2023年8月31日 (木)

Googleはこの9月で25年

 Googleが設立されてから、今年の9月で25年になるようだ。検索エンジンを武器にした無料のSWを提供して、ここまで大きくなった純SWビジネスが成立する、と言う驚きのビジネスモデルを作りあげた。

 ボケ爺は、設立された1年後であっただろう時、シリコンバレーでSWの展示会があって技術の動向を知るために出席。仲間と朝食で、情報交換をしていた中に、Googleの「検索エンジン」がメチャ早い新進のSWがある、との情報を得た。

 社内でも検索エンジンの開発をしていたが、構造が複雑で、上手く行っていなかった。早々見学に。一瞬の中に検索内容が表示される。詳しい内容にも驚いた。その技術の差に愕然とした。しかも、このSWを無償で提供すると言う。どこで金儲けをするのか?と質問しても答えてくれない。

 Tシャツを貰ったのだが、機器に組み込むためにSWの供給の依頼は、「特定機器への組み込みは面白くない」、と断られた。そのころのGoogleの社員は8人だった。1年後、Gooleを訪問した時には、100名ほどの大きな企業となっていた。

 基本的な発想に、根本的に違っていた。日本では「絶対発想できないだろう」と、その違いに、未だに答えることができない。それが「リベラルアーツ」なる学なのか?

<読書>

「抵抗 山本周五郎テーマ・コレクション」縄田一男編集 新潮社

ここで言う「抵抗」とは、「無償」に通じる。『私が殺した小女』直木賞につながる。つまり、「これだけは譲れない」、「何かをじっと我慢する」平凡な市井の男女、何のとりえもない人物だけれど、一筋に貫きたい身の処し方に拘るレジスタンスを描き切っている。

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2007年1月 7日 (日)

若者サラリーマンの変化

 待ち合わせ時間にチョット早かったので、JR品川駅の港南口にある、アメリカからやって来たコーヒー店で時間つぶしをしようと入った瞬間に、なんだか異常を感じた。混んでいて場所取りに困ったと思ったわけではない。ほぼ満員のほとんどが、本を開いて勉強をしている。7割が女性である。男のほとんどは、明らかに、資格試験勉強だと分かる。各色の蛍光ペンを持って、教科書を塗りつぶしている。女性はと言えば、iPod、携帯からか、イヤホンを耳に掛け、なにやら聴きながら、教科書を読んでいる。鉛筆で書き込んでいる人も居る。6時前である。ボーとしているか携帯のメールをしている人は1割ほどである。

 仕事で疲れていないのか?ボケ爺には信じられない光景である。ボケ爺の若いときには6時では頭脳は疲れきってガタガタ震えていた。現代の若者は体力があるのか?見渡す限り、華奢な体つきである。

 今の会社に、更に貢献がしたくて検分を広める勉強をしているのか?否そんなはずはない。もしそうなら、堂々と会社で勉強するだろう。港南口は大企業の集まりである。会社が面白くなく、次の職場を求めて勉強しているのか、資格を取ろうとしているのか?きっと転職の機会に備えているのだろう。

 これでは、採用した企業も損失だし、本人が最もロスをしている。それなら、学生時代にもっと勉強しておくか、資格を取っておかなかったのか、と思う。ボケ爺にすれば、若者が、勉学に励み、成長する姿は頼もしく思うが、一方、若者の世界がここまでもしてロス多く、社会の進歩に逆らう行為にボケ爺は憂うる。ニートを含めて、困った時代であると思う。

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2006年7月15日 (土)

好きな言葉

 人にはそれぞれ好きな言葉があるだろう。ボケ爺には、特に、この言葉が表題になっていると、すぐにその本を買ってしまう癖がある。「哲学的」「知的」「悪の」などなど、結構沢山あって、特にこの3点には弱い。

 先日来、日経新聞に、「哲学者、土屋賢二」の「青春の道標」シリーズが連載されている。その合間に、出版社の広告欄に、「学ぶ事とは、差しつかえるほど努力しないと、一つの事をモノにできない。学ぶ事は限界への挑戦である。能力の限界を感じたら、さらに乗り越えようとして本当に学び始める。」と書かれていた。「教える事は、僕の考えを押し付けて、それに疑問をもって勉強するプロセスで臨んでいる。」とも。

