雑念、邪念、妄想、夢想
今朝も、椋鳥の叫び声で、飛び起きた。細霧な雨だったからだろうか。何故、小鳥たちは、細霧を好むのだろう。シジュウガラも、セキレイも、わずかだがスズメも。
コロナで、人との接触をしない毎日が続いている。体調を整えるために、散歩に出る。だが、以前の様に、何かを考える、仕事のアイデアが浮かぶ、文献の吟味が浮かぶ、などは、まったくなくなってしまった。
オンラインで会議では、その場限りの対処が主で、議論がない。「イッシューから始めよう」と言う本が、確かあったのだが。問題解決のみで、その結果の先が予測できない。「作用あれば反作用」があるはずだが。会議の効率化だけでは、一見効率的に思えるが、将来が無い。本当にリモートワークは成り立っているのか?将来も?
Webinarでの講義は、まずまずの成果はある。が、質問のタイミングは難しい。智者の基本の質問力は衰えるだろう。
そんなことから、コロナ以降の、散歩中での思考はほぼゼロである。自分の人生はどうだったのか?子供たちの未来は、今後どうするのか?今日のお昼は何を食べようか?前を歩く幼稚園児や児童の足は早いな!など等。
つまらない人生回顧。あの時、こうしていたら、もっとよかったのか?二足の草鞋を履いていたら?離婚をしていたら?など等。これも歳を取ったせいだろうか?
<読書>
「落葉の記」勝目梓 文藝春秋
短編と、日記をまとめた遺作である。短編は離婚した夫婦や、その子供たちの何でもない日常の心境をリアルに表現している。日記は長編である。日々こんなに長い日記が書けるとは?寝る時間を削るしかないだろう。だが、内容は人生相談のようで、人生何でも在りき、の語り部的な人生論に仕上がる事はさすが、多作の作家である。文章も平易であり、身に染みる文章は美しい。ボケ爺の人生回顧の一助となる。
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