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2009年5月31日 (日)

滑稽な論理

 海外から日本を見たときに、滑稽に映ることがある。今回の新インフルエンザの対応である。日本人とはよくよく、感情的な思考が先行する国民である。何かにつけて、感情をむき出しにして、論じあう。党首討論を聞いても、ロジックが先行する事はない。NHKニュース9を聞く機会があるが、二人のアナウンサーは「許せない」「情けない」「悲しい」「困った物だ」などなど、感情むき出しの解説である。そこには冷静な判断力がなくなっている。

 結果、水際で抑えられた人は何人いただろうか?空港での物々しい対応は、世界から不思議がられていた。重要な状況把握に、発信地のメキシコに、専門家を送る事もなく、他国の感染人数だけを大きく問題視しているのは、うなずけない。感染率の日々の変化が重要であるからだ。

 弱毒性であると判断をして、かつ、タミフルなどの既存の薬で治せる。伝染率も、0.04%以下だとの判断も、全て、アメリカからデータを貰って、自国での論理的判断は、出来ていない。さらに、日本の検挙率は、医学が、検査器が精巧だから、他国より多く検出されるなどと、バカな厚労省が宣伝している。

 その上、沈静化に向かってもロジックに会わない報道がなされている。「この秋の流行が恐ろしい」と、特別警戒を呼びかけて不安をあおっている。この件は、一般のこれまでのインフルエンザ程度だと判断されたわけだから、怖い、怖いとあおる必要はない。それよりも、根源を探る作業に重点を絞り、抗体を見つけたり、ワクチンを開発したりする事に、話を進めるべきである。

 新聞には、750億円ほど政府は出資したらしい。一般のインフルエンザほどにも汚染されなかった。結果は1000億円以上の経済ロスを招いてしまった。厚労省と麻生の人気取りも、大失敗となった滑稽な行動であった。

<読書>

「人の砂漠」沢木耕太郎 新潮文庫

ルポルタージュの天才の初期の作品である。取材とはこのようにするものだと教えられる作品である。ボケ爺には、とても出来る物ではない。文才の前に、緻密で、行動力が必要であるからだ。

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2009年5月30日 (土)

なぜ働くのか?

 人は何故働くのだろうか?決まっている、生活のためだ。最低の生活が出来なければ、生きていけない。しかし、ニートと言われる人は働かなくても食べている。多くは、親の世話になっている。派遣社員制度は、明らかに、労働力の需要供給のバランスに使われている。その基本は、経費である人件費の削減のためである。分かっていてあえて派遣社員になりたい人がいる。働く人が嫌な人が多くなってきているのだろうか?

 一方、生活習慣病といわれ、働いていなければ落ち着かない人もいる。多くはこの病気にかかっているのではないだろうか?そこには当然ストレスがある。ストレスがあるから、遊べ、出世を期待せず、のんびりと働け、趣味に逃げよ、などと、「のんびり人生」の勧めの本が氾濫する。

 ボケ爺も、ご他聞に漏れず、働いてきた、まじめに働いてきたわけではなかった。気の合う仲間と酒も良く飲んできた。趣味らしきモノに三日坊主が分かっていても興味を示した。仕事が世の中のためだとは一度も思ったことはない。生活のためだとも思ったことはない。サラリーマンとして億万長者を目指したこともない。凡人だ。

 笑われるのを承知で言うと、余程嫌な仕事は別だが、結構、趣味のように、人間は働く事に、自然な本能をもっているのではないだろうか?人間の摂理に繋がって、世の中の秩序が保たれているのかもしれない。とすれば、日本は儲けの範囲で、労働費を分け合う事、つまり、給料水準を下げる事が正しい道であろう。

<読書>

「無趣味のすすめ」村上龍 幻冬舎

趣味は本当に出来るのだろうか?趣味に打ち込むことが出来るのだろうか?趣味も、本業の仕事と同じエネルギーが必要だ。いまどき、趣味に打ち込み、本業を捨てる事などできない。仕事か、趣味か、と聞かれれば、本業を選ぶこととなる。趣味など辞めてしまえ、と。ある新聞に、趣味でストレスになり、うつ病にまでなってしまうこともあるそうだ。

