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2012年5月31日 (木)

文京区の緑地

 今日で、新緑の5月は終わりになる。いやな梅雨時(ボケ爺は、6月生まれ、雨は決して嫌ではない)が近づいた。今日は、飯田橋と水道橋との間にある事務所で、技術開発のお願いをするために、出かけた。隣のビルはトヨタ自動車の東京本社ビルであった。その余裕のある立て方で、楠木が一杯、植えられていた。人々の公園(散歩道)となっているし、ビルの裏側は、広い庭となっていた。その奥が、小石川後楽園である。

 時間が30分ほどあったので、時間つぶしで、トヨタ本社ビルの横を通り抜けると、小石川後楽園にぶつかった。ボケ爺は東京に住んで長いのだが、この公園は行ったことはなかった。随分に緑の多い古風な美しい日本庭園である。ドームの屋根が見えるが、ここからは似つかわしくない。

 文京区は、東京大学から始まって、適当な公園が適当に散りばめられて、良く手入れが行き届いている。最も緑化がバランスよい区ではないだろうか。

<読書>

「街場の読書論」内田樹 太田出版

天才の知者の読書本を知ろうと、思って借りて来たが、難しい。それに、多読であり、とても近づけない。解っていたのに。ボケ爺、またも打ちのめされる。劣等生はどう考えればいいのだろうか?

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2012年5月27日 (日)

夕顔

 疲れて帰宅すると、玄関先の植え込みに、雑草の一つ、夕顔のツルが絡まっているのだが、夕顔の薄いピンクの花が力いっぱい開いて、ボケ爺を迎えてくれる。一度に疲れが吹っ飛んでしまう。可憐で、優しい色で、奥ゆかしくひっそりと、決して、自己の主張をしない。源氏物語に出てくる夕顔のようだ。源氏も、そんな姿にたまらなく愛おしさを感じたのであろう。

 近所の家々には薔薇が満開で、とりわけ、2軒南の家は薔薇が好きで、家の周りに一杯植わっている。そのバラが色とりどりで、心を和ませてくれる。借景ではある。実篤公園には薔薇の花はない。今は、花はない。竹の子は既に成長してしまっているが、肌はまだ初々しい。直径15cm以上もある。

 仙川の花屋には、薔薇の花はなかった。ボタンの花でいっぱいだった。天気の良い街には、一杯の人でむせかえっている。200円コーヒー店の隣は、以前は300円だったので、何時潰れても良かったのだが、今日は、180円を強調して店内は満員であった。今日は、時間がないが、200円以下のコーヒーしか飲まないボケ爺、次回、味を試して比べてみたい。

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2012年5月26日 (土)

電車遅延

 24日出張から帰って来て、新幹線から降りると、夕方と言うに、中央本線、京浜東北線、東海道線、高崎線、が人身事故で遅延、となっている。昔は、人身事故での遅延は、夜に多かったが、今では朝から、夜まで、平均的に起きている。また、多くなっている、のではないか?経済の停滞と何らかの関係はないだろうか?

 5年間の海外赴任から帰国して、2年半ほどになる。この間、軽い働きが出来ているので、毎日8時ごろに自宅を出て、7時ごろに帰宅する。当然、電車通勤だ。朝は、5分ほど遅れることが日常化している。お客の混雑で、と言う。顧客主義と言って、無責任な、やる気のない働きだから、遅延が解消されない。

車内のディスプレイで、他の路線の遅れ情報が出てくる。車両故障での遅れが多い。60%以上だろう。その中の70%が、ドア故障ではないか?不良品だ。人体不調、乗客対応も多い。電車が新型に置き代えられて、車両故障が多くなった、と思う。これも、企業がたるんでいるので、製品品質がおざなりになって来たからだ。

経済が悪く、不景気で、生活安定が無く、企業のモラルも下がり、先行き不安が、こんなとことにも現れているのではないだろうか?

