« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »

2009年8月30日 (日)

選挙に思う

 今回の選挙に思うのだが、どの政党のマニフェストを読んでも、ロジカルではない。情緒的でもない。言葉は伝わるのだろうか?麻生首相が筆頭に、多くの選挙演説も何だか、明確に伝えたい言葉、情熱がない、未来がない。人を見下す、相手を非難する言葉はなるほど、分かるが「品」がない。

 政治家の言葉の軽さにあるのかもしれない。軽さのひとつに多弁があるだろう。しゃべりすぎだ、口だけの言葉で実行が伴ってないのも悲しい。ジャーナリストの未熟さも気になる。この基本は本を読まないところにあるのかもしれない。言葉の持つ力は大きい、と思う。大平首相などは、寡黙であり、多くを語らなかったので、多くの人が補った。その分一言が重かったような気がする。

 安藤忠雄は言う、「暇があれば、本を読む。想像が膨らみ豊かになれる」 井上礼之ダイキン会長は曰く、言葉には感性が必要だ。言葉は触媒であるはずだ」 ボケ爺の好きな作家の一人諸田玲子曰く「自己本位で全体が見えない、聞き手上手でないのは、本を読まないからだ」と、お三方さんの批評も厳しい。

 作家の江波戸哲夫が言う、「話す言葉、と書く言葉は違う」「話す言葉には信念がいる」 強い信念が身体から溢れなければ、人をひきつけることはできないだろうと。

<読書>

「まじめ半分」阿刀田高 角川文庫

不良品のボケ爺、にとって、悪い不良点は、未だにパワーハラスメントを行っている。だから、まじめ半分でありたい、不良でありたい、など、心がけている。まさにここには、まじめに不良のジョークがまぶされている。こんな人物に成れたら好いのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月29日 (土)

KJ法

 川喜多二郎さんが、7月8日に亡くなられた。89歳だったと言う。1984年にマグサイサイ賞に輝いている文化人類学者である。企業人にはなじみの深いアイデア発想法として、また、調査内容の整理法として、ブレーンストーミング法と並び、「KJ法」は必ず使われる手法であった。カードに発想を書き込み、同じカテゴリーの島を作り、まとめる発想法である。これを使った合宿を懐かしく思い出している。間違いもなく歴史的な、創造性の発想法のひとつである。

 産業界の発展に、持ち込まれた創造性発揮の手法の提案者が、亡くなられ、寂しい思いと、日本の歴史に大きな貢献をされたことを感謝しなければならない。企業人のボケ爺には、産業界への貢献を挙げたが、本当のところは、文化人類学者であるから、地域の生活改善だとか、ネパールだとか、ヒマラヤ保全などでの活躍の方がむしろ有名で功績が沢山あるのだろうが。ボケ爺はそちら方面には疎い。

 ボケ爺が学んだ著書は、「発想法 創造性開発のため」中公新書がはじめで、「続発想法 KJ法展開と応用」中公新書、「「知」探検学 取材から創造へ」講談社現在新書の三冊である。他にも沢山の著書があるのだろうが、怠け者のボケ爺はこれ以外の勉強はおぼつかなかった。

 ボケてしまってからでは始まらないのだが、「発想法」なる手法をまとめて見たいと思うときは真っ先にこの著書を読み直さなければならない、と考えている。KJ方は古くはない、なみなみと生きている。

<読書>

「生命の木下で」多田富雄 新潮文庫

人生の豊かさを文学で、生命の美しさを科学から学んだ、と言う。科学者でありながら、文章がうまい。免疫生物の不思議を多田先生から学んだ。免疫学の第一人者が、語るエッセイはしみじみしていて、心豊かになれる。疫病神が吹っ飛んでいったようだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月23日 (日)

予行演習

 「予行演習」とは懐かしい言葉である。「教わっている時代」は、何かをしようとすれば、必ず、予行演習を行った。しかし、実社会では、めったに演習は行っていなかったことに、気が付いた。ほぼ何時もいきなり本番であったように思う。毎日が演習のようだったが、予行は如何していたのだろうか。この夏休みは、退職後の予行演習となった。