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2009年5月25日 (月)

我が街の無事な環境

 昨日は、不思議にも、電話が来た。ボケ爺のお袋の健康状態が、少し悪い。風邪が肺炎の初期になって、食欲をなくしてしまったので、病院に入った、との主旨の内容であった。93歳か94歳であるから当然に、何か変化があるだろうとは覚悟していたが、現実となると、もう少し元気で長く生きていて欲しいと思うようになる。

 その時の話では、ボケ爺の実家近辺では、今年もウグイスがやってきたようだ。高尾、奥多摩の森林からやってくるのだが、ここの街が、ウグイスの都心への冒険の最前線であろう。自然の変化のバロメータとして、ボケ爺は関心を持っている。

 ところが、今年は、特に元気なウグイスがやってきたようだ。早朝、5時ごろから、一日中、我が家での、睡眠の邪魔になるほどの近接で鳴きさけんでいるようだ。通年では、直ぐ近くの実篤公園へ逃げ込んで、こぢんまりとした活動であったのだが。

 それと裏腹に、カラスの姿が見られなくなったとか。鳥の世界の生態変化が起きているのかもしれない。それにしても、カラスの鳴声で目覚めるよりは、ウグイスの鳴声で目覚める方がいいだろうと思うのだが、ウグイスがうるさくて、うんざりだと言う。贅沢だ。新聞か何かのニュースで、スズメの数が激減していると言う。当初はカラス説が言われていたが、どうやらそれだけではないらしい。未だその理由はハッキリしていないようだ。自然生態は、やはり理屈ではないようだ。

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2009年5月23日 (土)

温暖化説?寒冷化説?

 二酸化炭素が温暖化の諸悪の根源である、とされている。そんな中、最も攻撃を受けているのが、化石燃料である。それに追い討ちをかけるように、二酸化炭素(CO2)を蓄積する、森の減少に議論が集まっている。森伐採を阻止しよう、と。

 地球には、CO275億トン放出されていると言う。森は9億トンを蓄積できる。海は22億トン蓄積できると言われている。森の危険は伐採よりも、火災であると言われている。近年特に火災が多くなっている。海は、酸化が進んで、CO2を蓄積できるプランクトン(藻類)が住めなくなっているらしい。

 結果として、マイケルE.マンによれば、1000年から1900年までは温度は下がっていて、1900年から2000年で、急に温度上昇をしている、と言う。NASAゴダード宇宙科学研究所によれば、1973年から、2005年までは上がったり下がったりの短期的な周期を繰り返しながら、0.4℃ほどの上昇だと言う。2005年からは少し下がり始めて、寒冷化に向かうのではないか?と言われ始めている。

 2008年、キール大学の気象学者のノール・キーンリーサイト博士らの、ネイチャーに発表した内容では、「今後10年で、北大西洋、北米、西欧州で、寒冷化に向かうであろう。」それに対し、「今回の気温低下は長期的な温暖化の一時的な現象ではないだろうか?」との説が有望視されている。

 果たしてそうか?太陽観測を続けてきている人々から疑問が湧いている。太陽の黒点の活動が、ここ数年、ほとんど見受けられなくなっている。これは、太陽エネルギーが弱くなることであるから、寒冷化が気になる。もう少しの間、黒点の活動周期性を見て、考察しないと最終的な寒冷化の期間ははっきりしない、との忠告の話もある。

 最近の話では、北極の氷は、ある場所において、溶解が止まって来たとかで、不思議がられているそうだ。温暖化?寒冷化?果たして、どちらが正しいのか?それとも、地球規模で見ると、温度分布の単純な移動だけなのかも知れないか?自然界を理詰めで理解するには難しすぎる。

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2009年5月22日 (金)

ミツバチがいなくなる?

