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2008年7月30日 (水)

モノ作りと商品力

 少し下火になっていたモノ作り論がまた盛り返してきたのか?日本の得意とする「擦り合わせ技術によるモノ作り」で世界をリードしよう、と勇ましい。現場力の品質のよさなどが紹介される。現場力は、品質の向上につながるし、機能の効率がよくなることは、言うまでも無い。

 だが、「商品力」から見て、このような現場力を必要とする商品は、今はどのぐらい占めているのだろうか?あたかも、全ての商品に必要だと錯覚しているのではないだろうか?と心配してしまう。商品力の満足度から見たら、ほんの僅かではなかろうか。「商品力」としてのモノ作りの中心は、付加価値と言う無形の機能である。何時までの有形のモノ作りの時代ではない。

 学者は、分類作業が大いなる学問の中心である。つまり、過去のあらゆる調査から、今までの現象を分類して、ある集合体をつくらなくては有名にならない。インテグラル(摺り合わせ)型、モジュラー型、商品によって、有形、無形(ソフト、サーヴィスなど)などなど。

 商品力と開発力と同じ意味ではない。「商品力はアーキテクチュアー力」である。製品力といえば開発力に依存する。製造業で働いているボケ爺にとって、先ずは、開発力をどうするかが最大の課題である。開発納期の短縮、原価低減、品質(性能)の向上、など、考えなければならないことが山ほどある。

 ボケ爺の次の課題は、「アーキテクチュアー力」であり、アナログ機能を、いかにして、デジタル機能とするか、である。これを支える技術は、構想力と、センサーと、制御能力である。

自動車のエンジンを見ても解る。擦り合わせ(アナログ)部分をエレクトロニクスで覆い尽くされている。エンジンは、いまや、デジタル製品、つまり自動車の構造から見たらデジタル部品となっている。過剰な擦り合わせの要求を、エレキが補っている。更なるデジタル化が進むであろう。

この考え方は、他にアナログエンジンにも適用されて行くと思っている。ボケ爺の最後の挑戦技術である。

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2008年7月27日 (日)

不摂生

 一旦引いた痛風が、盛り返してきた。この金、土、日曜日と、うなっている。静かにしているしかない。右足を上げて、ヒア汗をかきかき、横になっている。つまらない。一向に治まらない。食事もしないので、腹が減っている。明日は会社にいけるのだろうか?

 やはり不摂生はいけない。先々週の金曜日、少しよくなったので、味つきカルビを3人前食べて、さらに、結構飲んでしまった。その後、順調に回復の方向であった。先週の水曜日には、体がなまらないようにと、ランニングまでしてしまった。その後から、ヌクヌクと痛風の症状がもたげてきた。

 痛風は、経験からして、5~6日の遅れがある。つまり原因時点より、発祥は遅れる。だから、先々週のガッツキは良くなかったのだ。丁度1週間後である。症状は1週間ほど続き、完治するにはさらに1週間はかかるようだ。今回は、薬もない、医者にも行っていない。何時まで続くのか、試してみよう、とやせ我慢をしている。

 さてどうなるのか?まじめに生活や、仕事をしているのに、神は、ボケ爺を見放したのだ。勝手な時の神頼みは効き目がない。ボケ爺も年なのだから、卑しい食べ方はしないように心掛けないと。

<読書>

「岩倉具視」永井路子 文芸春秋

「言葉の皮を剥ぎながら」、と副題がついている。皮を剥ぐとは、裏を返せば、と読み替えてもいい。言葉には表の意味と裏の意味とがある。残っている資料をそのまま読む事ではなく、時代の環境は複雑で、同時代の伝記を並べて関係など探ってみると、その人のみの言動だけで解釈しては、真の意味がつかめないことがあるという。そんな意味で、岩倉具視を読みとくと、今までの解釈が違ってくる、と言う。歴史を知る上で大いに参考になる。

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2008年7月26日 (土)

食べ物で遺伝子をオンせよ!

