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2011年11月29日 (火)

大阪が発展すれば、日本も元気になる。

 23日だったか、午前中の会議が順調に終わって、中の島にある東洋磁器博物館(?)を訪れた。その博物館の主な収集主は安宅コレクションである。昔の金儲けをした企業がコレクションンをする例は多い。儲けを無形資産化することによって、税逃れが可能な方法だったのであると、貧乏人が僻み、嫌味を言ってはいけないのだが。それにしても立派な展示で、ボケ爺はたっぷりと2時間を満喫した。

 その中の島から眺める高層ビル群は、東京をしのぐ圧巻がある。中之島は「北」にある。さらに沢山のビルが建設されている。「南」も高層ビルが出来ている。これらのビル群はさすが関西人らしい個性的なビルが多い。が、なんとなく落ち着きが無い。個性が我がままになっているのだ。大阪は「北」と「南」に分かれて人が集まる。服装も派手である。

 会議で、社長が言うには、関電は来年の夏場は、17%以上の電力不足になる、と発表している。そこに、大阪ガス社は、中小企業に、停電対策にガス発電機を売り込んでいるらしい。漁夫の利を狙っている、と言われても仕方が無いだろう。追加投資が必要になると、社長は頭を抱えていた。東日本大震災の時に、多くの企業は関西に逃げ込もうとしたが、関西は冷たく電力不足だ、と涼しい顔をした。多くの企業は関西への移動を避けてしまった。折角の関西繁栄のチャンスだったのだが。

 今回の「大阪都構想」は大いに賛成だ。関西の二重投資を整理して、発展に投資を回して欲しい。街づくりの「青写真をクリアにして議論して」楽しい街にしてほしいものだ。

<読書>

「リーダーシップ」山内昌之 新潮新書

はっきりと言い切る人物像に、なるほど、と言う説得力がある。良く読んで、自分の反省に役立てたい。

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2011年11月27日 (日)

放射能測定法

 福島原発の事故から、国民は放射能に敏感になっている。図書館での時間つぶしを早目に引き上げると、近くで、放射能測定をしている人に出会った。話を聞いてみると、「調布市が発表する放射能量に疑問があるので、災害以来測定して発表値と比べている」と言う。ところで、結果はどうですか、と尋ねると、おおむね発表値と比べて2~3倍は高い、と言う。予想していた解答である。調布市では元々、少ないので、問題にはならないが、汚染の高い地域で、2~3倍違っていたら、それは大変だ。通常は、新聞発表(政府機関、東京電力)の2~3倍は覚悟する必要がある。

 お米の汚染も気になる数値である。TVなどで、映される測定の光景は、コメの流れから、離れて測定器が置かれている。それだけでも測定の仕方に過ちがある。もっと被曝していることは明らかである。保障する金額を、国も、東京電力も、安く抑えたいがためである。国民の立場に立っているとは言い難い。

 冷温維持が出来るようになった、と言うが、未だに原発の建屋内、周辺の放射能は下がらない。これで、年内にも汚染を洗浄して、帰省が可能にしたいと未だに政府は言い続けている。汚物処理の方法も未だに定まっていない。方策とは、規制を緩くするだけである。ごまかしだ。一層のこと、福島原発の周辺2030Kmは政府が買い取って、住民の保証と、汚物の処理地にする方が、総合的な対策費は少なくできるのではないだろうか?そんな対策をボケ爺は期待する。

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2011年11月23日 (水)

企画却下

 ある企業に商品企画をしたが、却下された。ショック。企画部員の女性達からは面白がられたが、男子企画員から、却下を下された。残念。ダイソンの商品に対抗するべき企画だったが。ボケ爺、航空学を専攻したので、空気力学は得意であったはずが、ダイソンに一歩先んじられたことは無念だ。コアンダ、カルマン渦を使って優しい風を創る。ダイソンを超えたい。

 「日本のデザイン:美意識がつくる未来」原研哉 岩波新書 を読む。著者は、「デザインのデザイン」岩波書店で、従来と違うデザインの概念を展開した。ボケ爺、多いに賛同できた。商品企画はデザインで決まる。コンセプトはデザイン思想で決まる、と思っている。