<読書>

「不知火軍記」山田風太郎 集英社文庫

壮大な構想で知られる著者の作品は読みたく思っていましたが、手が出せなかった。SFも大いに活躍する作品の展開は、ボケ爺には付いていけない。構想力といい、空想力と言い。そんな事態が、さみしい次第だ。

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2012年5月23日 (水)

君の夢 僕の思考

 「君の夢 僕の思考」 森博嗣 PHP文庫 を読む。読むと言うより、眺めると言った方がぴったりか?作家は、数学者でもる。だから、論理的な叙述を期待した。以下は、ボケ爺流に考えた。

嫌い: 幼少のころは嫌いな事が多かった。嫌いだと思うことで、自分を確保できた。人は、嫌いな事を一生懸命探している。嫌いがあるから好きがある。

夢: 自分に都合がいいことを適当に見つける。夢は逃避からの、思い込みだ。そんな生きからしかできない。

矛盾: 矛盾を許容すれば、優しくなれる。

後悔: 他人を信じた事、他人を愛した事、他人を許した事、そのわだかまりの余韻。

摩擦: 摩擦があるから立っていられる。摩擦が無ければ、転んでしまう。

目的: 人生は、目的なんてない。目的が無い事が重要だ。

人間: 人間だけが、悲しくても笑える。嬉しいのに、泣ける。

愚か: 見なければ考えられない。見ても考えないのはさらに。

鈍感: 鈍感は強い。武器である。攻撃的な能力になる。

愛: 他人に干渉されたい。弱くなる。

弱い: 他人の干渉を期待している。自己の存在を求める。思考の範囲を限定する。

孤独: 雑音の中にあってこそ、孤独を感じる。だから都会は孤独、好きだ。

財産: 友は財産だ、と考えた事は下品な教訓だった。

評価: 得損、成功、失敗、良い悪い、等、いずれも本人の評価でしかない。

不安: 人間にしか持ち合わせていない。だから、服を着る、籠る、家族を造る。壁を造る。

知者: 解らない!と叫べる人。解らなくて、泣く人。

人間の本質: 仕事の為に生きているのではない。仕事をしないために生きる。

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2012年5月20日 (日)

庭の雑草

 朝から天気が良い。庭の新緑もいよいよ濃くなって、初夏を迎える準備が出来て来た。初夏の剪定にはまだ早いだろう。体が鈍って来ているので、雑草取りでもするかと、庭に出る。しかしながら、今年は、雑草なのだがピンクの花が美しく咲き誇っている。それ以外を取ることにすることは当然だが。また、今年はシャガの花が少なかった。多い時は庭いっぱい咲いた時もあるのだが。

 毎年、庭の雑草の生態が違っているように思う。ある年、青シソが増えたり、赤シソに変わったり、ブタクサが増えたり、ペンペン草が増えたり、と変わっていることに、気が付いた。生物多様体主義を地で行く(手入れもせず、ほったらかし)ボケ爺の庭が、それでも、雑草や、毛虫(チョウチョウ、蛾)の種類が、年によって変わると言うことは、どうしてだろうか、と考えてしまう。生物多様体(生物生態)が安定していない、変化することに不思議ではないのだろうか?そこで下記の本を読むこととなった。

<読書>

「生物多様体を考える」 池田清彦 中公選書

生物多様体、と一言で言うことには注意がいる、と言う。3種に分類される。①種(たね)多様体、②遺伝的多様体、③生態系多様体、である。簡単に言うと、生物多様体は、いずれの分類の中でも変化する、と言うことらしい。変化しない、一様であると、云うのとは無い、と断定する。変化する事を常識として、良い事、悪い事は、ほどほどにすることが必要だ、とも言う。斯様に、生物多様体は難しい課題である。

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ウェークアップコール

 出張から帰って来た日は、雨が残っていた。そのあくる朝、ウグイスの鳴き声で、目覚めた。時計を見ると6時ちょっと前だ。窓からは、朝日の光が伺える。6回ほど鳴き騒ぎ、そして去って行った。今年も忘れずに、来てくれたのだ!と、ウグイスに感謝しながら感動した。

 年々遅くななる来訪だが、必ず忘れずにやって来てくれることが、嬉しい。今年の冬が寒かった為か?気候が荒れている為か多分、ここが仮の住処、と思ってくれているのだろう。欲を言えば、もう少し長く滞在して、美しい鳴き声を聞かせてほしいのだが。

