリンの部門で、1位(ゴールド)で菊田浩、2位(シルバー)で高橋明が獲得した、という、小さなニュースを見た。日本の職人気質がここまでの力を発揮したのかと喜んでいる。話によると、これ以外のコンクールにも優勝しているらしい。

 日本で、日本人がここまで世界で通用する楽器の製作で、力を付けているとは思っても居なかった。何時までもストラディバリでもないのか、と感慨にふけった。よく読むと、いずれの方も、イタリアに在住されていると言う。つまり、職能流出なのだ。否、修行と言うことであるらしい。出来るだけ早く帰ってきて、これからは日本から、発信して言って欲しい。その為には日本に受け皿がなくてはいけない。さらに、楽器作りで、多くの人が、修行にイタリアを始め、他国にも出て行って日本の楽器製作技能を向上させて欲しい。

 例えば、ヤマハなどの本拠地の浜松市に「楽器モノづくり大学」を作り、バイオリンを始め、手作り楽器のメッカとして、「都市国家」を形成して欲しい。その時は、修行を終えた人々が帰国して、技能の継承を続けると共に、海外のベテランを受け入れて、交流を盛んにするなど、国の後押しが必要である。

 奏でるばかりでなく、裏方の「グローバル政策」も必要である。奏でるに併せ、楽器製作もクラッシックの発信は日本から、と、イタリア、フランス、ドイツと競いたい。「音楽芸術の大国日本」をつくりあげる構想に夢が膨らむ。このようなモノづくりは、大歓迎である。付加価値が高い。

 ボケ爺の近くにも2軒ほどの、バイオリン工房がある。桐朋学園があるからだろう。そういえば、浜松市でなくて、都市国家は調布市でも良いかも知れない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年5月 1日 (火)

五月に入って

 韓国での51日は勤労感謝の日で、休日となっている。昨日と打って変わって小雨が降って肌寒い。それに、昨夜はコテコテの韓流式飲み方で、しこたま飲んでしまい、二日酔いの頭痛は無いが、酒はかなり残っている。雨が小降りになったので、ホテルの裏山に登った。南山にそびえるソウルタワーの東に位置して、南山の森の茂みが押し寄せている。山の峰には城壁があり、結構険しい。うっそうと茂った森は、下草も生えないほどの茂みでもある。

 赤を基調とした、つつじが燃えるような鮮やかさで咲き誇っている。その所どころ、白と薄紫のライラックの花も覗いている。韓国では赤色、黄色、青色の原色に近い花が好まれるようである。その鮮やかさは、国柄、人の気性と合っているのかも知れない。

 日本では淡い色が好まれる。日本人の曖昧さの気性のせいかも知れない。庭の造りもかなり違っている。まだここでは、チューリップの赤や黄色が咲き乱れている。

 5月は、いろんな花もひと通り咲き終えて、若葉の美しい季節となる。若葉の生い茂った森の中を散歩しながら考えるに、外国企業に勤め、意見を通す苦労と、日本企業人として海外現地で外国人に意見を通す苦労とはまったく違うことであるということが分かってきた。海外企業では日本流(意識していないが)を押し付けても通らない、理解されない。海外企業の性格、気質を理解し切っていなければならない。日本企業の現地で長く勤めた方々が、海外通だとは思えない。あくまで日本企業流から離れきれていないと思う。やっとそんなことが分かってきた。

酒も抜けたので、会社に行くことにした。開発、技術の連中はこの休みも出てきている。「ボケ爺、邪魔だ」と言われない程度に、議論を仕掛けることにする。「人となり、企業なり」をもっと理解するためである。

<読書>

「海鳴り」上下 藤沢周平 文集文庫

藤沢の作品はかなり読んでいる方だが、まだ読みきれていない。市井の人々の中に人のぬくもり、性を書かせると、こんなに上手い人はいないと思っている。商売人の世界を描いている。商売の中に仕掛けられた罠、闇と戦いながら、人の情を描いたこの作品も、またすばらしい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年4月27日 (金)

アイデアの発掘法、ボケ爺流

 今朝は、久しぶりに晴れたのと同期して、少し頭はすっきりしている。少しはましなことを書かなくては、とボケ爺は気を使っている。そう言っても、そう簡単に変われるわけは無い。そんなボケ爺がボケ爺として可哀想になる。(自分で言ってはいけませんね。)

 日ごろ気になっているアイデア発掘法の秘密をオープンにしてみよう。といっても恥ずかしいが。TPOを意識的に作る方法です。

1)     変化を捉える。変化を探す。=> 微分法

2)     定点観測をして、その変化を蓄積して、まとめてみる。=> 積分法

3)     会話を惜しみなく繰り返す。ねばっこく質問を繰り返す。=> 粘り勝ち法(あるいはドロボウ法(コソドロ法))

4)     恥を恐れない。恥をかくことを喜びとする。=> 恥かきっ子世にはばかる法

5)     激怒してみせる、相手を怒らす。=> 脅かし法 (ほめ殺し法は効果なし!)(自己興奮法)

6)     静かに、考える。孤独を好め!=> 孤独自立法

7)     時間制限を決めて考える。締め切りを決める。=> 時間限定法(あるいは賞味限定法)

8)     空になる。ボケー、としている。=> 空間ボケ法(散歩が良いので、散歩法)(または、うたた寝法)

9)     狭い場所に移動する。閉空間に追いやって考える。=> トイレ法(閉所恐怖法)

10)             にぎやかな、他人がウロウロしているところで考える。=> ホワイトノイズ法(駅のベンチ法、喫茶店法、街角法)

<読書>

「考えないヒント‐アイデアはこう生まれる」小山薫堂 幻冬舎新書

考えなくて、アイデアが生まれるとは、こんな簡単な方法があるなら是非学ばなくてならない。ところがそうは行かない。「下手な鉄砲も数撃ちゃ、当たる」=> 連発法か?「他人のヒントを盗め」=> 泥棒法か?「考えを与えよ、ヒントを与えよ」=> オープン法(露出症法)。繋ぎ合わせて考える(連結法)、などなど。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

より以前の記事一覧