2016年4月23日 (土)

七冠の天才

 囲碁の世界にも、天才がいたのだ。七冠を獲得した井山裕太九段名人である。一度勝てばいのではなく、各冠を勝ち続けて、その時点で七冠全てが、トップでいなければならない、と言うルールだ。それぞれの勝ちを維持し続けることは難しい。

 天才とはこのようなヒトのことだ。将棋の世界でも、羽生善治名人がいる。将棋は、五冠である。現在も維持されている。その時も、今も、羽生名人は、天才だ!だ、と。

 天才とは、「突然変異」で誕生するのだろう。多分、練習の量では、両氏よりも多い人はいっぱい居る、と想像できる。

 囲碁、将棋と同じように、音楽の世界も、ピアニスト、バイオリニスト、等、毎日毎日、8時間から10時間のルーティン(決まりきったことの繰り返し)、で、天才が生まれている。絵画は、毎日の専念時間は長いが、中身は、少し違う。新しい構想に、創造に頭脳は使われている。スポーツもルーティンワークだろうか?

 サラリーマンで、技術家のボケ爺は、如何だったか?ルーティンワークはしていなかったように思える。或は少なかった? 井山名人は言う。右脳活用の為に、左手で石を打つ、と。ボケ爺には嬉しいコメント。

 

しかし、最近思うに、人の脳は、ルーティンを確立出来たところから、破壊的創造が生まれる様に思うようになった。天才も、ルーティンから生まれるのだ、と思う。

 AI(人工頭脳)からのチャレンジは?さて、さて?

<読書>

AIは「心」を持てるのか」ジョージ・ザルカダキス 日経BP

=脳に近いアーキテクチャ=の副題があり。猿から分化し、人らしき生物が生まれたのが、200万年前。22万年前がネオンタール人。人の歴史は、長い旅を続けている。あえて言うなら、「突然変異」が、人間の変化を導いている。4万年前に芸術が生まれている。芸術は「心」を作る。新しい心の発展は、言語である。しからば機械は言語を操れるのか?物質の単位は原子で、情報の単位はビット。CPUの中にトランジスターは150億個。且つ安くなる。それが、人間のルーティンワークを機械的に一部、代替していくことは確かだ。ビッグデータの処理で心を生み出すのだろうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年9月29日 (火)

負けない力?

 「負けない力」(橋本治 大和書房)を読む。「負けない」の反語は「勝つ」ということではない、と思う。「勝つ」の反語は「負ける」である。「勝つ」とは、「競争に勝つ」ことだろう。自分に勝つ、ということにも使われるが。

 「負ける」に対して、「負けない」は「勝つ」と言う「勝負言葉」ではない?この世(経済成長)は、「競争社会」で、「勝つ、負け」の2極を言う。これからの世(成熟社会)は、勝たなくてもいいけれど、負けてはいけない「生物の維持論(生物生命論)」を目指すべきなのだ、とも考えられる。

 「負ける力」(藤田和博 ポプラ新書)なる本がある。結論は、「他人の力を借りる(共同体)ことが良い。「借りる」ことは負けている事に相当。勝つと思わず、他人の意見と共存できるように、「他人と率直な意見交換」をすればいい。であった。

 「負けない力」とは、「知性」を使え、が結論。知性とは、「頭良い」、「成績が良い」とは違うことだ。頭が良いは、IQで測れる。成績が良いは、偏差値で測れる。だが、知性、は測れない。

 知性は、「知識」ではない。人間が本能的に持っている「器用な」「集中力」「努力」とも違う。

先日、TVで、小象が、穴に落ち込んだ。クレーンを持てきて、綱で引き上げると、その小象は生き残れない、と言う。穴を大きくして、動きやすくして、自力で這い上がることを考えさせれば、生き残る術を知る。これが小象の知性である。

日本人は教養主義が大好きだ。つまり、知識偏重主義者だ。これは誰か先人の「考え」を覚える事に専心している。学ぶべきことが無くなると、目標を失う。今の企業活動と一緒だ。先生がいなくなって、何をすればいいのか分からない。

今の日本は、江戸時代のように、鎖国が必要だ。鎖国すれば、今までの知識の活用に、独自性を考える。知恵が生まれ、文化が生まれる。そこに知性が培われる。

知性とは「他人の知性を認める能力」である、と。自分では知性があるとは認識できない。負けないためには、考える力を持て。「知性は他人を認める」。つまり、「負けない力」と「負ける力」は、見事に一致している。

ビジネスの世界でも同じだ。1番でなくてよい。3番、4番でも、利益(知恵、知性)を出して、生き残ればいい。これが「負ける力」「負けない力」である。どうして勝とうとするのだろう?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月31日 (土)

