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2009年5月 3日 (日)

我が家のつつじ

 我が家のつつじは、どうなっているだろう。今年も、一杯咲き誇っているのだろうか?心配だ。我が家のつつじは、田舎の親父が、挿し木で増やした、いわば、田舎のつつじの子供である。同様に、椿、サザンかも同じになる。つまりこのボケ爺と同じ運命にある。親父は、盆栽に必要な神経質な手入れは、自分の神経質を嫌うかのように、全く苦手であった。ボケ爺が、親父に「挿し木より、盆栽を趣味としたら」と言うと、即座に否定して、「盆栽は嫌いだ」と。挿し木のようにアバウトが好いようだった。

 「本質を見抜く力」養老孟司、竹村公太郎 PHP新書に、考え深い言葉が載っていた。「文字から入った情報、全てが情報だと言う社会になってしまった。」「この社会で、一番忘れられているのが、モノである。何故カタカナか、と言うと、対象を五感で捉えるからモノである」モノを五感で捕らえられる事で、実感となり、概念の世界から現実の世界になる、と言う。「モノ作り日本」を提唱する人々に、この定義をもう一度考え直して欲しい。

 田舎を飛び出して、東京に我が家を構える事に納得した親父は、田舎から出来るだけの「モノ」を持ち込んだ事になる。小さな庭作りに、わざわざ、その不器用なお土産を両手一杯に抱えて、不恰好な姿をしてやってきた。庭の土を掘り起こしている時に、親父は「ここの土は不思議な性質を持っている。関東ローム層の土ではない、何処からか造成のために運んできたのだろう。「直根の木は育たない」根がまっすぐ下に伸びる木はダメだと、豪語する。その理由は、水を含むと硬く凝縮すると言う。しかし、潅木には最高の土だとも説明してくれた。残りの木を買いに言った時もそんな眼で選んでいた。

 学歴のない親父が、こんな学識を披露できるのは、半農の生活をしてきて、毎日土にまみれていた実体験からだろう。つまり毎日を五感で判断していたものと、今になって思い出す。学識では親父を追い越したと思うが、五感力の判断力は、未だに追いつかない。このように、五感で判断できる事が、本質を見抜く力になるのか、と、今になってボケ爺は考える。今からでも遅くない、五感でモノを見ていこう。

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