 果実などの受粉作業では、ミツバチに依存していたが、今年の春は、昨年と比べて半減して、危機に瀕した、との報道があった。この現象は、日本だけの問題ではなさそうだ。世界で起きている現象のようである。その理由は、「ハチはなぜ大量死したか」ローワン・ジェイコブセン著、文芸春秋本を読まなければ解らないが。地球温暖化ではないと、断固主張している。

 我が田舎で、親父が副業にミツバチを飼っていた。毎年、春先から、初夏まで収穫があった。特に、春先の「レンゲの花」の蜜は、透明性が高く、素直な甘い味であった。戦後の昔は、田舎では、兼業農家であり、副業は当たり前であった。我が家もそれに違わず親父は副業を手広くしていた。今日の経済危機で、副業が認められてきたが、昔のような自然を相手にした副業も盛んになるかもしれない。田植え、稲刈り収穫時には、小学校、中学校も会社も休みが設定されていて、家の手伝いを義務付けられていた。懐かしい、のどかな時代を思い出す。ボケ爺が東京に出てきてからも、親父が亡くなるまで、蜂蜜を送り続けてくれた。ボケ爺の健康の源はこの蜂蜜をたっぷり食べてきたからだろう、と親父には感謝している。

「生物多様性」を取り上げた国際会議があるらしい。COP10(2010)が名古屋で開かれる。自然の営みは、言葉ではない、肌で感じるものだという。凡人には理解できないし、部分的な現象だけでは語りつくせない、大きな営みであるらしい。時を止めて観察できることは無い。また、繰り返して検証できることも難しい。このことを、「動的平衡」と呼ぼうと言う人がいる。今まで、デカルト主義の機械還元主義に犯されてきてしまったボケ爺の弱点である。現在社会の悩みでもある。

<読書>

「動的平衡」 藤岡伸一 木楽舎

生命は何故そこに宿るのか?生命現象とは、絶え間なき流れの中にあって、動的なものである。生物現象は、自然現象そのものである。動的平衡の中にある。人間が考える、強制的な、「ダイエット」「美肌のコラーゲン」「頭の良くなる食品」「長生きのためのサプリメント」などは、全く効果がない。生命はきっちりと動的平衡を守っている。それにしても、著者は、本当に文章がうまい。小説家のようだ。

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2009年5月17日 (日)

沈黙

 「沈黙は金」と言われる。ボケ爺はこれとは正反対の人物である。かなりの軽率モノである。それは、集中力がない、落ち着きがない子供として生を受けたからである。ついつい、おしゃべりとなってしまい、今までどれだけの失敗を繰り返したことか。残念ながら、人生のおしまいに差し掛かっても、残念ながら、それは治らない。

 遠藤周作の作品に「沈黙」と言う作がある。感激を受けた作品であり、秘密を守る事の重大さと人間の罪について考えさせられた著書の一つである。しゃべると言う行為は、理解を求めよう、自分を認めてもらおうと期待する欲望の賜物である。だから理解されるなど期待しないこと覚悟せよ、と、先日の「人間の覚悟」の、五木寛之の説にも感心したところである。

 ボケ爺も、この年になってから、深刻な悩みを持っている。自分の理解を求めようとして、それは押し付けがましい」と嫌われるような最悪の事態を招いてしまった。無口になりたい。そして沈黙でありたいと。

「自分の欲望は、おしゃべりが過ぎて、うるさいのです。」

「自分のイヤイヤは主張しすぎて、うるさいのです。」

「自分の迷いは落ち着き無きゆえうるさいのです。」

と言うのは、「「自分」から自由になる沈黙入門」小池龍之介 幻冬舎である。

「もう、語らず、求めず、怒らない。」「語らない、「どうでもいい」と念ずる。」これを実行するには、沈黙しかない、と言う。怒らない、評論しない、賛同もしない、答えを出さない。全ては「曖昧な、「あいづち」、だけでよい。」と言う。自分を捨てなければ出来ない。ボケ爺、自己主張の欲望を捨てよう、と肝に命じたが。

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2009年5月16日 (土)