 いきなり、日本のこれからは、「文明革命ではなく、文化の創造で、世界に挑むよう心得よ」と。「モノ作りの文明革命」ではなく、「コト創りの文化」の創造が求められている、と言う。日本には世界にない「微細、繊細、丁寧、簡潔」が整っている。この美意識が文化を生む基盤である、と言う。ボケ爺も同感だ。

 「空間のデザイン」が肝心だ。「経験のデザイン」の活用が必要だ。これらは、室町時代から始まった、と言う。シンプルから、エンプティーデザインへと移行する。ローカルとグローバルの融合が起こるだろう。

 デザインの革命は、素材開発で起こる、と言う。ボケ爺は、その素材開発に、情熱を注いている。天然素材を中心に、人造素材とのコラボ、その範囲は、電子パッケージ基材から、植物苗底までに及んでいる。これをベースにデザインの美の組み合わせで、無限の楽しみに心うかれている。

 そんな知的創造活動は、出張の合間にオンオフする。これは決して仕事に追われているとは言わない。労働ではなく、新遊牧民の「遊ぶ楽しみ」、と言うべきだろう。

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2011年11月20日 (日)

無常列車人生老死号に乗る

 ブータン国王ワンチョク夫妻が日本を訪問されている。ブータン国は、国民のほとんど(97%)が、今、幸福であると思っている、と言う。不満の多い日本人から見れば、不満の無い生活が出来ていることに不思議に思えるはずである。GNH(幸福最大化)で、いつもダントツである。ブータン国は観光にも人気があるようである。が、帰って来た人々からは、何が幸福なのかは、全く理解できない、と言う声は多い。

 「諸行無情を生きる」ひろさちや 角川oneテーマ21 を読む。「平家物語」は有名な出だしがある。“祇園精舎の鐘の音、諸行無情の響きあり、・・・おごれるもの久しからず、・・・” 「方丈記」では、“ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとのの水にあらず、・・・かつ消えかつ結びて、ひさしくとどまるりたる例なし、・・・” と、人の世のはかなさを詠っている。この世は無常である、と。

 まともな日々を暮らしていても、栄枯盛衰は絶え間ない。サラリーマンであったボケ爺など、日々の変化に踊ってきた。不合理、不条理に涙したことが多々ある。東日本大震災もしかり。タイの洪水もしかり、どこでどんな災害に会うか分からない。この世は無常である。

 ボケ爺は、今、無常列車人生老死号に乗っている。まだ、降りろ、とは言われていない。「ご用心、ご用心」。 我が人生に、意味はあるのだろうか?未だに解らない。この人生、どこまで苦しめばいいんだろうか? 「四苦八苦」と言うが。簡単な解答が待っているような気がする。「人は、生まれ、苦しみ、やがて死ぬことのみぞ」と。

 無常とは、「過去を追うな、未来を願うな」の一言か?これは、「日日是好日」の禅の教えに行きつく。ボケ爺、まだまだこの心境までたどり着けていない。

 ひろさちや氏は、素晴らしく含蓄のある本を多く提供している。何時も感心するのだ。ボケ爺は、ひろさちや氏まで、とても悟る事が出来なく、悩み多い日を送っている。

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2011年11月19日 (土)

メール中毒

 メールは朝から始めるな!と言う威勢のいい社長(酒巻)が居る。メールはクリエートから、かけ離れた作業だ、と言う理由で、朝のすっきりした頭を、考えなくても済む作業に使うな!と言うことで、ある意味で、経営者としては正論なのであろう。

 ボケ爺も、10年も若い時は、そう言って、激を飛ばしたであろう。が、ボケ爺の現在は、先ずは、メールのチェックから一日が始まる。メールのやり取りが、大きな仕事の中心となっている。海外からは、夜に連絡が入っているはずだ。彼に連絡したのだが、返事は来ているかな?と、メールのやり取りが、一日の仕事の配分を決めてくれる。スケジュールもメールで決められる。だから、メール中毒と言うことになる。

 しかし、朝の混んだ電車の中で携帯メールは邪魔で、狭い空間を作ってまで熱中にメールするには、邪魔で癪に障る。半分以上は(女子は、80%)はメールのやり取りで夢中だ。ここまでのメールへの熱中は、メール依存症の中毒の、中毒で、本番の仕事ではくたびれてしまっているであろう。それにゲームが加わって、サラリーマンは朝から、クタクタである。帰りは、また携帯メール。仕事のメールで疲れているはずなのに。さらに疲れる行為を好んでいる、これではクリエートな発想はどうにも創れない。「考える、創造する。」の人間らしい作業を放棄して、どこに行くのだろうか?

