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2010年5月27日 (木)

パワハラとうつ病

 パワーハラスメントに気を付けないといけないのだ。部下を叱咤激励して「頑張ろう!」と言ってはいけないのだそうだ。あくる日から出てこなくなって、「うつ病の診断書」が送られて来るそうだ。今の日本の現実らしい。これでは、韓国、中国には、当然勝てないだろう。勝ち負けで人生決まるものではないが、「豊かさ」の価値観を大きく変えなくては生きて行けなくなっている。日本はGDP20位を目指そう。

 エリート社員に多いそうだ。実際は「非うつ病性うつ病」と言うらしい。言葉だけからは何がなんだか分からない。だから「パーソナリティー障害」と言われるようになった。新しい「引きこもり」層が生まれてきているのだ。就業から逃れて引きこもってしまうことらしい。

 プライドが高くて、傷つきやすい人に増えている。「会社は脅威に満ちて、自分を迫害している」と逃げるようだ。勝ち負けで判断する世の中が可笑しい、とボケ爺は思っている。ボケ爺は過去において、毎日のように、パワハラをやっていた。皆苦しくても一緒に仕事が出来ていたと思っていた。が、どれだけ若者を苦しめていた事だろうか、反省している。(サルでも反省する、ではなく)老人の引きこもりも増えているようだ。定年退職してからが老人とすれば、60%以上が、家に引きこもって、会話をしていないのだそうだ。気をつけなくては。日本人は単一で、単純で「傷つきやすい民族だ」と思う。

 日本人の特長は、「疲れやすい体質にある」、と、近藤和彦氏言う。だから、世界一過労死が多い。3万人もの自殺者は異常である。それに伴い、ミニチュア(小型化、圧縮など)の美意識が発達しているとも言う。ボケ爺もそうかもしれない、と苦笑する。

<読書>

「傷 慶次郎縁側日記」北原亞以子 新潮文庫

家督を譲り、隠居した森口慶次郎が、隠居のみを何かともてあましている姿が、愉快である。もてあましている姿が、「もっともだ、もっともだ」とうなずけるボケ爺も、やはり隠居に入っていると言う事だろう。こんな生活が出来ると、もっと楽しいのだが。

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2010年5月26日 (水)

癒着

 日本人は「甘え」の構造には弱い。何事にも癒着を試みて、甘い汁を舐めたがる。と言う分析をした人がいる。第二段の業務仕分けは順調に進んでいるようだが、前回よりも追及が甘くなっている。その間何があったのか?最近の新聞ニュースで気になることがある。

 官庁人(公務員)の天下り先の平均給与が1900万円何がしになる。これが、高くない、と豪語する人がいる。民間人と比べるとはるかに高い。その分に値する仕事をしておればまだしも、ほとんどしていない現実から、公務員の甘えの構造の体質は変わっていない。

 民間人にもそんな人がいることも、又事実である。JAL再建で乗り込んだ、某大企業の会長もその一人である。早々に、自分の会社に、JAL乗車券の割引の特権と、JAL乗車優待券を社員にばら撒く、と言う珍事をやっている。政界財界、一般人には受けが良い人らしいが、私欲の強さでは、今世紀最大の人だろう。JAL曰く、「その某企業から辞退があったので、取りやめました」と言うではないか。国民の税金をつぎ込んで再建をスタートしているJALが、特定企業に特権を与える事態が可笑しいのであって、JAL自身で、「考慮が足りませんでした」と謝るならまだしも、JALは悪い事はしていないという。こんな自覚では再建はおぼつかない。それに、某会長は「その他の企業と横並びだから、問題は無い」、と言うが「何故、特権が追加認められたのであろうか?の疑問は残る。

 官房機密費の件である。民主党の公約で、「内容を公開する」としていた。が、一点公開しない、と言うことになった。419日にTBSの「NEWS23クロス」で、野中広務元官房長官が「メディアとの癒着を暴露した」それも広範囲にわたっている。記者クラブの記者など、全く大人しくなってしまった。政治評論かも然り、である。公然と「断れば相手の人との関係悪化が起きる」と言う人も現れてくる。真実は何所にあるのだろうか?