やっぱりあった脳サイズ

 しとしと降る雨は昨夜から続く。早くも梅雨時の雨の様相だ。新緑は一斉に活気を取り戻している。花々は、少々、しょげ気味だ。先日話をした名のわからない、清楚な、可憐な白い花は、椿のように、生花のまま全体が舞い落ちる。その様は「白眉(白美)むなしく、いと、哀れ」と言うことか。(訂正がある、5枚の花びらと言ったが、4枚の誤りであった、訂正をします)何ゆえか?土曜出勤も連続している。

 東京大学、酒井邦嘉准教授らの研究チームは、英語の文法能力が高い人は、脳の一部の体積が右脳より、左脳の方が大きくなっている人が多い、と発表した。やっぱり在ったのか、脳のサイズと能力の違いの相関が、と、ボケ爺は悲しむ。

 英語を習得中の中高生、留学生などに、英文法の試験を受けさせて、MRI脳の大きさを測定したらしい。英文法能力の高い人は、前頭葉の下部の「下前頭回」の体積が、右脳より左脳の方が大きいことがわかった、と言う。もっともテスト結果が良かった人は4割もの違いが在ったらしい。また、「下前頭回」は、「文法中枢」とも言われている。

 こんなショッキングな関係が判明しても、バカは直せない。やはり遺伝子の操作なのか?ボケ爺も「ベヒクル(遺伝子の乗り物)」であって、利他的遺伝子に貸してあげているのだから、ボケ爺のせいではない。我が利他的遺伝子が苦悩すればいいのだ、と言い聞かせるのだが。

<読書>

「嫉妬する人、される人」谷沢永一 幻冬舎文庫

人間の本質は妬み、嫉みに、恨みにある。嫉妬心が全てである。その先が憎しみである。それに、「甘え」を加えれば、人間の全ての行動が説明できてしまうのではないだろうか。嫉妬の元は劣等感なのかもしれない。ほどほどにバカで、とろくて、鈍くて、醜くて、お人好しで、間が抜けている、のがよさそうだ。早くから、欲を枯らさなければならない。それにしても人間とは厄介な動物である。

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2009年5月10日 (日)

初夏

 最近の気候は、春が短くなってしまって、花々は、駆け足で、急いで咲き乱れ、春をやり過ごす。それにしても、もっとも遅いプラタナスの新芽が、そのあわただしさを横目に見ながら、静かに、芽吹き始めた。これで、落葉樹の葉っぱが、ほぼ出揃った感じである。新緑が美しく5月の風邪になびいている。

 未だに、誰に聞いても分からない、美しい花が満開である。2m~3mほどのほっそりとした樹木であり、小さめの楕円のしっかりした葉っぱの持ち主である。それに似つかぬ小さく、ほっそりとしたラッパのくちばしのようで、5枚に花びらに結果は分かれる。一箇所から5つの花が、枝一杯に咲く。葉っぱを覆い隠すほどの量である。それも、真っ白で汚れを知らない美しさである。遠くから眺めると、太陽の光をさえぎるからか、やや黄色身が掛かっているであろうか?繊細さがなんともボケ爺に似て、愛らしい。

 日曜日は、そんな花を探しながらの散歩を楽しみにしている。アパートの北側の窓から見える小高い山は、いつの間にか禿山になっている。宅地造成のためにあっという間に、緑が土のむき出しの光景になるのには、驚きである。経済の発展のためか、国民のためなのか、その理由は知る由もない。サッカースタジアムは今日も、応援の声援で、にぎやかだ。

<読書>

「あかね空」山本一力 文春文庫

久しぶりに、純粋な、穢れのない小説にめぐり合えた。正直者が好かれ、まじめな働きが、報われる。こんな、澄み切った社会であって欲しい。今日の雇用問題は、あまりにも、ねじれており、偏った議論が多いようである。「物の豊」を求める今日の人の心が課題である。同じ物でもモノであて欲しい。

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2009年5月 9日 (土)