<読書>

「恋しぐれ」葉室麟 文芸春秋

大変に重い本である。重いとは内容の深い本だと言うことで、読み切るには、時間が掛るとともに、ある程度、読み手にも知識が必要だ。何度も直木賞候補、芥川賞候補になっているだけあって、フィクションの人を扱って、ノンフィクションの面白さを構成している。素晴らしい内容の本ばかりである。感激した。ファンになってしまいそう。難点は、文章がやや下手である。悪分が多いということか。諸田玲子氏を参考にしてほしいのだが。

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2011年11月17日 (木)

メール中毒

 メールは朝から始めるな!と言う威勢のいい社長(酒巻)が居る。メールはクリエートから、かけ離れた作業だ、と言う理由で、朝のすっきりした頭を、考えなくても済む作業に使うな!と言うことで、ある意味で、経営者としては正論なのであろう。

 ボケ爺も、10年も若い時は、そう言って、激を飛ばしたであろう。が、ボケ爺の現在は、先ずは、メールのチェックから一日が始まる。メールのやり取りが、大きな仕事の中心となっている。海外からは、夜に連絡が入っているはずだ。彼に連絡したのだが、返事は来ているかな?と、メールのやり取りが、一日の仕事の配分を決めてくれるようになった。スケジュールもメールで決まる。だから、メール中毒と言うことになる。

 しかし、朝の混んだ電車の中で携帯メールは邪魔で、狭い空間を作ってまで熱中するには、癪に障る。半分以上は(女子は、80%)はメールのやり取りで夢中だ。ここまでのメールへの熱中は、メール依存症の中毒の、中毒で、本番の仕事ではくたびれてしまっているだろう。それにゲームが加わって、サラリーマンは朝から、クタクタである。帰りは、また携帯メール。仕事のメールで疲れているはず。さらに疲れる、これではクリエートはどうにもならない。「考える、創造する。」の人間らしい作業は皆無だろう。

<読書>

「恋しぐれ」葉室麟 文芸春秋

大変に重い本である。重いとは内容の深い本だと言うことで、読み切るには、時間が掛るとともに、ある程度、読み手にも知識が必要だ。何度も直木賞候補、芥川賞候補になっているだけあって、フィクションの人を扱って、ノンフィクションの面白さを構成している。素晴らしい内容の本ばかりである。感激した。難点は、文章がやや下手である。悪分が多いということか。諸田玲子氏を参考にしてほしい。

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2011年11月16日 (水)

木枯らし

 朝から少し風がある。木枯らし2号か?(1号は数週間前に、ボケ爺が関西にいた時に訪れた、とアナウンスがあった。)確かに寒くなった気がする。ボケ爺の薄くなった髪の毛も、掻きあげても、落ち着きが無く揺れ乱れる。

 車内も厚着が多くなってきた。混み合いが激しくなった証拠だ。東京の電車の沿線では紅葉はまだまだ、という感じだが。街路樹は少し色付き始めている。原宿から渋谷間のイチョウ並木では気の早いイチョウの木が黄色く変化している。駒場東大のイチョウはまだ紅葉が始まっていない。色の変化が気になる季節になってきた。

 ボケ爺は、脳出血を発病して、二度目の冬を迎える。寒さに気を付けるのは当たり前としても、変化に弱いらしい。寒暖を避けるためには帽子がいいらしいが、身につける勇気が持てない。ダンディーさがない事も、似合う品性を持ち合わせてもいない。ボケ爺の恩師の木村秀政は、帽子が良く似合った。少しニヒルさが必要だろう。