 人は、先祖からの遺伝子で決まっていると言う。時々、DNARNAとのコピーの作業で、ミスを起こし、カラスから、タカが生まれることがある、と言われていた。これらは、自然の事で、人間の作為では、操作できない、と言われてもいた。

 そんな中、「遺伝子をオンしろ!」と言う、話を聞くことが多くなってきた。それらも、遺伝に関わる、以外の何を司っているか、分かっていない残りの冗長の遺伝子をオンすることだろうと、勉強不足のボケ爺は考えていた。

 ところが、そうではないと言う。「DNAのメチル化」つまり、DNAをメチル化する酵素がC塩基に付着すると、遺伝子の様相が変わると言う。メチル化する場所は、ある程度決まっていると言う。操作も出来るかもしれない、と言うところまで研究が進んでいるらしい。

 受精卵から、細胞分裂を起こして、臓器や脳や、手足が出来る。これらは、全て、メチル反応が関わっているという。

 一卵性マウスなどで、食べ物、環境を変えて実験をすると、成長の途中から、気性も、行動も変わってくるらしい。人間の世界も、一卵性の人を追っかけて調査してみると、早くから別れて生活するほど、顔の形や、性格や、寿命なども、違ってしまうと言う。確かに、子供を育てていても、両親のどちらに似ているかは、成長過程で繰り返される。そのために多くの夫婦喧嘩の元となっている。

 その「メルチ化」は、食べ物で大きく左右されるらしい。たかが食べ物、単なる健康だけではなかったのだ。頭の良し悪しも、離乳食から?クワバラ、クワバラ!

 蜂蜜の女王もこのメルチ化の仕業そうだ。ロイアルな食べ物のせいで女王になる。しかし、ある場所のDNAを確実に操作できるところまでは、解っていない。

 メルチ化は癌でも変わってくるらしい。P16が癌抑制細胞である。これをオンさせればいい。ピロリ菌もメチル化の作用をするらしい。

<読書>

「忍びの国」和田竜 新潮社

構想は面白い、忍びの世界は、人を人と思わない非常な人の集団である。だから、騙しあいに、ミステリーがある。が最後は人情に負ける。

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2008年7月23日 (水)

心臓病のリスクは少ない!

 ボケ爺は、心臓病にかかるリスクは少ないと言う、データが出た。ボケ爺の家系では、男は、代々、心臓病で死んでいく。ボケ爺も弁膜症で、血液は薄く、何時心臓病で死んでもおかしくない、と常日頃、観念している。

 ところが、厚労省研究班の分析結果が発表された。データによれば、自分の性格で、「せっかち」「怒りっぽい」「積極性」「競争心旺盛」と考えている男性と比べて、「のんびり」「温和」のほうが心筋梗塞などになる率が、1.3倍多いと言う事であった。女性では差が出なかったそうである。

 理由は、怒りっぽい人は、温和な人よりストレスを溜めないからだと言う。要はストレスの量によってリスクが上がると言う事だ。すると、ボケ爺は、せっかちで、お怒りっぽいが、ストレスの量は並ではない。溜まりに、溜まっている。だから、やはり、心臓病のリスクは高いと言う事か。一瞬喜んだのだが、残念、残念。

 海外の分析では、せっかち、怒りっぽい人は心臓病に掛かりやすいそうだ。その理由は、そんな人は、タバコ吸いすぎたり、酒を飲みすぎたりするからだそうだ。

 ストレスを溜めない方策を考えないといけない。海外に居ると、それは無理か?仕事をサボろうか?しかし、今、世紀の発見を目指した技術の研究が順調に仕上がってきている。出来るとストレスも吹っ飛ぶのだが?

<読書>

「のぼうの城」和田竜 小学館

確かに、展開と、人の配置は面白い。が文章は、決してうまいとはいえない。朴訥としている。これも愛嬌か?読みやすいが。

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2008年7月20日 (日)

精力剤と痛風との関係研究

 日本には、怪しげな精力剤が沢山あるらしい、日本では飲んだことが無かったが、ウナギ、ドジョウなど、食したことはある。とりわけ、スッポンの生血は効くような気がする。その頃は若かった。

 韓国に来て、本場の朝鮮人参の恩恵を頂いて、たるんだシワを、疲れた体を、治したいと思っていた。夏ばて予防には、サムゲタンと言って、鶏肉と、人参のおかゆを食べる習慣がある。日本で言う、土曜の丑の日で、ウナギを食べるのと似ている。他にも、ドジョウ、朝鮮人参を漬けたお酒、エキス、など。