ボケ爺にもあった青春

 初夏の爽やかな風が、花がほころび始めたマロニエの通りを、涼しげに駆け抜けてゆく。そのマロニエの大きな葉っぱの影を、ボケ爺は、苦しくも、思慮深く、うつむき加減で通り過ぎる。今読み終えた本を思い出しながら。確か、石原慎太郎が推薦していた本であった。

 「草の花」福永武彦 新潮文庫を読み終えた。「青春」とは、どんな事であったのか?今、解をもらった。この年になって、はなはだ、お恥ずかしい限りである。夏目漱石の「こころ」では、ボケ爺の青春は消化不良であった。ボケ爺の青春は、中学校23年、と、大学時代に分けられる。この著書の構成と似たところもある。もっと早くこの本に出会っておくべきであった。

 中学校時代は、友情である。S君は、勉強は良くでき、運動も万能であった。考えもしっかりしていたと思っていた。大人っぽく(ませた)意見をいう奴であった。彼は、よく映画を見に行っていた。ボケ爺は、映画を見ることは不良になることだと思っていたので、その映画の話を聞く事が大人になった気になり、楽しみであった。アップアップしながら彼に付いて行っていた。

 残念ながら、高校時代は、ボケ爺は死んでいた。この時代から、孤独な生活を好むようになってしまった。大学時代は、二組のグループに属していた。同じアパートに入居した一浪のなんとも軟弱な、軟派な奴である。硬派のボケ爺には、気になる奴であった。例えば、急性盲腸で1ヶ月ほど入院していたが、退院すると、毎週日曜日には、看護婦が訪問してくる。そのふしだらな生活には付いていけなかったが、反発を感じながら、大人のまじめなずるさを教えてもらった。

 2浪をしたK君である。思想家であった。言う事なすことが、理詰めであり、くそ面白くもない議論を仕掛けてきた。退屈でもありながら、ボケ爺にない面と、ロジカルな話には、どこかで憧れていた。

 こんな青春の話を思い出すと切がない。しかしもっともっと、苦しんでおくべきだった青春はもう取り返しが付かない。ボケ爺の、「ヘンコツで、変わり者」と「軽率さ(おっちょこちょい)」は裏腹な相互作用であって、この青春時代に成長し、磨きがかけられたのだ。

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2009年5月 7日 (木)

連休の渋滞

高速道路料金が一律1000円の経済対策。果たして、経済回復の対策になったのだろうか?これだけ渋滞では。道路料金はGDPに組み込まれているのだろうか。1000円×自動車数と、旧料金×自動車料金では、旧料金の方が、道路料金の収入が良いのは当たり前だが。連休以前の土日では、約、1.3倍の車の量、連休は2倍(渋滞が2倍だったので)としても、何所に経済効果を期待したのだろうか。逆に、仕事の車両は効率が下がってしまった。だからGNPはマイナスに働いている。

 ガソリン代、車の増加に比例して売上が増える。サービスエリアの売上は、比例して増えるだろうが、混雑で、多分、平均して3割り増しで、最高だろう。行き着く先の行楽地で落とすお金に期待したのだろうか。

 渋滞で、事故の増加を期待して、修理費は倍増しただろう。この分はGDPに盛り込まれるのであろうか?渋滞によって、CO2の増加で、CO2取引額の増加は誰の責任なのか?責任を取る人がいなければ、GDPを下げる結果に働いたはずだ。

 経済対策の効果について、経過報告をしてもらいたい。効果が出ているのか、反省が必要である。全体として、どこまでGDPを下げてしまったか算定してもらいたい。政府は反省などしない。局部的な、得意な効果の事例で、誤魔化す事となる。ジャーナリストもその尻馬に乗っかる事は明らかだ。

ばら撒き定額給付金を配布しながら、経済成長はさらにマイナスになると発表する無神経さ。その効果はほぼ無かった事を証明したことにならないだろうか。これは国民を騙した、選挙向けの国民への「賄賂」に当たる、と思うのだが。

