日本の大学が変われば豊かになる
大学が変われば、日本はまだまだ見捨てたものではない、と思う。一部の教授の挑戦で、世界に負けない基礎物性の研究は多い。が、応用開発に対する支援が続かない。本来は企業が受け持つのだが、企業には余裕がない。独立法人の研究機関が多いけれど、応用を嫌い中途半端。だから大学が変って欲しい。挑戦をしている大学は多いが、根本が変わっていない。
先ず、文科省の管轄から独立すべきだ。学問は自由である。自由な発想に国の介入、監督は必要ではない。次は、国は資金の支援はするが、経営には口を出さない。大学は収支のバランスを考える企業並みの経営をする。優秀な経営陣(教授会では無い)が運営する。すると、ボンクラ教授は居られない。更に、生涯教育(社会人の受け入れ)の場を作り、生涯研究(企業との共同研究の場)の場を作り、大学の継続を考えることになる。中途半端な研究機関は大学と一体になるべきだ。これが学問の自由主義であり、民主主義のはずだ。
大学だから教育も大切だ。教育も競争だ。江戸時代は、私塾であり、教師も、塾生も切磋琢磨していた。そんな姿に変えるべきだ。単位など、学んだ教師から与えられるようにする。大学が与えるのではなく。大学はシームレスだ。
教育は、公務員、会社員向けの人材教育ではなく、起業家、世界で通用する論客家を教育すべきである。ガッシリと基礎を勉強するカリキュラムで、モノ事の「本質」が理解出来る。基礎とは、文系、理系に加えて、歴史、アートを加えることが必要だ。
<読書>
「かずら野」 乙川優三郎 幻冬舎
貧しさが、心のおごりが、過失が、限りなく、底なしの不幸へと向かって行く。人は割りけれない複雑な動物だ。どこかで踏みとどまれるチャンスはあるのだろうか?一人称の小説の不思議な世界に引きつけられる。言葉のるつぼでもあり、読み応えがある。
| 固定リンク
コメント