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2008年5月31日 (土)

ドゥセルドルフにて

 久しぶりのヨーロッパへの出張である。今年のセッビト(ハノーバー市)は、アメリカへの出張で、参加することが出来なかった。

 昨日、ドゥセルドルフに付いた時間は、7時半ごろであったが、まだまだ明るい。今回で、2度目である。以前は、電車で来た。ケルンに泊まって、電車で通った記憶がある。日本人が多く住んでいる街である。やはりライン川沿いの、落ち着いた良き街である。

 昨日のフランクフルトは、真夏であった。報道に違いが無ければ、27℃ということである。フランクフルトから乗り継いだドゥセルドルフへのフライトでは、入道雲の中でのフライトである。いろんな入道雲の中を、我がフライトはくぐり抜けていた。何が起こるのか期待しながら、何だか冒険家気分を味わった。ドゥセルドルフ空港は、新しく、モダンであった。すばらしく、良い設計である。宿泊もそこに近く、まだ新しいホテルである。

 通された部屋は、スイートである。バスルームが2箇所、ベッドルームも2部屋であり、単なる仕事上の宿泊には豪華すぎる。今後から気を付けて経費を削減するように心掛けたい。部屋を変えるように掛け合ったが、変更は出来なかった。

時差で、早くから目が覚める。いつもの様に、6時半から、散歩を始める。霧なのか、曇っているのか、すっきりしない天気である。やはり、気温は高い。ドゥセルドルフ空港の周りは、エアポートシティー、と言うことで、改造中である。モダンなビルディングがいくつも建設されている。一歩入ると、木々に囲まれた古い家並木が続く。ここらあたりで、もっとも高い木は、ポプラである。ドイツでは、東京の様に、決して一箇所に集中した街はない。8箇所が同じような大きさの街を保っている。

 ドイツだけに限らず、ヨーロッパの古い街並は、ボケ爺の絵心を描きたてる。絵心はやはり、雰囲気が必要である。単なる、余裕の問題ではない、と自覚した。早く絵の世界の生活がしたい、と、改めて、考えてさせられる、良き街である。

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2008年5月28日 (水)

先輩に、後輩に懺悔の告白

告白すべき事かどうか二週間ほど迷ったが、思い切って告白する事にする。

 「だれそれを囲む会」、と言う見出しのメールであった。この歳になると特に驚く事ではないのだが、元戦友の顔ぶれが懐かしい。懐かしいと思うのはそれだけ歳を取ったという事だが、連絡が来るのは嬉しい。思い出は走馬灯のごとく駆け抜けていく。

 元上司から、個人的なメールがフォワードされて来た。多分20年前から思い、悩み続けていた自戒であり、謝罪の言葉があった。ボケ爺の人生にとって、それは最大限の重い、重い、苦い内容になるであろう。

「辛く叱責してきたことに謝罪したい」と言う内容であった。20年間もの間、悩み続けさせていたのだ。別れるときに、謝辞を伝えなかった事に、今になって後悔をした。先輩を大恩師だと思っていたし、叱責を受けるのも教育の一貫だ、と思っていた、さらには即物的には、愛情の裏返えしだと喜びでもあった。叱責されて当たり前の、生意気な部下だった、へそ曲がりでもあった、素直さも無かった、また独善的でもあった、と自覚していて、今もその性格に後悔している。今も続くその性格に悩んでいる。

とにかく、全てはこのボケ爺が悪いのだ。先ず、懺悔し謝罪しなければならないのはボケ爺の方である。謝罪されるにふさわしい人格ではないからだ。ボケ爺は、ご他聞に漏れず部下には、鬼上司といわれ続けていた。まず部下に心より謝罪しなければならないことになる。

その元上司には、生意気な迷い羊を虚勢していただいた。数々のビジネスセンスを教えていただき、身についた。極めつけは、好きな事を自由に、好きなだけさせてもらった。開発では、多額のお金も使った。一度も制限を受けた事はなかった。が開発の納期はよく遅れた。