気が乗ると、

 一月が行ってしまう。今年は気になる現象が起きた。「駅伝」だ。駅伝は唯一のグループ性の陸上競技だ。短距離のリレーはグループ競技とは言いがたい。

 今年の新春駅伝は、全てで奇跡が起きた。「社会人新春駅伝」、「箱根大学駅伝」、「都道府県女子駅伝」、「都道府県男子駅伝」、全てで「本命」は破れた。グループ競技は「気が乗る」「流れに乗る」ことがあれば、思わぬ人が力を発揮する。特に、箱根大学駅伝の青山大には驚いた。元々力のある人が調子を崩す訳は、緊張や、気負いである、と言われている。

 人はグループを組むと、「共振」、「共鳴」効果があるらしい。「複雑系理論」の基本である。共振、共鳴の気分が、思わぬ力を発揮する。それは生理学的には、ホルモンのはたらきであるのか。集団である企業でも同じことが起こる事は事実だ。

集団、群衆の在り方を良く、よく考えなければならない。良い事にも、悪い事にも使える。歴史が示す。今、世界的に起きている「テロ」も同じであろう。イスラム国が出来るのも、同じことなんか?だからどうする、が課題だ。

<読書>

「考える日々」池田晶子 毎日新聞社

サンディー毎日のコラムで、1000日分の集積である。基本は、ヘーゲル哲学をベースに、「存在」を考え続けているのだろうか?女性哲学者で、故人となられた。「哲学に、入門書は要らない。兎に角考え続けることだ」、と言う。特に「生と死」とは? ボケ爺、考え続けても、何も見つけ出せないが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年8月 9日 (土)

感情は真理?

 台風前夜、ブッポーソウが、朝からうるさく騒ぐ。セミは最後の夏で、泣き狂っている。隙間でひっそり咲く白ユリは、明日は散り急ぐであろう。生物それぞれの夏の過ごし方である。

 「驚く」は感情の基礎だろうか?感情は真理となしているのだろうか?何を見ても聞いても、驚きを感じるボケ爺である。若者と話をしていると、すぐに、「ヤバイ」と言う。「ヤバイ」と言う言葉は、今に広辞苑に意味が定義されるだろう。驚きを表すらしい。

 近代哲学の基礎をなすデカルトは「感情論」で、驚き、愛、憎しみ、欲望、悲しみ、と定義している。とするならば、東洋思想の「煩悩」と変わらない。西洋思想では「感情」に相当する。煩悩=感情は違和感がある。

 善悪は自明ではなく、価値判断である。価値判断は心の内にある。心の内は、感情なのだろう。 ボケ爺には分からなくなって来た。

<読書>

「感情とは何か」 清水真木 ちくま新書

この様な本は、ボケ爺を困らせるが、興味を掻き立てる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年3月 1日 (土)

意志力について

 最近、何々「力」と付ければ売れる本が多い。確か明治大の斎藤孝先生が元祖だ。。確かに、簡単明瞭。今日は、ケリー・マクゴニガル、スタンフォード大教授の言葉の検証だ。彼女の講義は何時も満室で、創造性育成の講義で有名なのだが。

 「意志力とは選択する力」である、と定義付ける。ボケ爺も同感する。人生、毎日さまざまな「決断に責められる」。引き伸ばしもあれば、決断して失敗することもある。

 何故か「自分には、相対する自分が居る」は脳が作った仕組である。常に二人が戦い続けている。一つの脳は「直観力」である。もう一つの脳は「考え込む力」である。身体で言えば、自律神経と、バランス神経(モチベーション)、である。

 意志力を鍛えるためには、バランス脳が必須で、先ずは身体を鍛えておくことだ。快眠の大切だ。心理的プロセスには、①望む力(好きな事)を持つ事、②やらない力(やめる力、を持つ事、③やる力(遂げる力)を持つ事である。

 もっと大切なことは、人とよく話をすることである。多くの人とのコミュニケーションが鍵である。つまり、二人の自分との会話に、他人との会話を加える事である。

 良いリーダは、決断力で決まる、その「決断力のベースは意志力」である。と言う結論に至る。明快な論理である。ボケ爺、うまく結論に導けて満足である。

神田川鯉がたむろするとこありて

冬カモメ鯉とじゃれ合う神田川

神田川三寒四温の鯉の群れ

丸の内雪降る中でブーツ冴え

色ブーツ雪が絡みて心匂う

紅梅に雪の帽子の贈り物

三崎町柳並木が春を待つ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年1月18日 (土)

