2017年5月14日 (日)

ミーシャ展

 昨日は、一日雨。NHKの放映でたまたま見たミーシャの絵画の奥深さに引かれ、新国立美術館に出かけることにした。

 ミーシャは、ボケ爺にとっては、パリでのポスター、アール・ヌーヴォーであり、高価なスカーフの基になっているデザイナーとしか記憶していなかった。

1900年のパリ万博と言えば、夏目漱石のイギリス留学の渡航中に立ち寄っている。日本からも、多くの陶器、浮世絵を展示していた。明治政府も日本が世界への参入に力を入れていた時である。その時に、東欧のボスニア・ヘルツェゴビナ館の壁画の習作が残っている。最終的には「オーストリア館」となったのか?戦争の絶えない時期であった。

母国に帰った1912年ごろから、精力的に、大作(4mX6mほどの)を、十数年に、50点ほど描き残している。ここにも、天才は、執着、執念の人の痕跡がある。

人物画描写がリアルである。行く先の社会の不安であり、哀れ、懐疑であり、救いを求めるものであり、等を一人か、二人の人物を通して主題が描き込められている。

久しぶりに感動できた展覧会であった。隣で「国展」が開かれていたが、ミーシャに圧倒されて、それを見る余裕が生まれなかった。

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2017年5月 4日 (木)

日光にて

 2日は仕事をさぼる。NHKで日光の東照宮の改造が直ったらしい。平日だから空いているだろうと、35年ぶりに、出かけることにした。だが、空いているのだろうが、裏切られる。先ず東武電鉄の特急の座席は2電車待たなければならなかった。日光に着いた時は13時になってしまった。東照宮までのバスは、道路が込んでいて動かない。歩くしかない。

 40分ほど坂道を登った。確かに、素晴らしいくも美しく復元されていた。徳川家康の膨大な権力の力を見せつけられる。そこの文化が生まれるのだろうか?一つ一つに意味があり、それを表現する工芸に、奥ゆかしい芸術が含まれている。そう言えば、江戸時代は、徳川一族に200年も支配されて、武士と言うサラリーマンと、納税するその他平民とに分かれた組織は盤石だった。徳川だけが富豪になるしくみは、素晴らしいいアイデアである。

 経済成長はほぼ出来ていない。その中から、何か工夫をしたい、との人間の本能が、新しい文化、則、世界が驚くほどの、美術、音楽、芸能、が生まれている。特に浮世絵の世界は、世界の美術界を驚かせている。さらに、工芸では、寺社、神社に無限の創意工夫が生み出されている。

 極限的な言い方をすれば、経済成長と、文化の進歩は無関係だと言うこととなる。西洋とも同じように、一部にお金が集まり、そのお金が贅沢に、文化に注がれることで、ルネッサンスが生まれる。不思議な思いを日光で考えた。

 3時間の散歩で、ボケ爺の歳では無理をした。さて明日からは?

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2016年5月26日 (木)

ピカソに学ぶ

 「ピカソ」粟津則雄 生活の友社 =20世紀美術断想=を読む。目から鱗。今までのボケ爺は、ピカソは天才だ。訳が分からない構図、色彩で、要は抽象画、と。世界の美術館で、ピカソの表層を撫で済ませていた。

 本箸の解説は違った。デッサンの時代から、青の時代、桃色の時代を経て、突如「アヴィニョンの娘」の時代を「創造と破壊」を繰り返した。

「ゲルニカ」の創作時代の苦難の創造の道のりを過ぎてからは、「宮廷の官女たち(ベラスケスに)」「マネの「草上の昼食」」の時代、「画家とモデル(レンブラントとサスキア)の時代、作者の発想に自分流の解釈を加える作風へとたどり着く。

 ピカソの作風は、「創造と破壊」の画家である。ある画風に集約できる人ではなかった。時代と共に、自己の過去を破壊して行った。更に、一枚の絵を描く時に、習作?を何枚も書き構想を練ってゆく。つまり、試行錯誤の数が多い。試行錯誤中の絵も作品だが。そこに意味がある。多くはキャンパスの中で修正する。

