お役所仕事?
幼児や、幼少の児童の虐待が目立つ。何とも悲しいニュースだろう。そこに、記者会見が行われる。「そこまでとは気が付かなかった」「配慮が足らなかった」「警察との認識違いでした」「役所間の伝達不十分でした」「縦割りの連絡ミスです」など言い訳は決まっている。
そこには、「無責任と、責任逃れの言い訳」と、誰もが気が付くし、怒りを抱くのだが。当の本人たちは、その後、平然と地位の降格もなく、給与も減額もなく、平然と勤めが継続出来ている。民間の企業とはまるで違う。これがお役所仕事?
同じことは、「虐めの検証の言い訳会見」も同じである。ここでは、担当教員は一切、会見に現れないことだ。「校長、あるいは教頭が代弁」する。「教育委員会は証拠を隠蔽する」ことに躍起である。その言い訳や、限界を聞いて、お役所仕事だな、とため息がでる。
だが、教育の場で、「教員が責任を取らない」ことは教育を放棄していることと同じだ、と思う。未来のある学徒に、示しがつかない、「世の中は無責任で良いよ!」と教育していて、後ろめたさが無いのか?日本の未来に暗雲が覆っている。
<読書>
「集中力はいらない」森博嗣 SB新書
集中力を必要とする場面は、作業や、その効率化だから、そんなのはいらない、と嘯く。本当か?考えることは、分散であり、拡散事象だと言う。もっともだが。その「考える」何かの創造する作業にはやはり集中力は必要だとボケ爺は思う。カフェで、周りの雑音が消える、するとそこに、あれやこれやの思考回路が生き生きと作動する。だが、その場では決して答えは出てこない。答えは、忘れたころ、ふとした時に生まれる。集中した時の思考が、想像を生むことが多いことはボケ爺の経験から明らかだが。なんと言っても、集中力は要る。
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