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2010年5月25日 (火)

残念な人

 前から思っていたのだが、ボケ爺(小生)は「もう一歩の人」と言える中途半端な人格であった、と。何事も頂上を迎える緩やかな坂で、行き詰まり、留まって、その後は滑り落ちながら、何かにすがって生きているようだ。

 そんな人を「残念な人」と言うらしい。「残念な人の思考法」山崎将志 日経プレミアムによる。残念な人とは、あと一歩の人らしい。経営的判断で、もう一歩粘って提案をお願いする気概と努力をしていたら、世の中変わっていたはずの案件が2件あった。後一歩で「残念な人」となってしまったことに後悔をしている。

もう少しで成功する(成果が出る)のに止めてしまうから、「もったいない人」なのだそうだ。研究開発面で、もう少し粘っていれば成果が出たのではないか、と悔やまれる案件もあった。

短絡的な「目標」に留まり、その先(目的を認識していない)を見ていない人なのだそうだ。それはつまり、「目的と手段」の区別も出来ない人のことを言うらしい。

 「感情的(好き嫌いで)」な判断をしてしまい、「論理性」を失っている人のことを言うらしい。当然だよね。

「仕事にプライオリティー」が付けられない人のことを言うらしい。何でもかんでもでは、やりにくい。プライオリティー付けをして、集中が大切である。

 仕事を「任せられない」人のことを言うらしい。上司は部下を信じられなくて、「任せられない」。部下は、この上司に付いていって良いのか迷い、上司に命(人生)「任せられない」。そんな双方向で、疑心暗鬼が起きている。ボケ爺は深く反省しなければならない。

 ボケ爺の過去の経験を照らし合わせれば、いずれも、全く当てはまってしまう「残念な人」なのである。「覆水盆に帰らず」と言うか、「負け犬の遠吠え」と言うか。今になって開き直れば「蓼食う虫も好き好きの人生だい!」と。

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2010年5月24日 (月)

先週の散歩で出会った事

 早朝の散歩は続いているが、コースは決まってきた。チャレンジがなくなった。歳のせいか?そうとは思いたくないが、現実は怠けている。しかし、そんな定点の観測でも面白い出会いがある。

 森のテラスでは、まず、雨上がりの朝、例の回虫虫の様な奇妙な生き物に出会った。頭が両方にあったように思ったのだが、今回ははっきりと、一つ頭であることが分かった。頭は扇形をしていて、活発に動かしている。次に、土曜日だったか、蟻の一斉引越しに出会った。森のテラスの庭から、対面の庭に移動中であった。5cmほどの真っ黒な帯(どのぐらいの数か?想像すら出来ない)が出来ていた。8割は隣に向かって移動、2割ほどが戻っている。それぞれの役割は決まっているのだろう。食料を運んでいる姿ではなかった。

 森のテラスの近くの家の庭に、美しい花が咲いてきた。一つは、周辺が薄いピンク色で、花びらは明確に分かれていないつぼ型である。メシベは当然一つ、オシベは十本で、その花びらに埋もれている。不思議だ。二つ目は、白い花と、青紫に花が、対で咲いている。花びらはそれぞれ5枚に分かれている。当然に額も。これとて不思議な木である。

 絵描きさんが、50mほど移動していた。橋の袂からの森の絵は終わったようだ。今度の絵の風景は、さっきまで描いていた橋元にある家の風景だ。その家は蔓バラで囲われているからだ。玄関先にある電柱を借りてそれに巻きついた真っ赤な大輪のバラの花は見事である。庭にはエコグリーン化を兼ねて、二部屋ほどを覆い隠して、二階の屋根以上の高さまで伸びた黄色とピンクの混じったバラの花は今が盛りである。その前には垣根の代わりのバラの花が一面に咲き誇っている。絵描きさんはその美しさを残しておこうとしている。絵の質は、前回の重厚な色使いと違って、薄く淡い、軽いタッチである。

 早く、絵を描く生活に入りたいのだが、準備が出来ていない。何事も準備が大切である。準備力という本があったことを思い出す。

<読書>

「警官の紋章」佐々木譲 ハルキ文庫

作者は、北海道警察を中心とした、警察サスペンスと言うか、ミステリーと言うか、内部告発本と言うのか?ここまで、警察内部を暴露して、刺される事は無いだろうか?心配になる。ノンフィクションなのかもしれないと期待しているが。

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2010年5月22日 (土)

やっと分かった花の名

 たびたびこのブログに書き込んだ韓国での生活で、会社の中央門の近くのアパートの街路樹で、この時期に、真っ白く美しく咲く花があり、その花の名前を知りたかった。日本では見たことがなかった。さらには、何だが有難い宗教に関係があるようで、神秘的な花であった。と言うことから忘れることが無かった。

 先日のTVの天気予報か何かで、「ヒトツバコダ」だと説明された。「それだ!」と急いで控えて、ネットで検索したが、そんなに多く検索できなかった。「ナンジャモンジャ」の別名(俗名)がある。宗教に関係あったのかはこの呼び名からは分からないのだが?