 これに似た人は、夏目漱石だ。短編集で、試行錯誤している。エッセーでも、手紙でも。兎に角、多作を本望とし、それをもとに、更に発想を変更する。創作ノートも立派に存在する。

 技術家は、創造性、発想力、表現力が命だ。他には、正確な実験力、検証力も。つまり、「演繹と帰納」となる。その想像力、発想力、表現力は、ピカソに学び、漱石にも学ぶ必然を認識した。

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2015年6月23日 (火)

珠海市のレストランで

 先週は珠海市に居た。中の上程度のレストランで面白い光景を眺めた。7名ほどの若い女性どもが、我々の隣のテーブルを囲んだ。これはうるさくなると、と現地の者も、顔をしかめた。が、何時まで経っても静かである。

 それもそのはず、全員がスマホをいじっている。何時までもいじっている。勿論、料理の注文はしていた。料理も運ばれてくる。黙々と食べ、黙々とスマホを操作している。遠いテーブルでは、年取った親父どもが、大声を発している。その隣は、おば様族だ。当然、喧嘩しているようなにぎやかさだ。

 日本の電車の中は、スマホと格闘している人が、半数以上で、真に必要な連絡は、1割程度。残りは、どうでも良いご機嫌伺いのSNS、ゲーム、買い物、レストランさがし、有名人のゴシップさがし、等の情報収集。

 信州大の学長の入学式の「スマホを止めますか?信州大を止めますか?」の名セリフを思い出した。

大家壮一の「一億総白痴化」や、漱石の「私の個人主義」を思い出す。漱石は、文明が進化すれば、「人を幸せにしない」。文明は、「自由と競争」を作る。経済効率を優先して、無駄が嫌われる。民主主義が進めは、価値観の多様化は、「画一化」される。デファクトされる情報であり、それが現在のスマホが促進させる。だから「自己本位」に至る。

<読書>

「場末の文体論」小田嶋隆 日経BP

純粋のコラムである。長文のコラムである。ニヒルなコラムである。個性むき出しのコラムである。文体論と、なっているが、何が「文体論」か、解らなかった。「場末」であることは理解できる。日本の「堕落の大衆化」を皮肉っているからだ。

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2014年12月 7日 (日)

日本語は悪魔の言語

 下記の著書を読んでいたら、タイム社が、日本語大特集を出版した時の話で、日本語は「悪魔の言語」と書かれていて、憤慨した、と言う。元々はキリスト布教で、日本に滞在したローマ人が、言った言葉だそうだ。ボケ爺、常々思うことは「日本語は論理的ではない」、と。

 ボケ爺は、文学はまるで駄目である。ビジネス上で話である。アメリカビジネスでは英語圏での論理の違いに悩まされた。と言うより慣例語彙が違うのであるから仕方がない。それより、主語の重要性である。日本語は主語を誤魔化す(省略する)、が英語圏は、主語が大切だ。動詞の変化までも違ってくる。

 同様に、韓国に5年、住んで、文法も、漢字文化も同じでありながら、文脈の進め方がまるで違う。意思疎通に誤解が常に起きるのは当然だ。日本人は韓国人を厚かましい、と言う。しかし韓国にはその理由がある。

 今は中国でのビジネスに関わっている。先日、エレベーターで、中国人の恋仲だろう二人が乗り込んで来た。「Excuse us!」と、二人称をしっかり言う。驚きだ。翻訳を通じて日中のコミュニケーションをしているが、聞き返されることは、やはり主語に関することが多い。

 著者は言う。日本語は、点と点で、海外では、線と線である、と。この点と点に、日本語の良さがあるのだ、と。行間を読んで察する、奥ゆかしさがある、と。文学なら分かるが、ビジネス上では、「通じない」、とボケ爺は反論する。

<読書>

「乱読はセレンディピティ」外山滋比古 扶桑社

30年にもなる「思考の整理学」は古典となった。70代から第二の人生と、またまた、著筆活動に専念している英文学者である。90歳を超えている。

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2014年7月23日 (水)

世界は均一化される?