 ボケ爺の時差を取るためか?それから三日間、モーニングコールにやって来た。ほぼ同時間に。それだけでも感謝したい。ウグイスの鳴き声だから、今回は、巧く時差ぼけが解消できた。ウグイスに感謝深謝である。その後は鳴き声が聞かれなくなってしまった。残念だ。実篤公園では聞けないので、南の方の成城学園駅近くの森に、仲間を探しに行ってしまったのかもしれない。

<読書>

「火の国の城 上下」池波正太郎 文春文庫

捕り物帳では、人の使い方の心理表現では定番の評価があるのだが、池波正太郎の忍者ものには、サスペンスとしての人的心理戦略が、実に巧く描かれている。歴史の出来事は、単純ではない、人々の心理(生き方)で、大きく変化する可能性があったのだと、否あるのだと、考えさせられる。気楽に読めるが奥は深い。(19日)

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2012年5月14日 (月)

デュッセルドルフにて(その2)

 ホテルは5階建ての駐車場の上にあり、目の前には庭園が仕込まれている。芝生の中に、黄色の小さな花(雑草の花か?)が、一面に広がり、新緑の芝生の色彩と、良く馴染んでいる。その芝生に、カルガモの親子が、早朝から毎日やって来る。ボケ爺を歓迎しているのだろうか?その先に空港が広がる。

 多少の時間が出来たので、アムトラック(市電に相当)に乗って、メッセー会場から、ダウンタウンまで出かけることにした。路線の両サイドには、五階建ての建物と背の高さを競っているプラタナスの木々が、延々と続く。石畳の道が両サイドに、追っかけて来る。ある交差点でピンクの花の大きな木々が見かけられる。周りの淡い緑に映えてあまりの美しさに見とれてしまった。近くで見かけると、マロニエの花であった。路上や、住宅の庭先では、シャクナゲの花が盛りである。

 ドイツ(西ヨーロッパ)の空は、ドラクロアの絵や、セザンヌの風景画に象徴される青空を中心として、白い雲、暗い雲は折り重なっている。ダウンタウン(鉄道の乗り換え場)で降りたが、生憎、大粒の雨が襲ってきた。街を見学する勇気が失せてしまって早々に引き返してしまった。絵心を取り戻したかったのだが、残念。(13日)

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デュッセルドルフにて

 デュッセルドルフ市は良い街だ。古さ、と、モダンが適当に折り重なって、融合している街はドイツの中でも1~2を競うであろう。その融合で、また新しい想像を生むのかもしれない。昨日と比べ10℃程も気温は下がっている。空には雨雲が垂れこめている。大雨を降らせる雲ゆきではない。

 ドイツの街の多くは、そんなに大きくはないのだが、緑が多い。住宅はその中に埋まっている。木々は、新緑の様相だ。東京と比べ、1カ月は遅れているのだろう。ドナウ川の水量は、以前と比べても豊かである。が、いつ見ても濁っているのはなぜだろうか?大型の汽船が今日も元気に往来している。

 デュッセルドルフには、商社系、金融系の日本の支社が多いと聞いている。ドイツには3種の民族が住んでいると言う。この街は、その割合が適当に混ざっているようだ。顔の傾向は、北方の細めの逆三角(ひげが多い)、中部の長方形、南方の丸顔、と言うことか。

 それにしても、物価が高い。と言うよりも、タックスが、なんと高いことか?(食事など、トータルで30%ほど掛る。)ここまで高ければ、消費意欲は減るであろう。経済の復活は、ほど遠いと感じる。(12日)

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フランクフルト空港にて

 11時間も掛らずに、フランクフルト空港に降り立つ。4年ぶりか?機内では映画を観ていたので、ほとんど寝ていない。フランクフルト空港は、ドイツの最も大きな空港であるが、ロジカルな、合理的な発想をするドイツ人の設計とは思えない。大きな空港であることが良いことではない、ターミナル間の移動が不便極まる。継ぎ足し、継ぎ足しの改造の点では、合理的なのかもしれないが。