 話を戻すと、土屋教授の青春自叙伝であり、どんな考えをしながら育ってきたかを、ユーモラスで、ニヒルに、パロディとして描ききる文体に、誤魔化されながらも、夢中で読ませてもらっている。読後にやっと哲学的に考えさせられる、逆説的な認識に迫る不思議な文体である。

 昔から、この土屋教授は知っていた。隠れファンである。出会いは、「われ笑う、ゆえにわれあり」であり、このユーモアエッセイシリーズはもう何冊になるのだろう?独自のニヒルを交えて、ユーモアあふれる洒脱な文章はなかなか真似ができない。

 機会があれば読んでみて損はしないことを請合います。

 そんな訳で、ボケ爺の書棚には、頭が悪いコンプレックスから、「哲学的」「知的、知の、」「悪の、悪党」「不良」、それに経営本では「戦略」であふれている。結果は未だに、習得が出来ず、証拠にも無く買い求めては積んで、表紙を眺めては悦に入っている。

<読書>ツチヤ教授の哲学講座 岩波書店

「土屋、哲学、岩波」となっていりゃ、ボケ爺、何をさておき、買い求める。暫くは表紙を眺め、覚悟できる時まで待って、読み始める。なにせ、この三文字があれば、読み始めるには最高に覚悟がいる。またそれを裏切らない。

 さすがに、岩波書店から出版されただけあって、今までの文体とは違って「まじめ」に書かれていた。「存在」「時間」その認識の仕方、現象から意味論まで、分かりにくく書かれていて、必読書であろう。

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2006年5月29日 (月)

知的生産

 11日の日経の夕刊に、「知的発見の楽しみ、梅棹忠夫さんに聞く」という記事が載っていた。「知的生産の技術」(岩波新書)なる言葉は確か35年以上も前の衝撃的な言葉であった。その衝撃を今でも鮮明に覚えている。それまでは、知的な発想は、苦学を学ばなければ、得られない、は当たり前と思われていた時代である。それにもかかわらず知を生み出せる打ちでの小槌のようなノウハウがあるらしいと。

それ以来、数知れない、知的生産技術、知的発想の著書が出版された。これらの著書からどれだけの知が生産されたであろうか?いささか疑問である。ボケ爺は未だに不完全燃焼である。

 どうやら、梅棹先生も84歳になっても未だに満足されていないらしい。癌もどこ吹く風!知的活動をまだ少なくとも10年は続けると言っておられる。それらの内容を要約してみる。

 「知的能力は衰えない。」失明を60代にしたが、周りに助けられて活動が続けられている。出来ない事はある、運動、将棋、囲碁、音楽である。音楽が出来ていると、もっと人生は変わったかもしれない。絵なら今からやれるかもしれない、数学も出来そうだ。

 「自分で考え、体験した事が基本になる。」仕事、社会で学んだ事をベースにコツコツ知を耕す事が一番である。自分で観察、考察した知識という素材を用いて理論を組み立てる姿勢で、大事なのは「設計図」である。それが思想である。設計図を表現するのが楽しい。

 「知的生産をしないと生きる価値がない」、それが生きる証である、と言い切る。何かを作り出したい願望を持ち続けることである、やる気の問題とも言う。

 知的生産をするための基本は、他人の考えを知ることである、それは引用するためでなく、自分より先に考えていた内容がないか探すためである。また、独創のためには「ひらめき」大切である。ひらめきを得るためには、当然、知識を詰め込むことと、瞬間に生まれる何かに気がつくこと、それを捕まえる捕捉装置が必要とのことである。

 といわれても、凡人にはやはり、簡単にはノウハウは身に付かない。チャーリーは枕元で、バカなボケ爺はボーとして生きるしかないから諦めよ、と言う。

<読書>

「「複雑系」とは何か 吉本良正 講談社現代新書

梅棹先生には悪いが、正当な知的活動時代から、今は複雑系、その中での知的生産の技術が必要である。そんな時代でも、知的生産の技術は変わらないのか。それを考えるために複雑系のまとめとしては良く書かれている。

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2006年4月25日 (火)

男も熱中、いけばな!