 しかしながら、このボケ爺には全く効かない。さらには、食すると、あくる日は、必ず、足先がうずく。つまり、痛風の気が顔を覗かせる。これらの精力剤は、通風に通じているのである。恐ろしくて、精力剤には手が出ない。これがこの3年間の研究成果である。精力剤にプリン体が多いのか、肝臓、腎臓を傷める何かがあるのか、専門医は本格的な研究をして欲しい物である。それとも歳のせいか。

 だから、ボケ爺は歳と同等以上に、老けている。益々爺臭くなってきた。治す方法がないらしい。残念。

 精力と、勢力(活力)は比例しそうであるから、精力剤を飲みたがる。一方、性力剤なる即席剤や、漢方剤も、迷惑メールにひっきりなしに入ってくる。飲む人がいるのだろうか。性力はホルモンだと思っているのだが、どうやらそれだけとは違うらしい。飲むと必ず、内臓の何処かが、比例して落ちぶれるのではないか、と心配する。クワバラクワバラ。

 一日中どこにも出かけないと、ろくなことを考えない。

<読書>

「川柳うきよ大学」小沢昭一 新潮新書

小説新潮の川柳編の集計版である。「広告で毎日癌が治っている」「立ち上がる 何で立ったか考える」「方丈記 判るころには介護四」など、味わい深いね。そこで、ボケ爺も一句、「痛風は 精力剤を好んでる」お粗末。

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2008年7月19日 (土)

雨の一日

 汗が流れて気持ち悪く、目覚めてしまった。サッカースタジアムが、霧か雲かで、霞んでいる。前の27階のアパート群の上の方まで霞んでいる。蒸し暑く雨が降っている。台風の襲来とかで、まだ襲来には早いはずだが、と、窓を眺めている。少し、嬉しくなった。土曜日は、晴れていると、出社する事にしている。1時間の散歩は、メタボ対策との一石二鳥を期待している。こんなに雨が激しいと出社しない言い訳が簡単であるから、思わず、一人ニヤ付ことになった。

 晴耕雨読、とはこんな日のことかもしれないと思いながら、本を片手に、居眠りの一日となった。雨読どころか、朝風呂、朝白湯、昼寝の庄助になってしまった。

先日から、3年ぶりに、痛風が目覚めてきた。右足の親指に、痛みが走り、腫れてくる。薬を探したが、どこにも見当たらない。家に置いて来てしまったのか。にもかかわらず、昨日は会食があり、サボりたかったが、賎しいボケ爺は、参加をして、日ごろの粗食?を取り戻そうと、美味しい焼肉を、3人前ほど平らげて、焼酎も、調子に乗って、たらふく飲んでしまった。このままだと、ピークは、台風と同じで、日曜日から月曜になるだろうと、戦々恐々としている。とにかく、水を飲むことにした。土曜日だ、兎に角、休めとの神のお告げであろう、と、ベッドやソファに横になって、水だけで過ごした。買い物に出るのも、この雨で、億劫である。するとどうだろう、夕刻には、痛みが引いてきた。不思議である。日ごろの行いが良かったので、神がこの程度の警告で許してくれたのだろう。

それにしても、腹が減って滅入るが、ここで我慢である。それを誤魔化すために、又白湯で腹を満たす。明日の日曜日も、白湯で一日過ごす事になる。ボケ爺の哀れな生活である。

<読書>

「末世炎上」諸田玲子 講談社文庫

複雑な構成と、平安時代の歴史絵巻が繰り広げられる。さすがに、諸田玲子である。600ページもある文庫本も、一気に読ませる迫力がある。歴史の不明なところをミステリーに仕上げる力は、さすがである。それに文体が読みやすい。

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2008年7月15日 (火)

竹島(独島)で思うこと

 いい感じになっていた日韓が、この、竹島(独島)で、喧嘩することになってしまった。韓国の李大統領が、「今、韓国は苦しい状況にあるので、竹島問題は、先送りして欲しい」と頼んだのだが、この真意が福田首相には伝わらない。「お互いの立場があるから」「お互い立場を乗り越えて。。。」と言う。お互いの立場があるから、当面の日韓問題を優先しようよ、と大人の対応をしたいとの事が、言うべきは言う、との解釈で、喧嘩にする日本政府、否、福田首相の指導性の無さに、外交ベタに、心が痛む。