 世界はユニホーム化、均一化してくるのだろうか?世界中の人間の価値観は同じなのだろうか?当然、多少の違いはあるのだが。価値観の前に、欲望は一点に集約されるのだろうか?

 毎月、中国を訪問しているが、高層ビルのアパートは、外観上は、世界共通の形をしている。間取りを見ても、同じような形である。大きな変化はない。自動車は、高級車から普及車まで、いろいろあるが、高級車に憧れて、金もうけの事を考えている。

 家電製品も、冷蔵庫、洗濯機、エアコンディショナー、台所製品も変わらない。水洗便器も、大差はない。無いものを求める発展途上の人々は、先行している人々の均質化した生活に憧れている。

 ファッションにしても、男性も、女性も、流行は、一瞬のうちに、波及していく。中国のそれも韓国のそれも、変わりはない。バスも、電車も、大なり小なり、ほとんど変わらない。

 中国人と話していたのだが、子供が、話を聞かなくて困っている、と。IT機器を欲しがり、外で遊ばない。人との交わりも少ない。大学を出た息子も、すぐに、仕事を変えてしまう、など。この現象も、世界中、同じ嘆きを聞く。先日のドイツでも。さて、次の世代は、どんな道を歩むのか?ボケ爺には関係がなくなったが。

<読書>

「快楽」青山七恵 講談社

初めて読む作家で、芥川賞作家。退屈な作品の一つである。だがそこに、女性心理のきめ細かなこころの表現を、満載に描かれている。一般の女性も、ここまできめ細かく気を使って行動しているのか?そうだとすると、疲れるね。女性の平均寿命が10年も長生きする理由が解らない。ボケ爺、ノー天気で良かった。長生きの為に。

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2014年4月 8日 (火)

美のツボは何処にある?

美しい人を選んでください。美しい風景はどちらでしょうか?と、2枚の写真を見せられて、脳は判断に迷う。

 ロンドン大学の石津智大研究員、セミール・ゼキ教授が「美に付いて」の論文発表があったのが2004年で、みけんの奥で、血液量が増えると言う。どちらが「明るいか」とか、どちらが「良いことをしたか」などの道徳な「美」にも反応しているらしい。

 今までは、これらは、「セトロニン神経」などや、アドレナニンなどのホルモンの働きと思われていたが、血液量にも及ぶとなる。好きな行い、美しい行い、美しい人に合う。心地よい関係、など、生活習慣を変えなくてはならない。つまり好きなことを仕事とすべきである、と言うことだ。

<読書>

「芸術を創る脳」酒井邦嘉編 東京大学出版会

「美・言語・人間性をめぐる対話」との副題がある。芸術には人の心を引き付ける。何か普遍性があるのだろうか?飽きなく美を追求する中で、芸術は個別であるにもかかわらず、超越してくる。その超越を「人間性」と呼ぶ。創造的能力の秘密は何だろうか?①芸術は人間固有である。②芸術は人間の言葉を基礎とする。③美的感覚は心の支えである。「脳機構は、言語を司り、こころを創造する」=「美」。

こんな概念だけでいいのだろうか?

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2014年1月 6日 (月)

美味しい

 「和食」が、無形世界遺産に登録されて、日本中喜んでいる。一方、マクドナルドは新製品で、これが日本の御味と、巻き返しをしている。日本人は本当に日本の味を知っているのか?おふくろの味をしっているのだろうか?今の若者は、母の味を知らないだろう。

 日本の味は、基本的には「うま味」だそうな。うま味はどこから来るのだろうか?グルタミン酸が基本だとする説がある。「昆布だし」「カツオだし」「じゃ子だし」の三種だろうか?なら、「味の素」の顆粒は日本の味?