 420日の日本経済新聞の夕刊に、「いけばな 男も熱中」「各流派の教室、花盛り」が載っていた。女性の楽しみと見られている「いけばな」を習う中高年男性が目立っている。三大流派の草月流は「男子専科」を開催、小原流も男性を集めて「いけばな講座」を開き、花と触れ合う場を提供している。元々、いけばなの発展の担い手は男性であった。現在でもいけばなの創造性やアート感覚が男性を魅了している、とある。分かるナー、この気持ちは。

 創造性の表現の一つに「いけばな」があることはダレも疑うことはないであろう。それが、良妻賢母の心得として女性に占領されていたのではないか?もっと、男性に解放すべきであった。女性と一緒だと気おくれしてしまう。それだけで創造性が萎縮させられる。「男子専科」がいい。創造性が描き立てられるであろう。考えてみると、他にも女性に占領されているものがあるのではないだろうか?料理だって同じ事だ。カルチャー教室など、女性が多いと、男性は気おくれしたり、気が散ってしまい創造性がしぼんでしまう。女性だけが、「遊び心の創造性」を養う事に大いに反対である。女性だけが楽しんではいけない。世の女性ども、男性の気質を知って遠慮せよ。

 創造性はアート感覚から、さらに、遊び心から生まれるのだ。だから男性専科のカルチャーセンターを増やすべきである。断じてそんな教室を作って欲しい。陶芸、習字、絵画、彫金、などなど。先生方に要望し、「男性専科」を期待して止まない。

<読書>

「池波正太郎劇場」重倉敦之 新潮新書

人間という奴は「遊び」ながら「はたらき」「生きるもの」さ。人間を描いて右に出る人なし、そんな人の幅を描ききるためには、池波自身がそんな体験をしなければ描ききれない。それが池波正太郎「劇場」といわれるゆえんである。「創造性を創造する人生」がここにあったことを証明する一冊である。「劇場」という言葉がぴったりである。

 創造性の源泉を「池波正太郎劇場」から学ぼう。

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2006年3月17日 (金)

仮説、あるいは仮定

 歴史で、「もし」、は考えられない。しかし、「もし」このようになっていたら、歴史は変わってしまったであろうと、想像する事は、歴史小説を読む楽しみである。

 論理は「仮説」から始まるのである。「仮定」は重要な基本の思考方法である、と常日頃大切な手法として使っている。これは技術開発、商品開発には欠かせない重要な方法論でもある、今でも大いに使わせてもらっている。

 科学の世界ばかりではなく、経営の面でも使える、マーケティングなども全て仮定の設定の検証の繰り返しである。そんな毎日に経営者は悩んでいる。マクロ経済はそうとも行かないのかもしれないが、ミクロ経済などは仮定の設定からその動向で政策を絶えず変更して、適応状態を検討している、と思っている。

 欧米の文章(文法)はロジカルにできていると言う。それは、If...then,becouse..を多発する。ソフトウエアの世界でも、アルゴルと言う言語があるが、全く同じ論法である。

 学生時代に、悩ましい、難しい数学の授業がありました。トポロジー学、の基礎としての、非ユークリッド幾何学。その基本はユークリッドの公理の第五で第五公理の否定であった。否定と言う仮説の検証から見つかりました。未だによく理解できていませんが。

 独学での先生、「小室直樹先生の著書」には、この方法論が貫かれています。「近代科学の基本は仮説の検証」と言われています。近代経済原論、近代社会学も科学である、と闊歩されています。

 企業活動での大切な手法PDCA(Plan,Do,Check,Action)のPlanは仮説(仮定)である。全ては仮定から始まると言っても過言ではない。

<読書>

「99.9%は仮説」竹内薫 光文社新書

ベストセラーになっているから、もう、読まれている人もおられるでしょう。「思い込みで判断しないための考え方」「頭をやわらかくする手法」となっている。ともかく、ご一読ください。全ては「仮説」から始まる。