 朝から、やることがなく庭を眺めている。不良品の百日紅のピンクの花を眺めている。今日はいきなり。ツクツクボウシが鳴いている。初秋なのだろう。ふと気が付いた、もっと不良の木を見つけた。ザクロの木である。20年間、花も実も付けない。ザルすべりよりも大きかったのだが今はすっかり追い越されて、植えた時からそんなに成長していない。これぞ不良品である。まるでボケ爺、そのものだ。坂を上がったアパートの庭には見事なザクロの木があり毎年沢山の身をつけていた。3年ほど前に、刈り込んでしまって今は無残にも実をつけなくなってしまっているが。ザクロを選んだのは、絵が描きたかったからであり、食べたいからではなかった。20年前から一度も絵を描いていないボケ爺が居る。

 アゲハチョウが舞っている。大きな羽目をヒラヒラさせて。実に優雅である。あの体で、大きな羽を動かせる力は並大抵ではないはずだ。スピードは出ないが、曲芸のように動ける。これも乱流の仕業で飛んでいるのだろう。クロアゲハだ、迷い込んだのだろう何もない庭に。早々に出て行った。すると入れ替わりに、赤とんぼがやってきたが、それも直ぐにいなくなってしまった。アゲハチョウだけが、哀れなボケ爺と対面しながら残ってくれている。

読書

「霊長類ヒト科動物図鑑」向田邦子 文春文庫

エッセイ集である。題名は自分のことを言い当てているのか。話はトントンと心地よく展開するが、表題に戻る書き手は、唸るよりない。もうひとつ重要な発見をした。記憶力が実にいいと言う事だ。展開は必ず過去に立ち返っている。ボケ爺は記憶力が悪いので、エッセイは描けない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月22日 (土)

毎日が日曜日

 蝉の叫び声で目覚める。城山三郎ではないが、今日が何曜日か、判別出来ない。何をすることもなく、ネットサーフィンを繰り返してしまう。今日は美術館めぐりかと、検索してみたが、数が多すぎて、検索に時間がかかる。夏枯れを起こしているらしい、それに子供むきになっているようだ。それだけで、2時間も時間を費やしている。

 それでは無駄だと、隣の駅の仙川の街を巡回することにした。桐朋学園では、運動部の練習の運動場では黄色い掛け声で、益々暑くなっている。表では、窓を開けっぱなしだろう教室から、音楽の練習らしく。ピアノ、弦楽器、管楽器の音色が複雑に絡んで聞こえてくる。蝉たちもさすがに遠慮しているようだ。

 ご愛好の古本屋で時間を過ごす。ここにある本は誰かが読んだのは当然である。美術書コーナーでは、欲しい本がたくさんあるが、今買う訳には行かないので、目立たない隅に自分のコーナーを作りそれらをまとめている。退職したら早々に買い求めるつもりである。歯抜けになっていることがある、と言うことは誰かが買い求めたか、店の人が並び替えたかである。3冊200円を買い求めて、近くの喫茶店で時間を潰す。それでも、2時間が精一杯だ。

 庭の草取りでも、と真面目な気持ちになっても、怠け者には西日は厳しい。石のガマ蛙に、水を降り掛けて、昔の住人であった本物のガマ蛙の行方をあんじて、ガマの顔を回想している自分を発見した。ボケ爺、早々に、うたた寝に、興を求めている。

読書

「思い出のトランプ」向田邦子 新潮文庫

直木賞の「花の名前」「犬小屋」「かわうそ」が含まれている。短編がこんなに面白いのかと、阿刀田高さんに代わって申し上げたい。無駄がない文章、短く言い切る短文に、余韻が心地よく残る。それにしても、うだつの上がらない男を女が支えているように思え向田さんの男にしてもらいたく妬ましく思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月20日 (木)

