打ち水
猛暑が続く。10年に一度の当たり年だ、と前回のブログに書いた。打ち水で少しは温度が下がることまでニュースになる平和な時代である。ボケ爺も、猫の額ほどの庭に、水をまく。木々が萎れてくるからだが。打ち水をする時に思い出すことがある。
18歳までの田舎での生活である。エアコンは勿論無い。川か、海にいって、泳ぐか、庭先で水浴びをするしか無かった。親父が、黙々と庭に打ち水を夕刻にやっていた後姿を思い出す。風の力で、室内に冷気を呼び込むしか無かったからだ。親父のやることに何から何まで反対していたボケ爺は、このことだけは内々認めたが、自分の手伝いとして買っては出なかった。
そんなボケ爺が、可笑しくも、今は、エアコンがありながら、打ち水をしている。そこに老いを感じて悲しみが湧く。我が庭に打ち水をしても、風が通らないほど近所と接近している。やぶ蚊の生殖を助けているだけだ。打ち水の間、5~6箇所は刺されている。
5年も日本を離れて今年が久しぶりにゆっくりと日本の夏季を過ごすのである。我が家の近くにはセミの鳴き声が少なくなったような気がする。実篤公園では、何時もと変わらないようだが、何かが変化している。立秋が過ぎると、ツクツクボウシや、ヒグラシの鳴き声で秋の冷気を感じたものだった。すると森のテラス付近から哀愁のヒグラシの鳴き声が響いてきた。昆虫類は、しっかりと四季を感じているのだと、人間と違う不思議な感性の世界をのぞいて人の傲慢さを反省する。
又、下らぬ事を考える。忙しく働いているのだが、成果はおぼつかない、世に影響を及ぼす事もできない。我の器が小さいからで、これが限界だ。性急に結論を出さないように、年寄りらしくゆっくりと考えねば、と思うのだが、勢い込んで下り坂を駆け下りているボケ爺の姿が醜い。
<読書>
「其の一日」諸田玲子 講談社
長い一日を経験する事がある。一生の出来事が凝縮されている。往々にして、歳を取るにつれ、一日で、過去を振り返ってしまう事がある。若い作家の彼女が、こんな見事な人生論が描ける才能が羨ましい。
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