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2008年8月31日 (日)

夏ばてか?

 今日は8月最後で、日曜日である。先週は一向に仕事がはかどっていない。何をしたか、分からないまま時間は早く過ぎ去ったような気分である。結構、人との面会も多かったが。会食の日も多かった。

 残暑は続いているものの、気温は下がってきていて、過ごしやすくにはなっている。しかし体は、疲れが出ているようだ、とりわけ、バカな頭は、働かない。本も2冊しか読めていない。こんな時もあろうか、と諦めよう。

 「果報は寝て待て」ではないが焦らない事にしよう。ただし、以前に仕込みができていないのだから、これとて期待薄である。「点滴石をうがつ」の地道な努力もしていない。だから「待てば海路の日和あり」にはならないことは百も知っている。

 そんなことから、歳を取ってしまっているボケ爺は、歳に少々焦りも出てくる。「時」とは恐ろしい物である。時の過ぎるははやい。今になって、もう少し若ければ、と嘆く事仕切りの毎日である。

そんなボケ爺も「ステロイド」が欲しい?ステロイドは、筋肉増強剤である。「米国経済はステロイドを使っていた。」と言われるようになっている。つまり、ステロイドは特殊用語ではなく、「かさ上げの道具」と言う意味で使われる事が一般的になっていると言う。薬物はいけないが、欲しくなる気持ちはわかるような気がする。ぼけ爺の「かさ上げ人生」も終わりに近づいたのかもしれない。又のステロイドは、死を意味するのかも。

<読書>

「ことわざの論理」外山滋比古 ちくま学芸文庫

ことわざの解説であるが、エッセイを含んでいて、そのエッセイがなかなか面白い。表題の「論理」はどこに潜んでいるかは分からないが。著者らしいエッセイ集であった。

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2008年8月25日 (月)

オリンピック、その二

 昨日は、一般論として、今回のオリンピックの反省を試みた。実に、現在の日本の抱えている社会全般、経済、企業経営に共通している。

1:ぬるま湯主義

 何事も、見る目、考えが「甘い」。競争する構えがない。勝負は「非情である」。「情」を持ち込むところに、勝機は見えない。「情」は日本の得意技?

 社会は、弱者を保護する。保護をもっと求めてごねる。それにすがり甘える。企業の成果主義がいけない、と、非難する。日本は未だに、世界に通用するような成果主義は出来ていない。その前で挫折した。皆、楽をしたいからだ。

2:鎖国主義

 日本はどこまで鎖国を繰り返すのか?日本の伝統、日本の良さ、と言って、世界の変化を無視する。変化を非難して満足している。

 野球、柔道に典型的に現れておる。「今の柔道は柔道ではない」と声をそろえて日本人は訴える。しかし世界は、日本に金メダルを独占されては、世界競技にならないから、ルールを変える。野球や柔道だけではない、他の競技も絶えずルールは変化している。それが世界である。

 経済面、企業間の競争も、世界ルールは絶えず変化をしている。

3:反グローバル競争主義

 指導者人材のグローバル化、指導の仕方のグローバル化についていけない。世界から学ぶ事を拒否する国民である。広く人材を、練習場所(日本人集団ではない)を求めた種目は強くなっている。

 全てに勝てないのだから、日本人に合う、得意とする分野に選択と集中が必要である。ばら撒きでは、勝てない。経済対策も同じである。

4:拝金主義

 今日のスポーツは金が要る。そのために、スポンサーがいる。成績がよければ、金額も上がる。上がるから、選手は引退しない。無理をしてでも長くとどまる。引退した頃には元気がなくて後輩を指導できない。協会の理事も、年寄りばかりだ。お金になるからしがみ付く。大企業病である。

5:反革新主義(物まね主義)

 イノベーションがない。スポーツも勝つために、「技に革新」が必要である。日本は、改善には取り組む。「職人芸」は得意だ。しかし、勝つための革新なアイデアが出ない。シンクロにしても、世界は「優雅さ」ではなく、スピーディーな芸術技を求めている。

 物まねは得意だ。物まねでは、肉体の酷使しかない。今日の企業と同じである。基礎技術に何も見出せていない。つまり基礎体力に欠けている。

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2008年8月24日 (日)