 到着時の気温は25℃を超えているのだろう、インディアンサマーだ。それをBターミナル先端から、Aターミナルの先端まで、延々と走る。汗が滴り落ちているにかかわらず。ベルリンに住むドイツ人の友人ですら、ミュンヘン空港を使うと言う。また、ルフトハンザのラウンジが少なくなっているのは合理化のせいだろうか?イミグレーションも厳しくなっている。日本人なら、無条件に通してくれていたが、今回は、多くの日本人が厳しく問いただされていた。なぜだろう?緯度が北海道よりもはるかに高いここでは、7時半を過ぎているが、まだ、太陽は沈んでいない。(11日)

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2012年5月 9日 (水)

タッチダウン

 竜巻で大きな被害が出た。ここまで大きな竜巻は、日本では珍しいことなのだろう。竜巻に遭われた人々に、言うべき言葉を失う。近年、偏西風が異常な蛇行をしているようだ。寒気の居座りが、諸悪の根源である、と思う。

 竜巻による被害の大きさは、当然、寒暖の差によって決まるが、タッチダウンが確実かどうかでも決まる。どんな条件で、タッチダウンが起こるのか、トルネード(竜巻)の被害が大きなアメリカでは重要な研究の課題である。

 オクラホマ州は、陸の孤島、と言われていて、トルネードの発生のメッカである。ボケ爺、若き頃(30年ほど前)オクラホマ州のオクラホマシティーに良く訪問した。現地の人から聞いた話では、トルネードの通る道が決まっている、と言う。オクラホマシティーの街は、あまり被害が無いようだ。その周辺では、結構、トルネードが発生しているようだった。そこには住宅は、確かに立っていない。しかし、度々気まぐれなトルネードは違う道を通って大きな被害が発生する、と言う。

 ボケ爺は、飛行機に乗った時には、翼のちょっと前の窓側の席を予約する。ゲートから離れて、滑走路までの間で、タッチダウンが出来るかどうか観察するのが趣味である。地面から、エンジンへとトルネードが起きる時がしばしばあるのだ。ボケ爺の観察では、湿度の高い時、暖かい時が、出来る可能性が高い、ところまで解って来た。飛行機に乗る時、こんな楽しみもあるのだ。

<読書>

「いのちなりけり」 葉室麟  文芸春秋

実に壮大な展開である。スリルあり、人と人の心理の駆け引き組織の誰に仕えて、生きるのか?生きる信念が死の在り方を変える。等、何もかも含まれている。さらに恋の在り方まで展開される恋小説でもある。信念なる人は死んで生きる事なのだ。全てを捨てれば、さびしいことはない。七回数えてから結論を出す。士道と言うは死ぬことと、見つけたり(葉隠)。忍ぶ恋こそ至極の恋、等々。

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2012年5月 6日 (日)

気まぐれな天候

 この連休は気まぐれな天候に悩まされた。気まぐれな天候とは、不安定な天候と言うことか?それにしても天候予側は、大局的には外れてはいないが、局部的には全く当たっていない。超高速コンピュータ(スーパーコンピュータ)でも計算が間に合わない、と言うことだ。計算の為の変数が多すぎるからだろう。

 国分寺崖線沿いの散歩道を、午前中の晴天の間に済ました。その野川では、先日の大雨で、水かさが増したことが解る。ゴミが土手まであがっていることや、草が倒れているからだ。その分、川水はゴミが一掃されて綺麗だ。大きな鯉が悠然と泳いでいる。亀の甲羅干し用の岩も流されて、いつもの亀は、違うところで、窮屈に甲羅干しをしている。至る所で土砂崩れが起きている。

 不安定、とは、天候ばかりでない。サルコジ大統領が負けると、ヨーロッパは混乱に落ちることだろう。アメリカ大統領選でも不安を呼んでいる。円高は当分続き、変わらないだろう。と言うことは、経済はまだまだ回復に向かうことはない。不安定な日々が続くであろうか?