夏休み

 久しぶりの夏休みを取っている。日本に居る。いろいろ家族に課題があって、この一週間で始末をつけてしまいたかったからだ。

 まずは、母親である。微熱が続き、老衰と言うことで入院をしている。メールで兄妹から情報を得ているので、心配はないのだが、見舞いをしておかなくては、と、姫路まで出かけた。人間はここまで、小さくなれるものか、と驚きである。点滴で、手足は真っ青である。痴呆症であるらしく、ボケ爺を思いできないようだが、じろじろと眺めては微笑んでいる。何らかの認識があるのだろう。可愛そうであるが、どうしてあげることも出来ない。

 孫と出合って挨拶をした。3歳を過ぎたからか、爺にはゴマをすることを良く知っている。食事が終わると、手をつなぎに来て、おもちゃの方に引っ張って行く。「これが欲しい」と言う。手ごろな値段である。これも母親の教育の賜物か。幼児の成長は想像以上に早い。ボケ爺の時代ではないことは明らかである。

 息子の用事も、この一週間のうちに、半分は終わらせようと、覚悟していたが、「親父、そんなに急がなくてもいいよ」の一言で、後半の休みは空白が出来てしまった。暇つぶしに山手線に乗って、古本屋で買った本を読むことにした。昼間の乗客は2割がサラリーマン、4割が、これ以上見せられないほどの露出度の高い若い女性、4割が定年後のどうして過ごそうかと迷っている人たちである。その内の半分がご婦人と同伴である。その夫婦は、当然であるが、夫人が仕切っている。亭主は小言を言われながら後を追っている。

 こんな風景の中では本を読める状況ではない。と降り立ったところが、上野公園口である。木陰で、ペットの水を飲み、美術館めぐりを堪能した。ボケ爺の入館料はタダだったり、半額だったりで。老後の生活設計が半分は見えてきた。

読書

「隣りの女」向田邦子 文春文庫

今回も唸る。女性が女を描く。女の機微を表現する。生活を物語る。ミステリ的で、リアルで、切なくて、可愛くて、狸心で。有名な性描写の達人作家よりも、短く、ずばり言い切る性描写は実にリアルである。この創造力は如何すれば盗めるのか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月19日 (水)

不良品の百日紅

 今の職場で、初めての夏休みをもらった。久しぶりの我が家では、遅咲きで、旨く咲くことが出来ない不良品の百日紅が、それでも、ピンクが美しく、例年になく、福やかに咲き誇って迎えてくれた。不良品と不良品は気が合うのかもしれない。  実篤公園は、間引かれた木々でも、うっそうと真夏の深緑に湿気を包み迎えてくれていた。池には、トンボが沢山群がっている。糸トンボが珍しくも生き続けていた。木々の間からは、クマゼミ、アブラゼミ、それに秋を知らせるツクツクボウシが、残り少ない人生を激しく存在を自己主張している。池の鯉は、穏やかに冷水の中を、しかも悠々と愉しんでいるようだ。  森のテラスは、いつもと変わらず、木漏れ日の中で、音楽を楽しむ人たちの集会を招いている。バイオリンの演奏はそよ風にのって、一層優雅に奏でられているように、音痴のボケ爺でも感じる。坂の途中から見る西空は、多少かすんでいるが、しっかりした積乱雲が伸びやかに舞い上がっている。が、夕立になるほどの勢いはない、何だかボケ爺と同じような意気地なしのように映る。  早く、毎日が日曜日となる生活をして、自然と戯れたいものだ。どんな老後が待っているのだろう。真剣に考えなければと、急に現実の生活に不安も感じる今日この頃である。 <読書> 「週末のフール」 伊坂幸太郎 集英社文庫 文庫本で、ベストセラー、と言うことで、つい手を出してしまった。7年後に惑星と地球がぶつかって、滅亡するだろう、と報道され、暴動が落ち着いた、4年後、つまり、3年を残すところまで来ている。そんな時の人々の死への考え方と、3年間の生き方の、小編をまとめたものである。生と死、難しいテーマである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月14日 (金)

甘えの構造

 日本人のアイデンティティーを、「甘え」の構造で構築したのが、「土居健郎」精神科医である。75日に亡くなられた。合掌。学生時代、これを読んで、なるほど、いろんな例があてはまる。とりわけ自分の性格をずばり言い当てられたようで気恥ずかしかった事を思い出した。海外にいると、日本人であるボケ爺のアイデンティティーは、なんだろうと気になるのだが、この甘えを持ち出しても、海外での人付き合い、コミュニケーションの障害を分析することはできるが、修正、活用する方法は見つかっていない。