 伝わない、伝えられない、は、政治音痴では解決できないであろう。音楽音痴が、音楽のよさが分からないように。ピカソのあの作品の表現が理解できない人に、良さを伝えることは出来ない。これらと、政治、或いは、経済のセンスが無い人がそのリーダーになると、その国は悲劇が起きる。

 何故今、今年に、竹島課題を、初めて書き加えなければならないのか、その話を、政治の場で、議論をしながらでも解決するようにして、それを1年後ではどうして悪いのか?議論もしないで、お互いが、間接的に、目には目を、歯に歯を、と、子供のような喧嘩を吹っかけるのか、全く理解できない。

 伝えること、伝わることは、知力によって、変わってくる。さしずめ今回は、日本の知力(福田首相)が劣っていることといえるのでは無かろうか?

 ボケ爺も、伝わらないこと、伝えられないことが、本当に多い。つまり、ボケ爺の知力が足らないこととなる。確かに、知力は劣っている。

<読書>

「クローズド・ノート」雫井脩介 角川文庫

「犯人に告ぐ」ですっかり、ミステリー作家と勘違いしていた。純粋の愛の形について、心の葛藤をする作風は、素敵である。切なく、暖かいラブストーリーは並みの組み立てでない。ここでも伝える、伝わる、男女の心の機微が面白い。

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2008年7月12日 (土)

愛されなかったボケ爺

 両親に愛されなかった、と思い続けたボケ爺はひねくれた。母親から、いつも言われていた、「この子は少しひねくれているからね。」と。しかし、幼少の頃は、母親の袂を掴んで、くっ付き虫のようにまつわり付いていたようだ。いつも、理想的な兄と比べられて、出来の悪さに非難を浴びていた。おじいさん、おばあさん、それに親の愛は全て、兄に集中していた。だからボケ爺はひねくれた。だから郷里を捨てた。

 続く無差別殺人、つい先ごろは秋葉原で起きた。今日は9年前の下関無差別殺人事件の判定が下った、「死刑」と。犯罪の理由は簡単で、自分の失敗の「憂さ晴らし」である。そんな精神になることが課題である。当然、自由と、競争の中の孤独を生む社会の課題でもあるだろう。

 人格形成に必要な基礎は、親の愛である。盲目の愛ではなく、子供との、適度な反応を持った愛なのだと思う。親の責任から逃れてはいけない。相対した、「真剣な親子の戦い」をする事だと思う。先生や社会のせいにするわけにはいかない。子供たちとは真剣な喧嘩をしてきた。結果は?

 ボケ爺のひねくれ程度は、可愛い物である。この程度に納まったのは、親の愛情の賜物であった。

<読書>

「漱石 母に愛されなかった子」三浦雅士 岩波新書

良書にぶつかった。漱石解釈の仕方の一つである。母の愛を疑い続けた、さらには、それを隠すべく逃避も行われた。漱石の作品は、一貫して母親の愛の不足から、解釈できると言う。「なるほど」、と唸る。

 幼少の頃は養子に出され、養子にまつわる借金も抱える。登校拒否もしている。ひねて、ひがみ根性が芽生えたのである。自殺の課題も抱いていたようだ。漱石の作品の全ての評価が「母の愛情不足」で説明が出来る。すばらしい。

 ボケ爺の人生と多少重なる点に、漱石が好きになった根拠を見つけることが出来て嬉しい。

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2008年7月10日 (木)

いらだつ社会

暗い先行き、ここのところ特に、暗いニュースが多い。この先どうなっていくのだろうかと、不安になっていく。

 失われた年金、年金運用で、5兆円以上の損失があるらしい。高齢者医療問題では、保障が切り捨てられていく。介護資格も切り下げられていく。原油高、原料高、食料高騰、など、インフレがじわじわと押し寄せている。消費税も、公費削減の前に、上げよう、と言う。その他の税も高騰するらしい。食品偽装は日常茶飯事、うなぎ、高級牛、鶏肉、など、産地偽装、使いまわし、期限偽装。このようなことはモットモット、行われている。見つかったら怪我であると言う。教職員採用にも、不正がある。ただでさえ、教員の自覚のない人が多い中、教員としての資格のないヒトなど、教育に熱心にはならないであろう。だから子供がぐれる。無責任で、憂さ晴らしのようである。