無常な句

 ボケ爺、古希を迎えるに当たり、無常を考える事が多い。蕪村はどうなのだろうか?無常を生きた人なのだろう?鴨長明の方丈記は随分と参考にしているのだが。

 「御手討の夫婦なりを更衣」社会での不成功者の夫婦がひっそりと無常を生きている姿に思えてならない。まるでボケ爺の様だ、と解釈している。

そう言えば、漱石の作品の「門」のように共通するように思える。友人を裏切って不義な結婚をして、暗い過去を背負っている。ここに流れる無常とは、「武士道」の精神を守るココロがあったのでは、と思うのだが。

 今は、如何であろう。侍=サラリーマンとしたら、サラリーマンは、侍の様な倫理観を持ち合わせているのだろうか?悲しいかな、競争社会の中で、浮草になっているように思える。深慮不足と言う事か?

<読書>

「こどもの疑問」中央公論新社

僕は何時大人になるの?どうすれば他の人と分かり合えるの?考えるってどうすればいいの?悪い事って何なの?自分らしいとは何なの?なんで生きているの?心ってどこにあるの?幸せって何なの?など等。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年10月26日 (土)

愚衆の養成場

 天野祐吉氏が亡くなった。鋭い感性で、大衆の世を適格な批判であり、辛辣であったが、適格で、鋭い切り口であった。オシイ人がなくなった。若干80歳である。残念!そして合掌!日本大衆が愚衆化することに、特に憂いをなしていた。

 ボケ爺は、今週は忙しく、毎日、通勤電車で、もまれる時間帯で出勤だった。そこで分かったことは、次のような愚衆化の現象である。

1) 満員電車=思考力を無くす:座っている人は大半が居眠り。立っている人達は一発触発。頭の中は、隣の人の挙動に敵対心の思考だけ。適心の養成場である。職場でまともな議論が出来るのか?飲み屋で愚痴るだけ。

2) 新幹線=人の感覚を無くす:車窓を楽しむことは出来ない。四季の移り変わり、風景の美しさを感知できない。人体感が衰える。夕刻の社内では、サラリーマンが7割、その半数以上が、アルコールを飲み、居眠りでいびき、か、大声で駄弁り、隣人への配慮を無くする人間性欠如の養成場である。

3) スマホ=夢を無くす:夢を見られなくなっている。将来を考えるより、この一瞬を大切で、仲間外れの恐怖に追われている。暇つぶしのゲーム。どうでもいい情報を知って脳が満杯。未来の夢を語れない。

<読書>

「小林一茶」青木美智男 岩波新書

つくづく一茶は変人である。ボケ爺も負ける。一方多才である。「荒凡夫」「娑婆塞」「無垢人」「反骨と滑稽」の人物像が、ボケ爺は好きだ。一茶を過去に読む。「藤沢周平「一茶」」「田辺聖子「ひねくれ一茶」」「金子兜太「荒凡夫 一茶」」だけである。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2012年7月13日 (金)

日本人の弱さ「曖昧だ」

 日本人が弱い、と言うことではないが、日本人が世界から見て、何時も言われる体質が有る。「曖昧な民族」で、理解に苦しむ、と。海外の友人などは、特に最近、結論が出ない、と嘆く。「Yes or No」が言えない。日本語の論理構造の問題ではない、と思いたい。

Yes or No」の問題とは違うことだけれど、ボケ爺は「曖昧」と言う意味で関係していると思っている。それは、大津市の中学生の自殺の問題で、教育委員会等の答弁は、真に「曖昧だ」ロジック自身もあいまいだけれど、それ以上に「説明に責任逃れが先行する」事で、責任追及を曖昧にしている。この、「責任逃れ」の体質は、公務員に特に多いのだが、民間の共同体においても至るところに現れる。責任逃れは、責任を負いたくない、から責任のある仕事をしたくなる、までに至る。「無責任時代」と言えるだろう。一方、やたらと「責任を取る」と言う人も多いが、現実には責任を負えない人達が、やたらと連発する。これも無責任の代表だ。

大津市教育委員会が、今日の日本の現実だ。責任を取らなければならなくなる時には、共同体運命として、実に結束が固くなる。どこに責任が有るか、を曖昧にするための結束力である。この体質が改善できない限り、日本は世界に中で生きていけなくなるだろう。「新しい黒船」でも、眼が覚めない日本の将来が、ボケ爺は不安である。いろんな企業のコンサルティングさせて頂いているが、どこ一つ、活気は見られない。熱血漢が居ない。トップの激もしかり、「曖昧だ!」