 モクセイ科である。「福知山市の名木」である。愛知県、岐阜県、対馬だけに自生しているようだ。こんな美しい樹がどうして、植木として全国に植えられていないのか?不思議である。あるいは、お寺の特別な門樹として増えていてもよかったのではないのか?と思う。対馬は韓国に近いので、韓国では当たり前の樹であるのかもしれない。が、韓国でもそんなに多くは見当たらない。

 喉につっかえていた物が、すっきりした瞬間である。ボケ爺、歳だから引きずっていた。

<読書>Hitotubakoda_tinki08_05_13 Hitotubakoda_o0350026310174192374_2

「カシスの舞い」ハハキギ蓬生 新潮文庫

精神病と薬剤の開発にまつわるデータ捏造の裏の舞台が暴露されている。なるほど、マウス、サル程度ではその効果が分からない。まして、脳の仕組みでは、人間相手で検証しなければ、本当の実績は分からない。この話はフランスを舞台にしているが、ドイツでは、一度、人体実験をしていることについて暴露されたニュースを見たことがある。考えさせられる、課題が多い物語である。

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2010年5月19日 (水)

絵描きさん

 ここ10日ほど、早朝雨が降ることが無く、良い日が続く。少々疲れてきたので、短絡コースにしていた。そんなある日、くたびれた自転車が、橋元に止まって、荷物を降ろしている老人がいる。背の高いイーゲル、折りたたみの高椅子、背の低い椅子、絵箱、など、すべてが年季物であるが、一通りがそろっているのを見て驚いた。自転車も改造されており、遠出が出来るようになっている。

 川向こうの新緑の林を描いているらしい。初日はこちらも遠慮して、と言うより、無視をしてやり過ごした。二日目も同じ場所で、描いていた。チラッと覗くと鉛筆でデッサンをしていた。結構細かい。三日目は、カリカリと音を立てている。ペンでなぞっていた。これはモノクロペン画にするのか?だから、ここまで細かく描くのだろう。それなら、今日で終わってしまうであろう、と勝手な想像をして、堂々と覗き見をさせてもらった。構造と言い、線画の描写といい、結構な腕前だと言うことが分かった。

 4日目は期待していなかったが、後ろ姿になってたたずんでいるのを発見し、安心した。まだ仕上げられないのか?納得がいかないのか?と想像して近づくと、今度は色を付けていた。真っ黒なインクの上に、見事な緑の色彩が描かれている。その風景は、朝日が強く当たって木々は光り輝き、森の中は白い霧のようなモヤがかかっているような感じであった。ルノアールをはじめとする印象派の風景を思い出させる。コントラストの表現が難しいだろう。

 5日目の今日も、細筆で、細かく色付けを続けている。よく見るとアクリルである。乾燥していないアクリルでの重ね塗りは難しいと思うのだが。少なくともボケ爺より年上の経験者である。忘れていたボケ爺の絵心が刺激を受けている。いつ、倉庫から油絵の道具を持ち出すことになるだろうか。

<読書>

「共犯者」松本清張 新潮文庫

短編集である。文体が美しい。いずれも展開が素直である。流れがスムースである。人のこことの心境、変化を基本として描かれている。短編のそれぞれが、人の内面の一点一点を取り扱っている。総合すれば人のリスクのすべてが描かれていることになる。実に楽しい。

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2010年5月17日 (月)

母の四十九日

 昨日は、母の四十九日の法要を済ませた。四十九日とは三途の川を無事に渡って、さてこれから、天国が地獄かを、閻魔様が決めてくれる日のようである。当然であるが、苦労したお袋には、無事に天国に行ってもらいたい。さて、ところで親父は天国へ行けたのか、地獄に落ちたのか?それによっては、天国で会えないかもしれない。今更、会えないほうが幸せかもしれない、と想像する。

 会食は、瀬戸内海の見えるホテルでした。親父にはこの海での思い出は多い。水泳と、伝馬船のこぎ方、と、貝の採り方を教えてもらった。お袋との、この新舞子の浜での思い出は少ない。それでも、何度か、海の家での、守り役として一緒に来てもらった。カキ氷を食べさせてもらったことが思い出させる痕跡が残っている。

今日は格別に天気がいい。潮干狩りで、浜辺は人出で一杯であった。徐々に引き潮になって、遠浅が広がってきた。アサリ、ハマグリ、マテガイなど採れるのだろう。今では韓国産をばら撒くと言う。遠くには、小豆島がくっきりと見えるし、その手前の小さな島郡は石切り場となって、乾いた赤茶けた岩が丸出しで、荒れた風景に変ってしまっている。関西空港の埋め立てに使われたようである。それにしても、なんと穏やかな海であることか。母に、こんな穏やかな海と、良い天気の中で、一緒に食事でも出来ていたら、と、兄妹は反省仕切りである。