「数学を使わない数学の講義」小室直樹 WAC

とにかく、「目から鱗」とはこういうことである。追々、この本の解説もしていきたい。

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2006年2月11日 (土)

設計思想について

 何とかして今までの経験を思想として残して伝達して行きたいと試みているがうまく進んでいない。バックグランドが技術屋であるから、設計思想を、ビジネスマン(経営者の経験)だから、事業戦略思想を、と考えている。

 これらの経験は、少なくとも体で覚えてきたことがほとんどである。体で覚えてきたことは、どうにも思想として表現に出来ないのかと、思い悩んでいる。武谷理論ではないが、Normalize, Generalize,に作り上げていきたい。さらにはこれら基本に、MOTManagement of Technology(技術経営)の一部の論説につながるといいとも思っている。是非、構築していきたい。

 養老孟司の「無思想の発見」を読むに従い、この試みは無謀だと言うことが分かり始めた。その一つに、概念の世界、感覚の世界を言葉で表現する事に限界があるし、ましておや、二つの世界を結び付けることは無謀と言う事か。言葉自体が持つ、表現に、同じである事と、違うこと、もあると言う。なんと思想とは難しきことか。他には、思想が現実に直接干渉すれば「思想は現実にある」となり、「思想は思想的に存在する」事と矛盾すると言う。

 そう言えば、司馬遼太郎は「日本のかたち」と言って、「日本の思想」とは決して言わなかった。なるほど、「設計のかたち」「事業戦略のかたち」の方がなんだか納まりが良いし、これなら、表現できそうである、と今は思っている。

 こんなことを試行錯誤しながら、あきらめることなく、何らかの方策を見つけたい。一方表現方法には、「レトリック」と言う手法を活用したく勉強中である。「愚笑妙チャーリー」と話など出来ると解決の道を教えてくれるのであるが、合掌!

<読書>

「無思想の発見」 養老孟司 ちくま新書

思想と現実派対立する物ではない。相互に補完するとしながら、「意識中心の社会」は、無思想をどう考えればならないか?

「日本語のレトリック」 瀬戸賢一 岩波ジュニア新書

文章表現の技法、と、サブタイトルがついている。

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2006年2月 8日 (水)

思い出した

今年に入っての日経の最後のページに「交遊抄」なる欄がある。どなたが書かれたのかは忘れてしまったが、物理屋さんである。目に飛び込んだ一文は、「武谷三男の会」である。武谷教授を師とされていて、ご無沙汰していたので、武谷三男の会に出席したい、と言うような文面であった。

 竹谷三男教授は、すでに亡くなられていて、京大の物理の教授であり、湯川博士のノーベル賞の影の人と言われたり、名古屋大モデルの基礎を支えたとも言われている。偉大な物理学者であった。

 私は当然、教えていただいたことも、直接お目にかかったことも無い。2年生の時だったか、3年生の時だったか、ふと、本屋で手に取ったのが、「自然科学概論」であった。何ゆえそんな難い本に目が向いたのかは定かではない。とにかく、私にとって、自分で選び、一人で読破した始めての本である。内容は今を思っても難しい。が何故か、不思議によく理解が出来た。本当に私にとって不思議な事である。これをきっかけに、自分で本を選ぶ喜び、読破する喜びの始めになった記念すべき著書であった。

 内容は、今でも思い出し活用している。全てには「現象」があり、それには「原因」がある。それを深く追求すれば「本質」が見えてくる、と言う、「三段階論法」である。ある意味では単純かも知れない。単純だけに、実に意味深い。技術の分野では良く使われる手法に、PDCA(Plan,Do,Check,Action)がある。それと良く似ている。親しみのある思考方法である。私の少ない思考方法の一つになっている。

 さらに、本質を究めると、Normalizeしなければならないし、出来ればGeneralizeに至ることが出来るとよい。と書かれていた。私の技術屋の人生で、未だこれらを見つけられていない。武谷三男の会が存在しているうちに、自分の方程式が見つけられるように、これから頑張ってみようと思っている。

<読書>

「自然科学概論」1巻、2巻、3巻、 武谷三男 勁草書房?

論理思考の基本がわかる最も有用な本である。

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