 京王明大前から、井の頭の渋谷駅行きに乗り換えるルートでの出勤が多い。今日、気が付いたのだが井の頭線の渋谷駅はホームが2本である。一番に着くと左右が開く、二番線は右側だけだ。ボケ爺、なんとなく、二番ホームに着く確率が多い。7割ぐらいだろうか?それだけ、「運が悪い」、と言える。ボケ爺の人生と全く同じである。ボケ爺は運勢が悪い不可思議な事が多くあるものだ。

<読書>

「隣室のモーツアルト」藤堂志津子 文芸春秋

一度、この作者の作品を読んでみたかったのだが、やっとたどり着いた。うわさ通り、女性心理を描くには最高の作家である、と確信できた。この作品は短編集ではあるが、全般には中高年の女性心理を、幅広く展開されている。文章もうまい。

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2011年11月11日 (金)

特別な日

 今日は、111111と言う特別な日である。記念を刻む日かもしれない。一日、顧客回りをして、大きな可能性を感じた日である。次が見えた日である。疲労が心地良い。

 出張の合間で読む本は、軽めの本を読みたいのであるが、今回は重くなってしまった。この本は記念すべき日に相応しい、と思う。ボケ爺、お恥ずかしくも、少々、絵心があると思っている?否、ただの横好きだけである。思わず手にとった新書版が、好きな著者であり、内容が絵画鑑賞である。

 「あなたは誰?私はここにいる」姜尚中(カン・サンジュン)集英社新書である。この著者は、前著で、「悩む力」集英社新書でベストセラーを提案したところである。姜尚中(カン・サンジュン)は、悩み続けている。そこにボケ爺は惹かれている。

 「あなたは誰?私はここにいる」は、悩む人々にとって、永遠の課題である。その悩みに答えてくれるのが、肖像画であると言う。なるほど。画家の描く肖像画は、悩める人に、「私はここにいる」と表現する。画家は、人物を描いては、悩める心を、装飾し、裸にして診せる。それを鑑賞して、人は癒される。慰められる。

 「生きとし生けるもの」を描くには、「無心」が似合う。無心が人のあるべき姿である。「死と再生」も描かれる。絵の中に希望が微かに描かれる巧みさがある。「祈り」もある。人は思わず、祈りをささげる。手を合わせ、頭を下げる姿は、世界共通の動作である。人には「受け入れる」力も備わっている。受け入れる力が救いである。

 画家は、なぜ、人の悩みを描けるのだろうか?不思議な感受性だ。

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2011年11月10日 (木)

柿食えば

 暑い日が続いた今年の秋、ようやく、秋らしい気候になってきた。訪れる奈良の工場の風景も変わってきた。イネはいつの間にか刈り取られて、株が不格好に残されている。

そんな中、奈良は柿木が多いと思う。あぜ道に無造作に植えてあったり、竹やぶに居座っていたり、旧家の庭や、裏庭や、蔵の横とか、納屋の横に必ず植えられている。その柿の木の葉っぱは、すっかり散ってしまい、実がたわわに実っている。この風景は、奈良でないと味わえない秋の風景だと思う。

 奈良の名所旧跡は県いっぱいに広がっている。分散している事になる。そこが、京都と違う風景だ。近鉄の大和西大寺駅と新大宮駅の間に広がる平城京跡は、なんと広いことか。また、西の京駅のすぐ前には、薬師寺の境内が横たわっている。郡山駅の西側一帯に城があり、東は城下町の跡が広がっている。

 奈良では、斯様に、近鉄の駅前、JRの駅前には、何らかの跡地があることとなっている。だからと言って、仕事の合間に見物までしようとすると広すぎて、困難である。ボケ爺、ちょいと見学の元気がなくなっている。

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2011年11月 9日 (水)

国際ロボット展

 国際ロボット展を催していたので、久しぶりに、ビッグサイトを訪問した。展示内容としては、がっかりした内容と言うことになる。展示内容が、似たものであり、日本の創造性はほとんどなくなったと言うべきか?未来なるロボットだから、新技術が沢山あるだろう、と期待したのであるが。センサー技術も平凡である。画像認識も変わった物は見受けられなかった。機構も、各社良く似ていて独創性は無い。「みんなで渡れば怖くない」が将来技術にまで及んでしまったのだろうか?