 日本を代表する思想家であり、偉大な著書であることには疑いが無い。今日の日本の犯罪の分析からすると、この甘えの構造が歪んできているように思えてならない。甘えられる、甘えて慰められる構造が崩れてきているようだ。自己中心的甘えにどっぷりつかってしまって、自己責任が取れない、或いは取りたくない甘えとなっている。

 フロイトは、人間を潜在的に「セクシャルな欲望」をベースにした精神構造を持っていると。欲望を深層心理のセクシャルで捉えていた。これは、ボケ爺には、少しこじつけのように思ったりして、フロイト的精神分析は好きになれなかった。むしろ、幼児体験の「恐怖」「愛情」などを、幅広く深層心理に加える事によって、精神分析をするユング心理学の方が、ボケ爺には分かりやすい。また、武谷三男の三段階理論が、ここにも適用できる、と学問、学術とはこんな方法論か、と感嘆したものだ。

 日本では(世界でも議論されているが)「嫉妬」を人間の中心に持ち込んだ分析は、ボケ爺には、「甘え」と同様に理解し易い。妬み、嫉妬、恨みとエスカレートする。この「嫉妬」も甘えから生まれることは確かであるが、全てであるのかは、ボケ爺分かっていない。

<読書>

「不良のための読書術」 永江朗 ちくま文庫

良品でない、不良品のボケ爺としては、正しい不良になりたくて、期待して長年探していた。本を読むと不良になれると言う。「多数派は何時も間違える」を基本としたい。沢山の本を読んで、内容に従わない、聞き入れない、そんな読書法が、不良になれるらしい。期待している。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月12日 (水)

夢のある政治を

 衆議院選挙で、騒々しい。地方分権、中央主権、小さな政府、大きな政府、官僚指導から政府主導へ、年金だ、子育て支援だ、高齢者医療制度が、テロ対策で自衛隊と憲法課題、などなど、蜂の巣を突っついたような騒ぎであり、マニフェストに評価点数がついたりして、自民連合だ、政権交代で民主連合だ。財源が不明確だ、否、明確だ?などなど。

 いずれの政党も個別の議論では似たようなものだ。どうもこのような個別な議論でいいのだろうか?最も重要な議論は、継続しているはずであり、前回の国民が指示した「小泉政策」の総括、反省を明確にすべきではないか。その上で、今回の経済危機に対して、小泉政策の延長線上での政策か、否定して新たに構築しなければならないか?が議論されてやっと国民は分かりやすくなるのではないだろうか?

 さらに、モットしっかり議論する必要があるのは、福祉国家優先政策を目指すのか?経済優先政策を選択するのか?である。今のところ、曖昧ではあるが、両陣営とも福祉国家優先のように思える。(自民党は経済回復有線と入っているが具体策がない。)そうすると、まずは財源を明確にしなければならない。自民のように増税か、増税ができるのか?民主のように、歳出を抑える、抑えられるのか?と議論の的が絞れてくる。

 豊かさは、やはり、金儲けであると言うなら、経済優先の議論を中心とすべきである。どこに重点配布すれば、これだけ経済は成長する、など。両党とも今のように不明確な政策では議論もできない。その他の個別議論は、まず、国民が選択しなければならないマクロ経済の方向を提示してほしい。どの産業分野の生産量をいくら増やせば、何人の雇用が生まれるなどすぐに計算できる。そこに、夢がある政策が見えてくるはずだ。今の分かりにくい個別で短期政策では若者に「未来に夢を持て」と言っても誰も持つことができない。今日の食采の若者は、政治の欠陥から生まれている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 9日 (日)