 最近の本の装丁は、どうしてアニメ化するのか、思想らしき正当な本が出てこない。文章も、メール的なアニメ的なものがベストセラーとなる。出版量が多すぎる。とにかく当たれば儲けモノ、である。「共同性の危機」である。日本は、思想や、理論に恵を払う事をしない。だから社会構想力が劣っている。議論の場がない。軽きに流される。

 近年は、「自由」を勝ち取った。その生かし方が分からないまま、市場主義、つまり「競争社会」競争に勝たなければ、居心地が悪い。企業も、効率、失敗を許さない。生きにくい。皆がそれに、「イラついている」であろう。

 韓国の友達が、韓国事情を、「食べ物の辛さが強くなってきた。昔は、味噌汁に唐辛子を入れることは無かった。皆がいらだっている、から辛くなるのだ。」と断定する。この歳になって、ボケ爺も、苛立ちが絶えないし、息苦しい。

<読書>

「悩む力」羹尚中 集英社新書

「ヒトの心は悩みの海よ」そんな海にまどろんでいる。人間悩める事はありがたい。モット悩むべきである。「自由と競争」の世の中、「孤独」である。自我と向き合わずして生きられない。ウェーバーも、漱石も、時代を超えて、悩み続けたい。悩まずして、逃避している。だから、幼稚な犯罪が続く。

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2008年7月 6日 (日)

弱虫

 「弱虫!」は、男として最も言われたくない言葉である。イジメは全てこの言葉から始まる。男は勇気をもっていなければならない。特に女性から言われると、決定的な状態に至る。まだ、「嘘つきね。」の方が可愛い。

 「監査法人」NHKの土曜ドラマは、厳しい決断を促し、さまざまな人生観を抉り出す。考えさせられるドラマが進行中である。会計士としての正当性を貫く正直者。企業の苦しみを知って妥協する常識人、監査法人は企業のクライアントである。監査法人として成長を図る癒着人、さらには、政府が目指す金融改革の片棒を担ぐ、官庁の監査局の人々。さらには、マスコミの名に隠れて事件を暴く人。人それぞれ、「不正」に対してどのように立ち向かうか?その展開が、すさまじい心の葛藤として描かれ、演じられている。倫理の課題を突きつける。

 そんな中、「弱虫なら、弱虫らしく生きたら!」と切り捨てられる。男は、その「弱虫」の言葉は心の痛みにしみる。痛みをえぐり返される。

 「憂いを許さない美学もある」「処世術に浸かる美学もある」「優柔不断の美学もある」「傍観者を装う美学もある」「事から逃避する美学もある」いずれにも「弱虫」と言われたくはない。弱虫と「卑怯」とはちがう。「卑怯」の方がまだ割り切れる。

 遠山の金さんなら、どう裁く。池波正太郎の鬼の長谷川平蔵ならどんな展開をするのだろうか?

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2008年7月 5日 (土)

健康ブーム?

 健康ブームと言っても、死語になりそうである。ダイエットフードも同じかもしれない。ボケ爺もそれにあやかりたいが、ひねくれ爺でもあるので、ほとんど食したり試したりした事がない。

 ボケ爺の持病は高血圧であった。この原因が、54歳の時、弁膜症からきていることが分かってから、薬を飲むことを諦めた。以前から、医者からは処方されては飲まなければ、と思いながら、健康診断前1週間ほど飲んでは、薬は在庫の山となって、端から薬の効果を無視していた。結果は正しかったのかもしれない。

 その中で、アミールは薬ではなく、ペプチドがいいのだと言うので、飲んでいた。確かに、下側は下がったように思えてきた。最近は、何とかペプチドがやたらに、出ている。気になるが、医学的根拠はなさそうだ。万人に聞くわけではない、と言うことだろう。

 健康食品、先ず、水、これらも、根拠は何もないとのこと。ダイエット食品でも同じ事、効き目があるのなら、今頃日本人は全てスマート人になっている。納豆が店舗からなくなったときがあったが、今は?磁気ネックレス、ブレスレット、これも効き目は疑問だと言う。