<読書>

「冬の巡礼」志村辰夫 角川文庫

物語の構想はすばらしく広大である。その分、展開が飛躍して、ウッカリすると、前後の経緯の理解が難しくなる。サスペンスものである。浅間山荘事件とよく似た展開があるように思える。人間の心理展開も読み応えがある。

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2010年5月 9日 (日)

母の日

 母の日であるが、先日、永眠したので、贈り物を考える必要は無い。わずらわしくも思ったこともあったが、それも贅沢であり、現実は寂しいものである。来週が49日になるので、今日はボケ爺の御経を挙げることで我慢してもらう。合掌!

 二階のベランダに椅子を出して、読書、と試みてみた。ジャスミンの蔓が二階まで登ってきており、今が花の満開で、その香り、若葉の匂いとのハーモニーが、五月のそよ風に乗っかって結構、優雅であり、心地よい。クロアゲハ、真黄色の蝶が時々、覗きにやってくる。歓迎せざる熊蜂まで、ボケ爺の居眠りの監視にやってくる。

 「反哲学入門」木田 元 新潮社は一度、ブログで取り上げたことがある。「根を挙げて、最後まで読むことを断念してしまった」、と。勇気を出して引き続き読むことを決断した。なんと「反哲学」を定義する、少し前で投げ出していたのだ。前半は、長々と、プラトンから始まるアリストテレスへのギリシャ哲学史で飽きてしまったのだが。イデアを見つけ出し、絶対化する哲学を形而上学と言う。つまり形而上学が哲学である、と。

 カント辺りからヘーゲルに至って、「反哲学」と言う、と定義する。そこに大きく貢献したのがニーチェだと言う。絶対の神を否定して、「生きる」ために、何が必要か?人間は、キリスト教のような「神」に求めるべきでなく、「生の人間」を課題とするべきだ。生きるには「意思(Will)と、意欲(Want)」が全てなのだ、と言う。そして、ハイデカーの現象学「存在と時間」で醸成された、と言う。ニーチェ以前と以後とでは、「哲学史を一線上では考えられない」、と強調する。以前が「哲学」なら以後は「反哲学」とするべきだ、と。

意思と意欲の「それはなんであるのか?」がもっとも大切な自然な生き方である。ボケ爺の技術、経営に通じることで、人生論にピッタリと当てはまるではないか。少しはすっきりとした。

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2010年5月 5日 (水)

チャーリーの散歩道の思い出

 早朝の散歩を始めてから、約1ヶ月を迎えた。実篤公園の中道と、そこからの森のテラスの坂道を基点、定点観測をすることにしたことは、前に記述した。その理由は、ボケ爺の愛犬だったチャーリーとの散歩のルートと同じであったからだ。

 今日の実篤公園の竹の子は、2mにもなってしまったものもある。多くの竹を伐採したためか、今年の竹の子は太い。直径20cmほどもあるものがある。春はいつの間にか走りすぎて、初夏となってしまったようだ。森のテラスでは、チューリップ以外にも、ボタンが満開となっている。真っ白だ。これなども、チャーリーは知っていたはずだ。

 ほとんどの散歩コースを回ったことになる。最も遠いところで、中央学園から野川に、成城の西まで回って野川沿いに帰るコースである。チャーリーと一緒のときは、2時間半から3時間コールとなる。ボケ爺の現在では、1時間チョッとだ。ミニチュアダックスフントのチャーリーとボケ爺の歩幅の違いは、20対1ほどか?すると、チャーリーは20倍を歩いていたことになるのか?よく付き合ってくれたものだ。今に思えば感謝。合掌!

 野川の散歩道は、世田谷、狛江、調布、で施設が違う。世田谷がもっとも整備されていて、散歩には心地よい仕掛けがたくさんある。小田急線の喜多見車庫がある近くである。特に、この近辺は快適である。狛江、調布になると、途端に素朴になってしまう。住民税はそんなに違わないはずなのだが。

<読書>

「天地明察」冲方 丁 角川書店

4代将軍家綱の時代小説である。一般に時代小説は、市井の生活を扱ったもの、武家社会の執念を扱ったものが多いのだが、これは全く違う世界が描かれている。囲碁の世界、和算術の関孝和を代表するそろばん、幾何学、すでに、平方根、円周率までもが独自で、できていたなど、刀とは関係の無い世界が脈々と育っていたということに、まずは驚く。それに、暦が大きな課題であったらしい。中国からの授持暦と宣明暦が争っていたらしい。他にもいろいろあったようだ。地動説は分かっていたようだ。幕府が、北極星を測定して緯度を計算するために、全国に派遣して測定したようだ。月蝕日蝕なども計算して、いついつ起こるはずだと発表していたようだ。神教にまで言及されている。江戸時代にこんな世界があったという、壮大な物語である。是非読むべし。