ひねもすのたりのたりかな

 立秋が過ぎて残暑、朝から、セミの騒ぎで起こされる。10時頃からは、これぞ、真夏の光と思わせる白く明るい日差し、灼熱の光が注いでいる。中庭からは、クマゼミの声が、北に面する林からはミンミンゼミが競って短命を泣き叫ぶ。窓を開け放つと、快い風が降り注ぐ。マロニエの通りに行ってみたが、この我が家には及ばない。

 北に面した、書斎から、サッカースタジアムの先にある山々の新緑を眺めては、田舎の無音の夏を思い出す。自動車の騒音も、子供の声もなく、暫くは、騒音が真夏の太陽に吸収されてしまったかの様な、その静かさが心地よい眠りが誘う。思わず、「ひねもすのたりのたりかな」と呟いてしまう。たしか、与謝蕪村の「春の海、ひねもすのたりのたりかな」であって、春のかったるさ、を詠んでいるが、真夏にも当てはまると、ボケ爺は以前から思っていた。

 3時を過ぎてからは、風向きが変わってくる。中庭には、子供の声でにぎやかである。その分、セミは鳴りを潜めている。北の窓には、積乱雲(入道雲)立ち昇っている。ソウルの街の方角だ。しかし、雷をもたらすほどの勢いには認められない。このスウォンの街にも、一雨欲しいものだ。小林一茶の、「夕空を にらみつける蛙哉」の光景を中庭の池の蛙の姿に、いとおかし、と想い起こす。

<読書>

「刺客」 藤沢周平 新潮文庫

心地よい夏風の清涼に包み込まれ、ついつい引き込まれ、あっという間に読み終えてしまった。特に、佐知との心の絡みの表現が円熟した作品に仕上げていく。用心棒日月抄第三弾である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月 8日 (土)

ハートマンの思い出

 日本経済新聞の82日付の文化欄で、ドイツ文学者、池内 紀の「背中の相棒」で、アメリカのハートマン社のリュックサックの思い出が載っていた。ボケ爺も、アメリカブランドのハートマンのバッグには深い思い出がある。

 海外ビジネスで飛び歩くと、預けた荷物が目的地に、届いていないと言うことを経験したし、アクシデントがあり、荷物だけが先に出てしまって、結局は飛行機が飛ばなくて1泊を余儀なくされたりすることを経験していた。そんな折、スタンフォードショッピングモールで、ハートマンの機内持ち込みができるバッグ見つけた。ハートマンから機内持ち込みバッグが始まった?その当時としては結構高かったが、元のバッグもくたびれていたのと、フライト時間が迫っていて考える余地が無かったので、買ってしまった。レンタカーの中で、古いバッグから、ハートマンのバッグに荷物を詰め替えて、ハートマンバッグと一緒に飛行機に飛び乗って、日本に帰国した。

 今から、18年ほど前のことだろう。それ以来、機内に必ず持ち込み、このバッグを15年間ほど愛用してきた。なんと丈夫な製品であったことか。その間3回ほどバージョンアップされた製品が出たが、使えるので使っていた。3年ほど前に、ツミ製に変更してしまった。使い勝手は、やはりハートマンの方が上である。ハートマンを買いたかったのだが、ハートマンを売っている店が探せなかったのが、乗り換えの理由であるが、今も後悔をしている。

 ハートマン製のバッグを捨てる時には、ビジネスの戦友として、胸にこみ上げるものがあった。思わず撫で回してしまった。金浦空港のことであった。

<読書>

「孤剣」 藤沢周平 新潮文庫

用心棒日月抄の第二弾である。何も言う事はない。唸るよりない。うまい文章に、奇抜な展開に引きずられて、数時間で読めてします。余韻も深く続く。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

2009年8月 2日 (日)

タイチャン

 タイチャンとは、台湾・中国を統合した呼び名で、なるほどと思う。21世紀は、どうやら、台湾の技術力、中国の製造力と消費量で、大きな経済成長が期待できる、と言うことは間違いなさそうである。ここ韓国の経済界でも、いきなり、「タイチャン」に持っていかれることの恐怖に怯えている。そうはさせまいと、連日、唾を振り掛けるほどの議論が続いていると言う。さて日本は、そのような危機感を抱いているように思えない。