<読書>

「若き獅子」池波正太郎 講談社文庫

明治維新近傍時代の革命家、時代を動かした英雄の活動の一端の人生を描いた短編集である。司馬遼太郎の描き方とは、まるで違うが、それは人も見方の違いだろう。この時代の革命家が、今の時代に欲しい。どうすれば、「責任を取る」革命家が現れるのだろうか?日本は橋下大阪市長の進める地方分権、と石原大都市構想の狭間で、都道府県間の争いが起こり、破滅するだろう。世界の民族戦争並みの争いがやって来ると思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年7月 1日 (日)

続・悩む力

 今日は、今年も後半期に入った。梅雨前半で、既に、災害が発生している。7月の中旬から後半で、どこかで災害があるだろう。それが無くして梅雨は明けない。原発も再会した。福島原発の廃炉の方法、手順も決まっていないにもかかわらず。

 姜・サン・ジュン氏は、「悩む力」の続編の「続・悩む力」を発表した。前編と同じように、夏目漱石に、今日の悩みの根源を、洞察されている、と言う。漱石の悩みは社会営みの変化の中に、自分として苦悩が生まれる、と言う。都市化社会は、共同体から、個人化(個人主義)社会にとなる。その個人主義の、孤独が、悩める根本だ、と言う。

 漱石の「悩みの種」は、①お金、②愛、③家族、④自我の突出、⑤世界への絶望、となっている。今日の社会は、「市場主義崇拝」が、考えの基本に「お金」があり、お金で全てを還元できる、と言う。自意識は、自分探しであり、他人との関係でしか、見いだせるモノではない。他人は、自分を苦しめるために存在している。共同体の中でも、個人対個人の競争原理が適応される。公共は崩壊してしまった。

 ゲスト・ワンではなく、オンリー・ワンと言って逃げ出すしかない。努力して、自分を評価してくれる場所は無い。自分を自分が褒めてやるしか存在できないのだ。自分を褒められる人はまだましだ、それも出来ない人は多い。

 本著は、経済問題から、社会構造までもの、課題が提案されている。本著は、日本社会の悩みまで、言及されている。こ一冊を熟読すれば、全ての課題が理解できる。回答を出すのは、もちろん自分である。ボケ爺の課題の良い演習問題である。それにしても、夏目漱石の先見力は、ずば抜けている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年2月14日 (土)

ヒロポンの思い出

 最近、大麻事件が多い。先日は、東芝のラグビー部員が大麻を吸っていたとして、日本選手権の出場を辞退した。個人の責任を集団で責任を取るのは日本ぐらいかもしれない。相撲界はどうだろう。管理責任者は当然だとしても、部屋は存在していく。大学の学生も、有名大学でも摘発されている。大学の責任者は、謝るだけで、身分が怪しくなる事はない。

 少し前だけれど、同志社大の女子学生が、大麻を隠し持っていた、と報道された時に、ついに、女学生までに及ぶ事になったか、と、世の変貌振りに、少々考えるところがあった。大学はどんな責任を取ったかは、明らかにはされていない。

 その時、ボケ爺の、55年ほど前の、小学校時代の出来事であった。ヒロポンと言う言葉を思い出したのである。ヒロポンと、大麻がどんな関係にあるのかは、全く理解していない。ただ、幻覚作用があり、服用を続けると、止められなくなるらしい。アル中のようなものだろう。

 小学校時代、母方のいとこは、夏休み、母方の家を合宿場にして泊まり歩いていた。叔父は町医者をしていた。その時に、二度ほど怖い経験をした。いずれも、寝床に入ったときであった。裏ドアが激しく叩かれて、女のかん高い叫び声が聞こえる。叔母と叔父は、激しく言い合っている。女性は、「ヒロポンを・・・」、「ヒロポンを・・・」と相変わらず、かん高い声を張り上げていた。裏戸から入ってきて、診断室に入り込んだのだろう。ガラスの壊れる音がした。暫くすると、大人しくなっていた。「騒いで済みませんでした」と帰っていった。襖を少し開けて、覗き見をしていたのは、恐怖心からの好奇心からある。若い女性であった事が思い出される。兎に角、その暴れようは、すさまじかった。 世の中が貧しかった時代の女性が自活する苦しみからの自活であったのだろう。今は裕福な時代の、堕落の好奇心からだろう。

ボケ爺の幼少の頃の、なんとなく、薬物はいけない、と、教えられた夏休みの思い出である。どうして、大人しくなったかは、今ではよく分かる。亡き叔父は苦しい立場だったのだ、と同情できる。

| | コメント (0) | トラックバック (1)