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2010年5月 3日 (月)

鶯がやってきた

 今朝、散歩から帰ってきて、朝風呂に入っていた時だから、7時ちょっと前か、鶯のさえずりが聞こえた。3度聞こえた。間違いでない、確かだ。最初の一声は、セキレイの鳴き声と一緒だったので、疑ったが、2度目、3度目は確かである。その後、鳴き声を聞くことができなくなった。

 洗うのも忘れ、風呂から飛び出し、実篤公園に行ってみたが、残念ながら、そこにも居てくれなかった。静寂な森があるだけだ。中央学園の富士見台の森には何匹かの鶯がいることを確認している。最も遠い散歩道で、そこまで遠出をするからだ。

 今日の散歩道で、神代団地の垣根の隙間から、パンの切れ端を撒いている人が居る。そこに集まっているのは、すずめである。西には野川が流れており、多くの住民は、橋の上や、土手から、パン屑をやって、鯉や、カモなどを集めていたのだが、そういえば見かけることが無い。禁止されたのだろうか?だから、すずめか?

 確かに、すずめが少なくなっている。一週間前に、ボケ爺の二階のベランダに、米を撒いてやったが全く寄り付かない。そこで、パン屑をも撒くことにしたが、今日一日、一羽もやってこない。ちょっかいを出した様子も無い。一茶が悲しむだろう。何か異変が起こっているのだろうか?明日も待ってみよう、気長に。

<読書>

「ホワイトアウト」真保裕一 新潮文庫

今売れっ子ミステリー作家の真保の初期の作品である。ミステリーというよりか、サスペンスである。壮大な構想はこのころからあったのだと驚く。とにかく愉快だ。

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2010年5月 1日 (土)

吉か凶か?

 我が家の庭では、オランダで買ってきたチューリップに、奇形児が混じっていたようだ。チューリップは、ひとつの球根に一輪の花を咲かせる、と思っていた。茎の途中から二股に分かれ、二輪の花が、大きさも色合いも、全く同じの双生花を付けていたのだ。それ以降、各家や、森のテラスのチューリップを注意深く観察するようにしたが、双生花に会ったことが無い。また、娘の一歳の誕生日に植えたマロニエは、嫁いだ年に枯れてしまったが、孫の誕生に合わせて、自然に生えてきた。なかなか成長しなかったのだが、今年は元気である。これらの不思議に、吉か凶か?

 森のテラスの管理人の家に、救急車と、パトカー、それぞれ一台。それに、ポリスボックスの自転車が二台。玄関は開けっ放し、パトカーの警察官、救急車の救急員は全員、家の中だ。ポリスボックスの二人の警察官が、周辺をウロウロしている。何か事件か?興味を抱いたが、野次馬のごとく振舞うわけには行かない。一人の警察官から不審者のように睨まれたからである。チューリップの庭には変化がないようである。次の日、いつもと全く変化の無い風景があった。この出会いは、吉か凶か?

 実篤公園の中道に出るには、7段ほどの階段を登る必要がある。その左手に古い家があって、そこからカラスが飛び出して、ボケ爺の薄くなった頭にぶつかってきた。その庭は2坪ほどで粗大ごみが以前から放置されている不気味な家である。その玄関に置かれた回収の生ごみからの戦利品のハムを銜えていたのだ。このカラスの自己防衛は、ボケ爺にとって、吉か凶か?

 散歩から帰ってきた時、前の家のご主人に頭を下げ挨拶すると、「ちょっと」、と言うではないか。「これは蛇でしょうか?」と質問だ。奇妙な虫には見覚えが無い。明らかに、蛇ではない、ミミズでもない。3ミリ幅で、長さが20センチほどある。茶の色をしている。頭は両方の先端にあり、それぞれの方向にゆっくりと動いている。「こんな奇妙な虫を置いていくのは、嫌がらせだろうか?」と聞かれたが、答えは無い。ひょっとすると犬か猫の回虫虫か?これは吉か凶か?

<読書>

「崩壊」山田智彦 小学館文庫

バブル前夜の饗宴を主題にした、ハゲタカも絡んだ、裏の経済の悪を描いている。今読み返してみるとバブルの実態がよく描かれていたことが分かる。

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