 その中で気になる動きは、三菱電機だ。弱電から脱皮を図っている様が良く表れていた。企業としての変貌を遂げようとの努力の跡が見える。全体の展示スペースも縮小気味だ。とにかく、モノ作り日本は縮小している。これで、TPPで元気になれるとは思えない。大学からの展示を期待していたのだが、10校程度か?これでは、東電の活躍するロボットはアメリカ製になるのもうなずける。同時開催の先端材料技術展も冴えない。炭素繊維の応用が大半である。

 今回は、ボケ爺のアイデア発想を刺激する研究、開発のネタは発掘できなかった。残念。 日本、元気を出せ、頑張ろう!

<読書>

「あなたがいる場所」沢木耕太郎 新潮社

九つの短編集である。作家の沢木氏が、短編集を書くのかと驚いた。何時も長編の重い作品が多かったと記憶している。少し気に入った作家であった。短編は、原稿用紙30枚ほどで、完結させなければならないので、話が幅広く飛び跳ねる。そこにダイナミックさがあり読み応えがある。さらにそれが九つも集まると、それぞれが違う話題で、さらに考えさせられる幅が増える。創造力に付いていけないが、楽しいひと時である。

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2011年11月 5日 (土)

早咲き山茶花

 森のテラスの上の垣根や、若葉図書館の坂の上の垣根には、早咲きの山茶花が満開を迎えている今日この頃だ。明日は雨が降る、そしてその後は冷えると言うので、猫の額の庭の木々を剪定することとした。

 すると、いつの間にか種を播いていた山茶花が美しく咲いていた。我が家にも早咲きで、かつ、椿のような美しさ、ひょっとすると、山茶花と思っているが早咲き椿かも知れない。花が散る時を注意してみよう。

 伸びきった枝を荒あら切り取ったが、枝の片付けが、大変だ。半分ほど終えたが、体力が続かない。軒先の下に積みあげて、片づけは明日に回すことにした。ボケ爺も体力を無くした。脳出血の後遺症はあるものの、右足の不自由を乗り切って、梯子を昇っての作業や、塀に立っての作業も、無事終えることが出来た。こんなに汗を流したのは、脳出血発症以来かもしれない。サルスベリだけは、まだ花を付けているので残した。

 さてあすは無事に片付けが終えるだろうか?ボケ爺頑、張れ!

<読書>

「義民が駆ける」藤沢周平 中公文庫

史跡、歴史の資料に基づく、歴史小説である。三方国代えの話で、農民の活躍から、その通達を覆した物語である。「農民の二君に使えず」の大義での戦いである。水野忠邦の失脚につながった。政治、政策と人の心の読み方に、実にいい味がある。

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2011年11月 3日 (木)

伝える力

「伝える力」池上彰 PHP新書の売り上げが好調だと言われて、本屋では、150万部突破と気炎を発している。ボケ爺は、初版を読んだ。何といっても、「池上彰」氏は、NHK子供ニュースで有名な「お父さん役」であった。子供たちの教育の為に、子供たちと必ず見ているようにしていた。

 だから、この本が出た時は飛びついた。「話す、書く、聞く」事の、きっと、優しく、解り易く、説得のノウハウを教えてくれるものと期待したからだ。しかし、期待は見事に裏切られた。文章は幼稚で、まして分かりにくい。この文章で、150万分とは、言葉を失う。タイトルとは裏腹に、「伝える力」が無いからだ。また、書かれている内容も、抽象的で具体性に欠ける。テレビの売れっ子だからだろうか? 

テレビの解説も、解りやすいようだが、良く、良く聞くと、きわめて単純化しすぎて、歴史は、世界はこんなものではない、と、クレームしたい。実に、矮小化している。池上彰氏はオカルト教徒の一人ではないだろうか?もし、日本国民がこの人をまともだと意識しているなら、思考力を失った日本国民総薄知となってしまう。とボケ爺は悲しんでいる。

 コンサルティングを始めてから、「伝える」事の難しさを、改めて認識している。昔は少々荒っぽく、上司の目線で押し切って、部下を説得したものだが、第3者での立場からの伝達は、無に等しい。「無」であることに、これから、どの様に向かい合っていけばいいのか?と悩む日が続いている。

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