 狂牛病はプリオンが原因と言っていたが、必ずしもそうではないと言う事らしい、と最近分かっている。横田めぐみさんの焼かれた遺骨からDNAが観測できたのも、かなり怪しいのではないか、と言われている。

 人体と言う複雑系は、原因と結果が一致すると、簡単には証明できない事は想像できる。そんな似非科学が、我々を騙す事になる。予防だと思って諦めることかもしれない。ボケ爺も自然体であろう。死ぬ時には死ぬだから。

<読書>

「擬似科学入門」池内了 岩波新書

占い、超能力はさすがに科学でないと分かってきた。しかし、人体、環境など複雑系では、まだまだ、科学的根拠がない、事象が多い。それに付込んで、いろんな騙し商品がある。

騙されることには、社会的問題があると言う。自分で考える事を止めて、「お任せ」思想が多くなったからだと言う。

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2008年7月 3日 (木)

太陽電池

 クリーンな次世代エネルギー技術にはいくつかが考案されて、黎明期から成長初期の時代に入った。原油がここまで高騰すると、もう少し効率が、と言っておれなくなってきた。太陽光は一日で、1年分のエネルギーが降り注いでいると言う。効率よく採集できると、大きなエネルギーとなることは良く知れられていた。太陽電池は日本が専攻した技術である。昔から、騒がれていたが、日本がモタモタしている内に、ドイツに水をあけられてしまった。日本は、サミットを迎えて、慌てて、政策の見直しをしている。

 普及の基本は、「エネルギーの分散化」のインフラにある。何度も、ボケ爺は、分散化の時代であると訴えているが、中央官庁は、民間の大企業も、頭が古くて、センター集中型から変えられない。こんな発想では、日本はもっと悪くなる。

 しかし、ここに来て、技術の発展も見逃せない。シリコンから離れたさまざまな新材料が生まれている。シリコンの御三家、サンヨー(今はほぼ死に体か?) シャープ、京セラが頑張っている。本田までが参入してきた。新材料での参入は、昭和シェル、昭和電工、富士電機、など、さらに新材料が次々と考えられている。15%以上の効率を目指してもらいたい。

 ボケ爺は、科学技術に、いつも不思議に思うことがある。科学技術の進歩は、それの従事するヒトの数に比例して発達、発展すると言う法則である。法則があったわけではない、ボケ爺が法則だと思っているだけである。

 さて、太陽電池だけが次世代エネルギーではない。次の一手が現れるだろう。早く現れて欲しい。

 科学技術にも競争原理が必要である。市場主義が働く事は明らかである。競争者の数と、汗の量は比例しているのである。科学技術家はいつも冷や飯を食っているが、楽しければそれでいい。マルクスが言ったという、科学技術家は労働者、もっと搾取せよ、と。

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2008年7月 2日 (水)

雨の中のサッカー

 今日は少し早く7時に会社を出た。雨が上がっていた。自宅の近くまでスムーズに来たが、車が混んでしまって、いつもより、3倍も時間がかかってしまった。サッカーの試合があるからだ。その渋滞の最中に、大粒の雨が降り始めた。

 前にも話したように、我が部屋からは、サッカー場がよく見える。ただし、競技内容は見ることはできない。部屋が蒸すので、少々、窓を開けている。いつもより激しい応援が続いている。雨で、声が伝播しやすいのだろうか。雨音などより、ウォー、ウォー、の叫び声の方がよく聞こえる。

 時々、否、頻繁に、アー、アーと盛り上がりの声援が一段と大きくなる。雨のために、いろんなハプニングが起きているようだ。その合間は、応援歌である。

 競技場のイルミネーションは、雨で濡れて、白い霧のようにしか、見えない。幻想的でもあり、大声の合掌は、現実である。観客は、いつもより多く、上方のシートまで入場している。何本かの旗は、雨を吸って垂れ下がっている。こんな大雨の中のサッカーがこんなに盛り上がるものかと感心している。選手のプレーに対し、雨のいたずらが、観客との一体感を増すのだろう。直接観戦していなくても、盛り上がりに、一緒になって盛り上がっている自分が、可愛く、バカらしくなる。ボケ爺の暇つぶしであろう。

 今日はランニングに出かけるチャンスがなさそうだ。サボれると、ニンマリとしているのも、複雑な気持ちである。

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