 人生の幸せは、良い先輩、恩師に出会える事であると、確信している。だから、ボケ爺は幸せ者だと、常日頃感謝している。

 先輩に、ボケ爺の「生意気さ」について早々に、謝罪をしなければならない。ボケ爺の「出来の悪さ」が全てあるからだ。しかも、先輩には何一つ恩返しが出来ていない。古巣であるべき事業部をつぶし、後輩の進路を惑わせてしまって、むしろ苦々しい状況を作ってしまっていた。多くの後輩にも懺悔しなければならない。

大先輩に、同僚に、後輩に、深謝、深謝。懺悔、懺悔。涙!涙!

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2008年5月25日 (日)

特許黒字、世界2位に!

 日本の特許の国際収支が黒字であり、世界に2位になった、と、大きく新聞ニュースが伝えていた。過去最高の、5358億円だという。日本もやっとここまでなったのかと感慨に耽ったのだ。(特許国際収支が黒字と言うことは、海外からもらう特許料が、海外から買う特許料より多いということである)海外から受け取る特許料が増えたという事で、嬉しい事である。

 しかし内容を読んで、愕然とした。先ずは、額の増えた理由が、海外現地生産に移した製品の買戻しで含まれる特許料であるという。二点目は、米国がトップである事は言うまでもないが、その額の差が七分の一(買い戻し額を差し引けば、十分の一)、その差の大きさに、またしても失望した。三点目は、GDP比率では、日本は低い水準で、英国、フランス、スウェーデンなどに負けている。知的財産権が、今後の国家間の競争の火種になるというのに、困ったことである。

 技術大国と、誇りがもてない。特許収支が悪いという事は、アイデア不足、イノベーション不足、など、クリエーティブ能力に遅れがあるということである。技術大国といいながら、日本の技術の中身が職人芸に支えられている事が、はっきりとしている。つまり、モノ作りの基本の原理、技術(知財)は、海外からの借用で成り立っているという事である。そんな中、「モノ作り大国日本」などと、はやし立てる、ジャーナリスト、政府のごまかし宣伝者、似非学者たちの責任は重い。

 食料戦争が始まると、自給率が39%を割って深刻である。同様に、知的財産も、自給率が問題になってくる。他人の特許で何時までもやっていけない。知的財産戦争が始まる時期が迫っているからだ。

 何度も言って、すまんノー、教育に手を抜いているし、研究機関への投資が一桁少ないからだ、と繰り返したい。さらには、海外からの優秀な人材を、未だに避けているからだ。せめて明治時代までさかのぼりたい。

 スポーツ庁が出来て、奨励金に1000億円も使うって、ホント!どこにそんなお金が?

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2008年5月24日 (土)

初夏は白い花

 散歩していると、紫外線がきつい初夏になっている。初夏は白い花が目立つ、春風に酔っている今日この頃である。一方、韓国では、赤いバラの季節でもある。団地内にあるバラのアーチもまだ伸びきってはいないが赤い花のトンネルが美しい。

 ラッパ型の花で、針のように細い、純白の可憐な花が至る所で咲き誇っている。特に、強い匂いがない、それが、また清楚で可愛い。初めての出会いである。「何じゃ?」と思って、なんて言う名の花か、絵をかいて聞いてみても、誰も知らないようである。そんな花姿も観た事がないという。こんな美しい花を見逃すとはもったいない話である。細くて、白くて、群がって、それは、それは可憐なのだ。

 「何じゃ」と言う気持ちが必要と言う新聞記事が載っていた。東京、府中の競馬場の近くに、「なんじゃもんじゃ」の樹があるという。白い線香花火が木全体を覆っていると、記されていた。ヒョットすると、同じ物か?同じ物であって欲しい、きっと同じ物であろう。競馬場の前は良く通ったことあるが、あいにく、「何じゃ」と感動した事はないし、じっくり見たこともなかった。だから確証は出来ない。