オリンピック

 随分、Blogをご無沙汰してしまいました。少々、野暮用があってのことです。改めて、残暑お見舞い申し上げます。

 オリンピクンも、終わってしまいました。今回も、いろんな感動がありました。しかし、失望も多くあったように思います。オリンピックは、世界選手権と言う、舞台とは全く違うと言う。多分、国家を背負うからだろう。そのために、強いプレッシャーが、襲い掛かることだろう。マスコミ(企業)がスポンサーになっていることもあるだろう。

 スポーツが、商業化している。本来のアマチュア主体から、資金をサポートされるプロとなってきているからだと、言える。そうしないと十分な練習が出来ない、とも言う。健闘した全ての選手の言葉に、「皆に支えられて、先ずはお礼を」である。この意味が、スポンサーへの謝礼である。前回のオリンピックと、全く違うところとなって来ている。

 ドタキャンもマラソンにあった。ドタキャンしたくても、出来ない選手もいただろう。結果は惨めに終わったと思うが。

 もう一つが、団体競技などで、特に目立つ事があった。野球を例にとって見ると、星野ジャパンは惨めである。何をしてでも、金を持ち帰らなければならない状況にあったはずである。しかし、星野監督は、短期勝負を心得ていない、典型的な日本的な「浪花節」「情」を持ち込んでいた。選手選びから、選手起用について、過去の遺跡のような采配である。勝負の世界は「非情」である。「甘さ」が何処か一箇所でもあると、そこから、ほころび、水は漏れてしまう。

 この「情」を求めているのが、日本の社会全般に蔓延している。企業内人事にしても、若者対策に対しても、老人保護にしても、教育にしても、「甘い」事が言いと言う事になっている。これで本当に、グローバル社会を生き抜けるのだろうか?

 もう一つ、がむしゃらに「鍛える」では、疲労破壊してしまって、勝てない。ルールが変更になったとか、弁解するのも、日本の特徴である。つまり「変化」に付いていけていない。スポーツの世界も「常に変化している。」変化に付いて行っている処が、勝っている。さらにそこに、「技のイノベーション」が必要である。

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2008年8月14日 (木)

創造法の二つの考え方

 常日頃、新しい商品を考えているが、創造性は簡単にはボケたボケ爺に与えてくれない。だからと言って、簡単に出来る発想法なるセオリーは無い。今までには、思考法七つの道具、なる方法論が有名である。その他、多くの人が創造性の思考法の提案をしている。

 その方法で、創造できたことがない。ボケ爺は凡人だから、非凡なアイデアなど簡単ではない。毎日悩んで生きている。しかし、これらの発想法、思考法でないカテゴリーで、発想ができたことがある。

まとめてみると、先ず、第一は、「機能分離法」と言う方法である。複雑な機能を、難しい機能を、一回、あるいは一度で実現するのではなく、単純な機能に分離して、機能を分担し合い、一つのまとめることで、問題の解決が図れた事が多々ある。デカルトの機能主義から、脱皮できていない事になるのかもしれない。ただし、3種類以上に分解して成功することはない。二つに分けて成功するケースは多い。所謂、ハイブリッド、と言ってもいいかもしれない。

 近年は、複雑系の社会である。このときは、「分子生物学的手法」がいいのかも知れないと思う。つまり、作り上げる発想から、出来た「物を破壊する」発想である。余分な物と思えるものと除いてみる。他者の優れた商品は、きっと、積み上げた成果であろう。が、冗長な点も沢山あるし、オーバー品質もある。これらを壊してみると、以外に良く働く事がある。これはたんぱく質の世界をまねる事である。

 しかし、ことはそんなに簡単ではない。壊したところは違う方法で再新しなければならない。ここに創造の発想が心地よく生まれてくる。特に、低価格設計手法の一つであるが、破壊しただけではダメで、再生させなくてはならない。如何に再生させるかに大きな創造性が生まれる。実に、たんぱく質の行動とよく似ている。