<読書>

「親鸞 上/下」五木寛之 講談社

愚禿親鸞の青春編である。極悪人も本当に救われるのか?を主題にしたフィクションである。愛と暴力、罪と罰に苦しみながら、時代の激流にいどむ青年の魂を描いている。生き方に選択(センチャク)し、念仏一筋であることが大切、と言う。それには、「痴愚に帰り、易行に専念すべし」と言う。不安な、不安定な世の中を末世として生きる、ことも、改革の為に生きるのも、不安を感じることは同じだ。「善人をもって往生す、いわんや悪人をや。」は本当か?基本の生き方は「生涯無益」「無想観」であらねばならない。その為に念仏すれば必ず往生する。

丹羽文雄の「親鸞 上・中・下」と比べ、五木寛之の作は、教条主義的だ。

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2012年5月 5日 (土)

新緑がまぶしい

朝から太陽がまぶしい。太陽光を受けて、昨日の雨で濡れていた若葉が、きらきらと輝いている。蒸せるような新緑が、眼にしみる。木々の新芽の色が違うし、輝き方も違う。そのシンフォニーに、心が酔ってしまう。

 休めば休むほど疲れが出てくるようだ。特に脳みそが、グズグズと煮えてかき混ぜているようだ。何一つ、まとまった考えが出来ない。グルグル目が回っているようだ。疲れはどこからやって来たのか解らない。そんなに恨を詰めて何かをやっている訳ではないのに。

 散歩の遠くに行く元気が無い。近くを回る事で我慢したが。森のテラスでは、ピアノ演奏で、昼食会を開いていた。3千円だ。ボケ爺には高すぎる。そこへの階段の入口には、黄色のツルバラが満開である。ツルバラの家からは、午後5時には、必ずピアノの練習の音が聞こえて来る。桐朋学園の関係者だろうか?

 仙川の街では、チェロのケースを抱えて、制服を着た女学生の一群が通り過ぎる。ギターを背負っているグループも通り過ぎる。安藤忠雄の仙川街づくり通りで、絵画や、工芸品の店を眺める。来週には、大催しが開かれるらしい。仙川劇場では、7月にジャズフェスティバルが3日間連続で開かれるらしい。是非参加したい。花水木の街路樹の通りであるが、花は終わっていた。

 癒しにも、疲労快復にもならない。これは歳のせいかも知れない、と思うようになった。これがボケ爺の限界かもしれない。残念だが。

<読書>

「創造性とは何か」 川喜田二郎 祥伝社

KJ法で有名な先生だ。デカルトの機械論的思考の仕方に批判的である。「分析と推論」だけでは、「我」が先行する考え方では?「混沌」の中で、チーム力で、総合化されることだと言う。

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2012年5月 4日 (金)

偶然を知る

 今日は気まぐれな天候である。朝方は雨が残って、一日雨か?と思っていたが、曇りから晴れて来たので、午後から、図書館に出かけたが、雷が一泣きしたら、途中で雨となってきた。しばらく、パソコンに向かって、作業が終わったので、疲れをいやすために仙川の街に出かけた。借りて来た美術を眺めながら、喫茶店でコーヒーを楽しんだ。

 本屋をブラブラ、雨がまた降って来た。狐の嫁入りのような、光はさしているが、雨だ。東を見ると虹が出来ている。不自由な右端をかばいながら、仙川駅の東にある、京王線の陸橋に、野次馬の如く飛んで行った。虹が半円状に裾から裾まで、完全体の虹の架け橋が観ることが出来た。その中心は東京都都庁のビルである。はるかに遠くだが、陸橋よりも下に観える。さらに、その右上に、白い月が観える。完全な虹の外側には、不完全なうっすらと、もう一つの虹も見える。こんな完全な虹の輪を観たのは、この歳になって初めてだろう。

 これは偶然である。偶然性は創造性の源であるはず。が、今日は何も発想が出来ない。美しさに、惚れ惚れしていた。何の閃きも湧いてこない。偶然とは不思議な出会いと言うことか?今後も、何とは言わないが、偶然に出会いたい。すれば、素晴らしい発明家になるであろうと。他力本願に頼る情けないボケ爺を発見する。これも偶然性からの発見か?

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