 ボケ爺は、上記の三味に加えて、いやそれ以上に、酵素の力をうまく使っているからではないだろうか?醤油味、みそ味、麹味、となるのか?ボケ爺は専門家ではないが、よく言われている。

 イタリアンや、フレンチでも、試されているのが、醤油、味噌とのコラボである。マヨネーズ、オリーブオイル、とよく合うらしい。但し、仲介味が必要だが。塩、牛乳、ニンニク、ショウガ、サンショウ、コショウ、等に、日本酒がいいらしい。

 糸井重里氏のキャッチコピーに、「おいしい生活」「ビフテキからタクアンへ」があった。成熟社会では、生活大国を目指したい。うま味の食事を味わえる日本食は最高だ。

<読書>

「アートの地殻変動」北川フラム 美術出版

ボケ爺の知らない、美術館が山ほどあるし、アートの催しも、山とある。確かに、日本のアートは地殻変動していることが読み取れる。これらがどこまで継続、定着できるか?世界に向けて、発信できるかにかかっている。金沢の21世紀美術館が、150万人/年と言うからスゴイぞ。瀬戸内海の直島周辺、越後妻有もスゴイよ。

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2013年8月18日 (日)

靖国神社を巡って

 海外の、とりわけ中国、韓国で、東南アジア諸国は、日本の歴史的認識を重視している。日本人は反省の出来ない国民と思われている。ドイツは間違えだったとの謝罪を繰り返し見事に、ヨーロッパ内の心情を回復させている。日本は何故できないのでしょうか?

 靖国神社に対して、国内でも大きな疑問があるはずだ。誰も真剣に議論をしないのが、不思議でならない。ジャーナリストが悪い、としか言いようがない。歴史から反省しない、臭い物には蓋をする、と言う日本人古来の性格からか?

先ずは、靖国神社には、4万9千人もの台湾人、韓国人の戦争被害者も埋葬されていることの事実。戦争犠牲者だけが、祀られていたにかかわらず、A級戦犯も同じ場所にしてしまった。何故かの、問題提起をしないのが不思議だ。

よって、天皇一家の皇族は、靖国神社を、戦争犠牲者の御霊としていない。A級戦犯の慰霊が一緒だからだ。国としてのけじめをしっかりと認識している。が、何故、国会議員になった途端、参拝するのだろう。不思議なことだ。

更には、宗教と政治の分離を明確にうたった憲法に違反していないか?靖国神社は宗教団体である。伊勢神宮、出雲大社も宗教団体であるが、大きく意味が違う性質を持っている。この憲法違反への疑問も、取り上げられることはない。国内でも不思議なのだから、海外から見たら訳が分からない国だろう。残念な日本だ。

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2013年7月 7日 (日)

梅雨明けに七夕

 関東甲信地域は梅雨明けになった模様と、昨年に比べ19日早い、と言う。例年大きな災害を経験してからの梅雨明けであったが、今年は、大きな災害が無く幸いであった。さらに今日は七夕である。幸せ在れ!

 外山氏の言う頭の緩い、緩いボケ爺は、頭の悪い人への讃歌である。頭の悪い人、つまりは「緩い人」とは、うまい表現だ。

 クリエイターEXPO、プロダクションEXPOは、これからの日本の文化を築く卵の集団だ。東京のあきしの村で、東京では唯一の手漉き和紙の製造をして、東京から「和」を発信したく多くのクリエイターが集い、楽しんでいる。ボケ爺も参加したく挨拶をしてきた。頭の緩い人達の努力がある。漫画、写真、包装、カリグラフィー、などの個人ブースで、熱気でむせ返っていた。

 新装東京駅を光と音楽でエンターテイメントしたが、観客が多すぎて、安全が保障できないという理由から中止となったプロダクションが、東京駅の20分の1のモデルで、その時に見せることとなっていた演出を見た。とても素晴らしく、感動した。こんなことを考える人々も、頭の緩い人々であるだろう。日本の文化に止揚してほしい。

 頭の緩い人の創造の時代がやってきた。日本から世界への活動を!

熱中症緩い頭にはこたえない

ひねもすにのたりのたりかなユル頭

<読書>

「五七五の力」石寒太 毎日新聞社

3原則は、季語が必要、定型(五七五)、切れ字であることは自明である。その必要性が、①季語の美意識、②定型のリズム、メロディー。更には、奇数の、風変りの持つ危うさ。③余韻、余情の楽しみ。だから俳句は楽しい。

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