 とボケ爺は、居眠りをしながら考えている。

<読書>

「白い仮説、黒い仮説」 竹内薫 日本実業出版社

仮説、基本的な発想法である。全ては仮説から始まる。だから、間違えのない、「白い」仮説が大切である。うっかりと「黒い」仮説を作ってしまうと、似非科学が生まれてしまう。全ては仮設の仕方で決まる。

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2008年8月12日 (火)

企業力

 「企業力」とはなんだろうか、と時々考えることがある。特に、オリンピックの時期には良く考える。

 鍛えられた選手だけが、勝利を得る。それだけではなさそうだ。精神力も関係しているようだし、幸運な組み合わせもあるようである。鍛え上げる事が先ず先である。人間には、鍛え上げる時に、何故我慢するのか。それには目的と目標がいる。誰が作るのだろうか。自らか、コーチからか、状況からか、一人だけではなさそうだ

 企業力もそれに似ているような気がする。「力とは戦わなくては判らない」。その目的と目標が、企業人に理解されなければならない。トップが導かなければならない。だから、トップで決まるような気がする。トップに二つのタイプがいる。

 「リーダーシップ型」と、「まとめ役型」と、がある。リーダーシップ型はトップダウンで、自らの創造性を明確にして、指示を確実に提示していく。まとめ役型は、現場主義を提唱して、現場3原則を貫いていく。いずれがいいのかは、産業のおかれている状況によって違う場合があるだろう。その意味は、成長期なのか、成熟期なのかによって分かれるかもしれない。停滞感のアル今は、トップダウン型でなければ、と思う。

 と言っても、トップは、軸のぶれない経営思想を持っていなければならない。目的を、目標を明確に示せる事である。そこには創造性が含まれてなければならない。それによって、社員のやる気が生まれる。そして社員を鍛えなくてはならない。

 社員を鍛えると言っても、人間の非合理性、不可解性を知らなければならない。これが難しい。先ずは、「認める」ことであろう。次に「任せる」ことになる。そして「褒める」ことである。この繰り返しによって、企業人は鍛えられるのだろう。鍛えられた企業人が多ければ、「企業力」は高くなる。

 ボケ爺になってしまってから、反省と自戒の日々である。

<読書>

「知的武装講座・PartⅢ」 伊丹敏之、ほか、プレジゼント社

ビジネススクール流となっている。プレジデントに連載された内容を集めたようである。PartⅠと比べれば、徐々に粉核なってきている。もう少し、大局的なテーマに戻して欲しい。それにしても考えなければならないことが沢山あることは分かる。

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2008年8月10日 (日)

真夏の休日(その2)

 今日は、ここスウォン市は、雲ひとつない朝を迎えた。夏になって始めてである。そこには、真っ白い光が痛いように降り注いでいる。遅れて来た真夏日である。セミの声が一段と大きく聞こえる。いつも賑わう、車も、少なく音なしである。ワールドサッカースタジアムも人の気配が、見当たらない。

 室内は28℃を示しているが、涼しい風が室内を駆け抜けていく。動くと汗になる。こんな日は、寝転んでいるに限る。NHKワールドではオリンピック放送が出来ないそうだ。「何故、アメリカで日本食ブームか」、のフォーラムを眺めていたら、11時半ごろだったか、アパート団地が歓喜に包まれている。こんな歓喜は、サッカースタジアムからも聞いたことがない。思わず、チャンネルを韓国に替えた。そこでは、競泳の400m自由形のパクテフアン選手が350mを折り返したところである。断然トップである。アナウンサーは声がかれてしまっている。解説者もチュアヨの連呼である。興奮の渦である。アメリカの有名なジェンセンを完全に抑えている。金である。その途端、アパートの全戸から歓声が上がり、拍手も鳴り止まない。この大合唱で、アパートが揺れ動いている。庭の松の木まで揺れているようだ。窓から見えるビアバーで飲んでいた人達が抱き合って、踊って喜んでいた。前評判で、もっとも期待されていた選手であった。期待通りの成果で、結果が残せた事になる。さらには、女子アーチェリー団体で、世界記録でイタリアに勝っていた。アーチェリーでは、韓国は世界一位クラスの強さを続けている。アーチェリーのブランドも、ほぼ韓国製である。