 「なんじゃもんじゃ」、には、ヒトツバダゴ、クスノキ、アブラチャン、などがあり、競馬場の物は、ヒトツバダゴであると言う。なんだか分かったような気がして嬉しい。

 街には、ペチュニア、マリーゴールド、パンジーの花が、咲き誇っている。マリーゴールドは、名の通り、ゴールド色で、豪華な橙色である。パンジーは光沢のある、黄色、赤、紫、ペチュニアは光沢のない、黄色、赤、紫、と同色ではあるが、花の味は違う。いずれも、原色が美しい。芝生のなかの雑草である、クローバの白い雪洞のような花も盛りである。散歩には発見が多く、感動が楽しめる。

 探究心が文明を育んできたが、現在は、その反面、正体不明なもの、予測できない事が多い。そんな事象に、畏敬の念や、感動が薄れてきているのではないだろうか。「何じゃ」と立ち止まり、首を傾げて仰ぎ見る率直な疑問を忘れたくはない。感動の楽しみに、散歩を進めたいボケ爺である。

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2008年5月21日 (水)

米でトヨタ変調

 新聞によると、米国市場で、トヨタが失速しているという。あの成功物語が、今では苦しんでいる。営業利益が30%以上も減っている、という。米国では営業利益が120億モノ赤字に陥っている。住宅ローンから始まる金融不安から、ガソリン高騰から、高級車が売れないからである。ダウンサイジングのタイミング、対応はかくも難しい。

 日本のバブル崩壊時と良く似ている。不良資産を抱えて、資産デフレが起きている。このまま進行して、10年は回復しないと予想する経済学者が多い。経済では、デフレほど恐ろしい物はない、といわれている。日本も未だに苦しんでいる。米国は、まだ、日本のように血税を投入はしていない。「自分で這い上がれ」、と言うことのようである。

 米国の低迷が長期化すれば、全ての産業に及ぶであろう。さらに、米国は、ブッシュの傲慢さから、バイオ燃料政策で、今ではブラジルを抜いて一番の生産国となっている。それはよしとしても、食料高騰の原因を作ってしまった。このまま続くと、食糧インフレとなって、全世界規模で、暴動が起きるかもしれない。このような環境から、輸出国の、日本、韓国は、新たな利益成長のシナリオが作れるか、正念場である。

 ロシアでは、日本の自動車の販売が軒並み好調(50%以上)である、と言う。しかし、その数は一社当たり16万台が最高である。(250万台市場)まだ、米国に変われる市場ではない。インドは、30万円自動車の出現を待っているので、難しい。中国は、この地震の被害で、暫くは、今までのような高成長は難しいかもしれない。いずれ休憩が必要な時であった、と思っている。

 富豪と貧困の二極化の現象と、最大消費国の米国の変調で、これからの戦略は本当に難しい。どんな戦略が当たるのか、各社の出方を注目するしかない。とにかく、革新だけは怠らないように、イノベーションの時代であることは分かっている。クリエートな発想、創造の勝負の時代であることには変化はない。ボケ爺は全てが枯れてしまった。若者の成長を楽しみとするとしよう。

<読書>

在庫の本が無くなった。暫くは、本の紹介は中断である。残念。

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2008年5月19日 (月)

疲労感はどこから

 三日坊主で終わるかもしれないとおもっていた、ランニングは、3週間ほど続いている。その分疲労を感じる日もある。これは肉体の疲労である。筋肉痛と伴って、何だか体がだるく、感じる時がある。疲労が蓄積されているようではない。仕事の出来の具合と関係しているようにも思える。仕事で前進がない日は、ランニングに出かける意欲が薄れる。

 今まで、肉体的疲労は、乳酸悪玉説が主流であった。乳酸菌が血液に溶け込んで、脳に伝えるのではないか、と言うことであった。動物テストでは、その相関が取れないということで、乳酸説は否定されている。しかし、筋肉が張っているのは事実であるが、疲労感との関係は別らしい。