五木寛之が「人間の覚悟」の中にいみじくも言っている「政府に期待することを諦めた」と。「政府に期待しない」ことを覚悟しよう、と言っているようだ。

 それにしても、日本人は経済危機を迎えて、時間の効率に無関心になり、我慢強くなって、「遊び」にその「はけ口」を求めているのだろう?江戸時代のいろんな恐慌が集中し経済危機を起こした田沼意次時代の「賄賂」「お伊勢まいり」の流行を思い出す。

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2009年5月 6日 (水)

悪奴ほど生き延びる

 豚インフルエンザが流行している。豚は人がいいから、鳥、人間からのウイルスを簡単に引き入れるのだそうだ。それらが、変化を繰り返し、再び、人への感染に成功したのだそうだ。今回の豚インフルエンザの発祥地のメキシコで、感染元が何所で、どのように感染していったのかが分からない、と言うことだ。鳥インフルエンザのように、何処かの豚が感染している、と言うことが分かれば、対処が早く進むのかもしれない。

 豚インフルエンザは昔から確認されていたようだ。人には感染していなかったようだが。それにもまして、人から人への感染が起こる事には、始末に置けない。人類は昔から、ウイルスとの戦いである。スペイン風邪、鳥インフルエンザ、豚インフルエンザ、香港風邪、ソ連風邪、など、ウイルスは、退治されながら、ひそかに、遺伝子を変えながら、生き延びてきている。ウイルスにしてみれば、今回はやっと人から人への感染に成功したことになる。毒性が弱いことは幸いである。

 韓国にいるボケ爺は、キムチを毎日食べているから、韓国でインフルエンザには強いと思っていたが、感染者が出た事で、実証は出来なかった。そう言えば、一般のインフルエンザは、冬に良く見かける。豚は今頃だ。サース(SARS)の時は、納豆、キムチが強かった、と言われていたが。

 金融経済危機の最中に、追い討ちをかけるような豚インフルエンザにより経済への影響は、さらに深刻なものになるだろう。ウイルスを封印するための行動が、経済に及ぼす打撃は大きい。免疫ウイルスを開発するには、6ヶ月がかかると言う。追い討ち、とはよく言ったものだ。麻生内閣は運がいいことになるのか?まるで、ウイルスの変化で生き延びる姿のようだ。

 人と、ウイルスの戦いは何所まで続くのだろう。どちらが勝つのか見ものである。

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2009年5月 4日 (月)

戦争、民族、そして平和

 韓国の企業に就職をして、企業経営に何らかの影響を及ぼさなければならない立場にあって、毎日、神経が休まらない。それは、物事の解釈、理解する、という文化にいささかの壁を感じるからである。これは民族の持つ長い歴史であるし、共同体が持つ慣習の違いによる深層の違いによるものかもしれない。企業文化の意思決定方法だけの違いかもしれない。資本主義社会、自由主義社会になって益々、そのひずみは大きくなっていくように思える。世界を見れば、いたるところで、民族間闘争が起きている事で明らかだ。資本主義による格差拡大闘争、自由主義による辛らつな言語闘争、と言うことであろうか。

 NHK「遥かなる絆(全四回)で、中国における残留日本人の物語が放映されている。中国人の心、日本人の心の違いを通して、民族間の絆、人の絆を描いていく。絆は極限の苦労の中からしか生まれないのかも。「心()の絆」は必ず存在すると、いう。

 「三たびの海峡」 ははぎ木蓬生 新潮文庫を読む。重い、重い本を読んでしまった。太平洋戦争時代の、日本が朝鮮に対して行った、一種の奴隷政策の課題を描き切っている。ここにも、戦争と言う残虐な行為の中で、朝鮮人を踏みにじった事から、朝鮮人の日本人への民族間の戦いと、人間の本質の絆(情念)の戦いの両方を絡ませた物語になっている。上記放映と重なるところがある。そこには、民族の違いを超えた人間の本質としての「絆」がある。そこまで知るには並大抵の苦労ではすまないのだろう。

 53日の憲法記念日にちなんで、平和のあり方を、憲法に求める議論が、盛んになされているようだ。平和と言う言葉だけが上滑りのないようにしていきたい。憲法改正議論には、真実の歴史を今一度知ることも必要だ。国対国の「力のバランス」で議論する事が果たして正しいのだろうか?力の裏には多くの犠牲、悲しい出来事が隠されている。