 出鼻のエアガンの競技では、優勝候補の韓国の選手が、中国に負けて、銀に終わり、がっかりしていたところ、柔道、競泳で金である。兎に角、韓国選手は強い。一人競技の精神力が必要な協議が特に強い。勝てる競技しか出さない厳しさがある。どこからこの強さが宿るのか、ボケ爺、大いに学びたい。

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2008年8月 9日 (土)

真夏の休日

オリンピクスが開幕した。080808とは、語呂がいい事と、中国においては、8はラッキーナンバーだそうだ。昨日の開会式は眠くて、いつの間にか眠ってしまっていた。

 今日は、暫く休んでいた、ウォーキングに出かけることにした。いきなりランニングでは、又、痛風が再発しては困る。リハビリもかねて散歩にした。午後は日差しが強くなってはと、昼前である。空は、至る所に小さな入道雲が群がっている。夕方には、一雨来そうである。期待したい。百日紅の花が、芙蓉の花が、真夏の光に良く似合う。松林の芝生の上での一休みに、心が癒される。一句出た。腕立て伏せ50回が軽々と。

 5時ごろから、やはり夕立がやってきた。涼しくなって期待したとおりである。オリンピックの番組は、韓国放送で観ている。谷選手の負けた試合も放送していた。こうして、ブログを書いているところで、隣のビル(実は、刑務所である)から、大きな喚起の声が聞こえてきた。急いで、TVを観てみると、60Kg級の柔道で、韓国のチェミノホが優勝した。どうやらその瞬間の歓声だったようである。400m自由形の予選でも朴選手がいい記録で通過した。女子ハンドボウルは、ロシアと引き分けた。

 夏バテとまではいかないとしても、何もする気がしない。疲れているらしい。オリンピックのTVは丁度、そんな怠けたい時に、時間過ごしに、よいタイミングである。つらい練習に耐えてきての出場の栄冠である。日本は少々ハシャギ過ぎではないのだろうか。マスコミも気を付けなくてはいけない、と思う。誰もが金が取れるようなもてはやしは、市民を騙す事になるし、選手にも重い負担となっているはずだ。

 ボケ爺のボヤキが始まった。

<読書>

「償い」矢口敦子 幻冬社文庫

ミステリーでありながら、犯罪の心の傷を絡ませたストリーは一気に読ませる力がある。社会派ミステリー作家と言うらしい。

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2008年8月 6日 (水)

諦めの時代

 今はどんな時代なのだろうか?凶悪犯罪が続いている。日本だけではなく、世界的にも無差別殺人、やテロなどがある。それも、年々、若年化している。確かに、生きにくい時代になったと思う。

 ボケ爺の親父は、すぐに、「国家の理想は」、「お前の将来の夢は」、とか。新製品が出てくると、すぐに飛びついた。ご飯炊きが、薪から、ガスに、ガスから電器に、洗濯機、テレビ、自動車、と次から次と、夢が実現していった。

 見田宗介によれば、「理想の時代;1945~1960」「夢の時代;1961~1975」「虚構の時代;1976~1990」と分析している(社会学入門)。それでは、1990年から、バブルがはじけて、虚構の時代の極限で、今は虚構の終焉を迎えている。

 ボケ爺は、今の時代を、虚構でもかばいきれない「諦め」ムードが漂っていると思う。実現したい物がなく、期待もしない。虚脱感で一杯であり、悲壮感が漂っているのではないか、と、嘆きたい。

 五木寛之は、今の時代を「鬱の時代」だと言う。躁の時代が50年、これからは鬱の時代で50年が過ぎると言う。鬱は悪い事ではない、とも言う。ロハスや、スローライフ、消費を抑えてやりくりするエコロジー、テロとの戦いも鬱の成せる技である。鬱の時代は、人間の魂の奥への探求、心を見つめる。未来より過去を眺めなおす、歴史の研究の時代である、と言う。「生命跳躍の抑圧された状態」であるらしい。

