慣用語の文化
ボケ爺、娘から、お父さんの、「頑張れよ!」は凄くプレッシャーになって、ストレスを招く、と、強い抗議を受けたことを思い出す。「頑張って」に変わる言葉を捜したが、見つからなかった。その後、何も言えなくなって困った。「努力をしなさい」は少し強すぎるし、「出来る範囲でやれよ」は無責任だし。
世界中、何処を探しても、「頑張る」と言う言葉に相当する言葉は見当たらないようだ。ここ韓国でも無い。日本人は何かにつけ、「頑張る」を使う。便利な言葉で、で、なんとなく全てが、丸く収まるのだから便利である。ここ韓国で、ついつい「頑張れよ」と言ってしまう。通訳はどう訳しているのだろうか? 聞いてみると、「出来る範囲で努力してください」と訳しているらしい。これでは本意ではないのだが。
一方、韓国で、「アイゴー」とか「ケンチャナ」は日本で訳されている「哀しい」「気にしない」だけではないようだ、状況に応じて、多彩な意味を持つということが分かってきた。便利でもあり、誤解が生じやすくもある。今は、翻訳者の翻訳にすがるより方法は無い。本当に、本当の気持ちは伝わっているのだろうか、何時も気になっている。
これは一例だが、世界中で、ビジネスの上でも、慣用語による文化の違いは山ほどあるだろう。ボケ爺、日本の中だけにとどまらず、英語の世界でも数々の失敗をしてきた。韓国でも多くの失言、失敗をしているのだろうが、諦められているのだろう。
<読書>
「闇の華たち」 乙川優三郎 文芸春秋
6編の短編集である。それぞれに、運命のむごさがにじみ出て、それに立ち向かい負け無魂を、克明に描き尽くしている、とボケ爺は感心している。心情の機微の表現は、実にうまい。舞台設定も多彩であり、実感し易い。情景描写もいい。だからこの作家の新作を待ち続ける。
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