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2009年5月 3日 (日)

我が家のつつじ

 我が家のつつじは、どうなっているだろう。今年も、一杯咲き誇っているのだろうか?心配だ。我が家のつつじは、田舎の親父が、挿し木で増やした、いわば、田舎のつつじの子供である。同様に、椿、サザンかも同じになる。つまりこのボケ爺と同じ運命にある。親父は、盆栽に必要な神経質な手入れは、自分の神経質を嫌うかのように、全く苦手であった。ボケ爺が、親父に「挿し木より、盆栽を趣味としたら」と言うと、即座に否定して、「盆栽は嫌いだ」と。挿し木のようにアバウトが好いようだった。

 「本質を見抜く力」養老孟司、竹村公太郎 PHP新書に、考え深い言葉が載っていた。「文字から入った情報、全てが情報だと言う社会になってしまった。」「この社会で、一番忘れられているのが、モノである。何故カタカナか、と言うと、対象を五感で捉えるからモノである」モノを五感で捕らえられる事で、実感となり、概念の世界から現実の世界になる、と言う。「モノ作り日本」を提唱する人々に、この定義をもう一度考え直して欲しい。

 田舎を飛び出して、東京に我が家を構える事に納得した親父は、田舎から出来るだけの「モノ」を持ち込んだ事になる。小さな庭作りに、わざわざ、その不器用なお土産を両手一杯に抱えて、不恰好な姿をしてやってきた。庭の土を掘り起こしている時に、親父は「ここの土は不思議な性質を持っている。関東ローム層の土ではない、何処からか造成のために運んできたのだろう。「直根の木は育たない」根がまっすぐ下に伸びる木はダメだと、豪語する。その理由は、水を含むと硬く凝縮すると言う。しかし、潅木には最高の土だとも説明してくれた。残りの木を買いに言った時もそんな眼で選んでいた。

 学歴のない親父が、こんな学識を披露できるのは、半農の生活をしてきて、毎日土にまみれていた実体験からだろう。つまり毎日を五感で判断していたものと、今になって思い出す。学識では親父を追い越したと思うが、五感力の判断力は、未だに追いつかない。このように、五感で判断できる事が、本質を見抜く力になるのか、と、今になってボケ爺は考える。今からでも遅くない、五感でモノを見ていこう。

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2009年5月 2日 (土)

覚悟の時

 昨日の休出の帰りは、徒歩である。いたるところを色鮮やかに彩るティルチュ(つつじ)も近づいて、よく見ると、もう盛りは過ぎて、散り去る様相である。ライラックもほぼ、散り落ちてしまった。そんな光景を眺めながら、「覚悟の時」が来ていると、考えなければならない重い課題を思いながら、家路を急ぐ。日が伸びて、7時前だと言うのに、美しい夕日は、街を赤く染めながら、沈んでいく。

 「人間の覚悟」五木寛之 新潮新書を読む。実に重い課題である。すでに人生の坂を下っているボケ爺ではあるが、いまだ気持ちは「登り」のように思ってしまう。その矛盾に、時々、深い戸惑を感じる。

 覚悟とは、五木寛之は、冒頭から、「諦める」事であると言う。明らかに究める、事だと諭す。期待や、絶望に目をくらまさない事だと。「地獄は一定の住みぞかし」の親鸞の教えに耳を傾けよ、だから、何事にも信じただ付いてゆくのみぞ、と言う。

 資本主義の行く末を、断末魔を見据えよ。人生は憂鬱であり、誰もが「悲苦」を抱え込んでいる。日本人は、「神」に全てをささげる事はできない。だから、「自他一如」で複雑な世の中を生き抜くしかないのだろう。

 鴨長明の「方丈記」の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」「久しくとどまりたるためしなし」を実感した人生でもあった。これでよかったのだが、さて、この先の「覚悟」はどうすべきか?スーパーで、この連休で必要な食料の買いだめをしながらも考える。

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