 ボケ爺は、若者に未来が語れない。しかし、技術の行き詰まりに、ようやく、芽が出始めてききていると、期待している。もう少しだ、頑張ろう。

<読者>

「不可能性の時代」大澤真幸 岩波新書

何故こんなに息苦しいのか?といきなり尋ねられる。見田氏の説の、虚構の時代の次の今は、「不可能性の時代」であると言う。「何事も、出来ない、不可能に見える」、と言う。現実からの逃避のあり方であるらしい。一読をお勧めする。

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2008年8月 3日 (日)

暗黙知と創造力

 創造力の源泉は、暗黙知ではないか、と思うようになってきた。マイケル・ポラニーの「暗黙知の次元」によれば、曖昧であるが、宇宙を生成、変化させている原理は暗黙知である、と言う。ハーバード・サイモンの「システムの科学」によれば、自然界は全て階層的でありながら、複雑なシステムを構成している。その構成が成立させている原理が暗黙知ではないか、と言う。

 創造とは、全くの「無」から生み出せるのであろうか?何処かで誰かが囁いていたとか、誰かと誰かの意見の組み合わせで、生まれたとか。誰かに反発しているうちに、逆の発想が生まれたとか。些細な経験が、先ず数多くあり、未知を想像しているうちに生まれる。「未知を読む」と言う経験の重ねではなかろうか。

 自然界の営みも参考にしているはずだ。動物、植物、宇宙(天候など)の経験に取り入れて、暗黙の知を形成している、と思う。最後には、自然界(社会も含む)のうごめきを暗黙知にして、編集できて、創造が生まれる。「暗黙知の編集力が、創造力」となるらしい。

 暗黙知を作り出せる実経験はそんなに多くは出来ないであろう。人によって差はあるが、今日の創造の数ほどの経験は出来ない、と思う。豊かな暗黙知を作り上げる源泉は「仮想」ではないだろうか?

 文学、音楽、美術など、全て、未来(夢)を想像している。その想像を掻き立てるのが、仮想力ではないだろうか?仮想力が暗黙知を豊かにしてくれる、と考えている。形式知(既知の集合)からは未来が見えないのでは。

<読書>

「脳と仮想」茂木健一郎 新潮社

「ねえ、サンタさんているとおもう?」の質問から入る。それは仮想である。人間のわずかな経験と学習から、これだけの豊かな知識が生まれる原理は仮想だと言う、と論証を進める。

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2008年8月 2日 (土)

外国語でのコミュニケーション

 韓国は、ここのところ、天気が良くない。今日、土曜日も、朝から曇っている。蒸して暑い。夕刻からは、激しく雨が降ったり止んだりしている。通風はかなり良くなったが、まだ痛む。治りが遅いのは、ボケているためか、歳のせいか、バカなせいか。

 何をするにも痛みで気が進まない。ボケーとしていると、昨日の会議の話し合いの煮え切らない結論を思い出す。つくづく、改めて外国語でのコミュニケーションは難しいと思う。外国企業に勤めてみて、特に強く感じる。日常に起こる、雑談から始まって、くだらない評判など、無駄な話のような中から、人は状況を判断しているらしい。公式な情報からだけでは、コミュニケーションは通じることは難しい。

 海外で勤めても、日本の企業であれば、日本語と言う母国語で、仲間で連絡を取り合いながら、不足分を補っているはずだ。何故、変更されたのか、何故、急に会議時間が変化したのか、何故、この支持が無視されるのか、など気になるが、日常の会話がないだけに突然で、唐突に驚く。

 昨日の会議は、意見者はボケ爺一人、周りは、否定者が8人、しかも、通訳無しの英会話である。準備はしていったのだが、全く言いたいことが言えない。「テストマーケット」「仮説」、と言う定義だけでも、解釈が違ってしまう。敗北を感じた。負けるが勝ちと言う。これからも、負け続けて過ごす事になるだろう。

<読書>

「「読み」の整理学」外山滋比古 ちくま文庫

既知の読み、と未知の読み、が在るという。既知の読みとは、すでに知っている事の内容を読む、ことで、理解も早い、眺め読みのような物で、週刊誌、スポーツ新聞など。未知の読書は、知らない事を呼んで考える、と言う行為の事である。今日、道の読書が出来ていない、と嘆いている。

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