 オバマ大統領の率いる一群が日本、韓国を通り越して、中国に向かった。「米中戦略・経済対策」と言うことで、双方、言いたいことを言い合って、オバマ大統領は、高らかに宣言した、「米中で21位世紀をつくる」。これかの21世紀の世界を米中2国がリードしていく姿勢を強調した。国際秩序が大きく変わる印象を持ったのは、この鈍いボケ爺だけではないだろう。

 まだまだ、米日の二国協定の絆は強く、日本は大切な協調国と持ち上げられて、安心しきっている「ぬるま湯」国民は、今に打ちのめされるだろう。造船、建築、弱電、半導体、化学分野で日本のリードしている「モノづくり」は90年代から比べて、数少なく、韓国に持って行かれている現状を知っているのだろうか?次は航空機産業だと騒いでいる。環境問題も、オバマ大統領は、日本、韓国の頭越しに「米中はエネルギー経済の転換に協力して取り組もう」と、日本の技術など必要ない、と言わんばかりである。

 中国のドル保有額は、2009年には日本をしのぐ額になってしまった。アメリカも中国にドル操作されてしまうところまで来て苦しそうである。日本、韓国からは、安全保障で、たらふく援助させる作戦で、経済問題は中国と割り切り始めている。

なぜか、日本から次の産業革命なる技術で頼れる政策が、飛び出さないからだ。今や日本は再び「物まね技術国」に成り下がってしまった。そんな中、「産業革新機構」が発足した。「高齢化社会」「シルバー・ニューディール」と意気込みだけが先行する。相変わらずの「モノづくり」発想だ。総選挙を前にした与野党のマニフェストは、国民にへつらう様に、福祉バラマキ政策である。「希望の日本」を提唱できないのだろうか。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年8月 1日 (土)

「蒸す」効果

 朝早くから、徒歩での通勤である。土曜日であるにもかかわらず、人の出足は早い。公園には、美しい夏花で一杯だ。健康器具にはお年寄り達が、群がって競っている。いずこも健康には気になるようだ。バス停では、夫婦ずれの登山姿の一団が、群れている。

 健康と言えば、口から入る美味しく食べられるものがもっとも効果的であろう。先日、「ためしてガッテン」で、「蒸し料理」のテーマで、美味しい料理法なる放送があった。ボケ爺の美食の欲望は未だに枯れていない。美味しいと言われると、やはり気になる。

 蒸し料理と言うと、以前、タンジ鍋ブームを紹介した。タンジ鍋料理はモロッコが原産らしい。野菜の水分で蒸しながら、じっくりと煮込むシチューの事だ。「これが蒸し料理」と理解していた。昔から、日本にも、中国にも、蒸す行為の直接料理を行う料理法は他にもたくさんある。料理法が少し混乱してきた。

 今回の蒸し料理と言っているが、どうやら、「料理の前仕度」を蒸す事で、美味しく、栄養価を失うことなく「料理する」の紹介である。料理の前仕度に、「蒸す行為」を使うと、①保存が出来、②料理時間が格段に短縮でき、③食品の持つうま味を発揮できると言う。

 以前に、キャベツ、ほうれん草、など、50度の温水につけると、摘み立て野菜のように、パリパリのサラダが作れると言っていた。温水では野菜の細胞が、凝縮する効果だと言う。今回の「蒸す行為」は、60度から80度、平均として、70度で蒸して、保存をしておいて、後は普通に料理をすればいいのだ。油はほとんどいらない。この「蒸す仕込み」に魅せられて、料理機(低温蒸し器)まで作ってしまった人が居る。早稲田大の平山一政先生がその方である。ボケ爺も、退職後、こんな健康料理器具の開発がしてみたい。そう言えば、電子レンジで、高温水蒸気で料理できる器具でヒットになったと聴いたことがある。

<読書>

「父の詫び状」 向田邦子  文春文庫

イヤハヤすばらしいエッセイである。快適と言うか、愉快と言うか、こんなべらぼうなエッセイはもっと早くから読んでいればよかった。創造性の基本はやはり記憶力にあるのか?

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2009年7月 | トップページ | 2009年9月 »