日本人の弱さ「曖昧だ」
日本人が弱い、と言うことではないが、日本人が世界から見て、何時も言われる体質が有る。「曖昧な民族」で、理解に苦しむ、と。海外の友人などは、特に最近、結論が出ない、と嘆く。「Yes or No」が言えない。日本語の論理構造の問題ではない、と思いたい。
「Yes or No」の問題とは違うことだけれど、ボケ爺は「曖昧」と言う意味で関係していると思っている。それは、大津市の中学生の自殺の問題で、教育委員会等の答弁は、真に「曖昧だ」ロジック自身もあいまいだけれど、それ以上に「説明に責任逃れが先行する」事で、責任追及を曖昧にしている。この、「責任逃れ」の体質は、公務員に特に多いのだが、民間の共同体においても至るところに現れる。責任逃れは、責任を負いたくない、から責任のある仕事をしたくなる、までに至る。「無責任時代」と言えるだろう。一方、やたらと「責任を取る」と言う人も多いが、現実には責任を負えない人達が、やたらと連発する。これも無責任の代表だ。
大津市教育委員会が、今日の日本の現実だ。責任を取らなければならなくなる時には、共同体運命として、実に結束が固くなる。どこに責任が有るか、を曖昧にするための結束力である。この体質が改善できない限り、日本は世界に中で生きていけなくなるだろう。「新しい黒船」でも、眼が覚めない日本の将来が、ボケ爺は不安である。いろんな企業のコンサルティングさせて頂いているが、どこ一つ、活気は見られない。熱血漢が居ない。トップの激もしかり、「曖昧だ!」
<読書>
「若き獅子」池波正太郎 講談社文庫
明治維新近傍時代の革命家、時代を動かした英雄の活動の一端の人生を描いた短編集である。司馬遼太郎の描き方とは、まるで違うが、それは人も見方の違いだろう。この時代の革命家が、今の時代に欲しい。どうすれば、「責任を取る」革命家が現れるのだろうか?日本は橋下大阪市長の進める地方分権、と石原大都市構想の狭間で、都道府県間の争いが起こり、破滅するだろう。世界の民族戦争並みの争いがやって来ると思っている。
| 固定リンク
コメント