 脳に、疲労を感じる場所があり、免疫系や内部分泌などが複雑に絡んでいるという説が中心であった。ウイルス汚染では、サイトカインと言う免疫物質を作る。インターフェロンを投与すると疲労感が現れるなど。肝心の疲労を感じる場所が見つかっていない。

 最近の検討では、PETなどで、前頭葉の働きを調べていると、前頭葉の「前帯状回」と言う領域で、血液の流れが減って、神経伝達系物質のセトロニンの働きに異常が現れることが分かってきた。この領域は、集中力や、意欲をつかさどる場所でもある。つまり、意欲や達成感などが大きいと疲れを感じない、と言うことに繋がる。案外治療は簡単なのかもしれない。疲労回復の妙薬に期待したい。

 疲れを感じない体調を作るには、精神面の充実が重要だという事になる。ストレスのすくない、良い仕事が出来ることが肝心である。さて、いい仕事は、どうしたら出来るのだろうか。そこがボケ爺の悩みである。悩んでいるとランニングに出かける意欲が薄れる。楽天的に生きるのがもっともの妙薬かもしれない。ところで楽天的になるには、と、疑問は尽きない。歳を取り、ボケてくるとヒツコクていけない。

 疲れた顔ですよ、といわれると、疲れではなく、歳のせいで、皮膚がたるんでいるのだと、反論したいのだが、反論は野暮である事を知るようになった。

<読書>

「夢のもつれ」鷲田清一 角川ソフィヤ文庫

前にも紹介したような気がするが、今読んでも前に呼んだ事が思い出されないので、紹介する。哲学者のエッセイである。中身は難しい。表題はすばらしい。二章には「夢の引きつれ」「夢のささくれ」「揺らめく、散らばる」と続く。

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2008年5月17日 (土)

収穫逓減の政策

 経済用語に、収穫逓減の法則、なるものがある。いろんな事の「量」を増やしても、利益は増えなくなる(逓減)という法則である。モノ作り、が良い例である。例えば、自動車を作れば作るほど利益率は下がるという物である。つまり原価が、作るほどに下がらなくなるからである。機種を増やせば増やすほど、原価低減に限界が出てきて、さらに儲けが無くなる。これが製造業の悩みである。

 ガソリン税が道路財源から、一般財源化できるとなり、一安心である。道路を増やしても、利用率は下がる一方である。幹線以外の高速道路を作れば作るほど赤字である。地方財政の平等化も同じである。モノ作りに巨額の資源を投入しても、経済効果は無くなる(逓減)ことが、収穫逓減である。政治家は、実は日本人は、こんなお金の使い方に未だに執着があるようだ。

 一方、資源の高騰、環境問題の深刻さ、食糧依存度の高騰、など、目の当たりにすると、つくづく、日本は科学、技術を、もっともっと発展させなければ生きていけないように出来ていると思う。つまり文化の高揚である。科学技術の発展に力を入れようとすると、人材であり、教育である。

 教育の水準を高めなければならない。高等教育の充実であり、グローバル社会に通じるように、海外の高等教育との連携が必要で、外人の受け入れを増やす事である。この教育に、お金を投入すれば、するほど、無限の可能性が出てくる。これを収穫逓増と言う。投入した額を増やせばそれ以上に効果(逓増)が上がる事である。

 例えば、ソフトウエアがそうである。ソフトのCDは一回作るとコピーが簡単で原価は最初だけですむ。作れば作るほど、儲かる事になる。だから、マイクロソフトが、グーグルが金持ちになる。

 今年の大学、大学院の強化額は、わずか680億円である。道路財源の百分の一である。道路財源の10%を、戦闘機一台を我慢すれば、三倍以上の投資が出来て、GDPの成長率を5%に出来たら、安泰である、と、ボケ爺は考えるのだが。今の、これからの時代は無形文化財こそ財産である。

<読書>

「思考の整理学」外山滋比古 ちくま文庫

大昔読んだ気がしたが、最近、再読されているようである。エッセイの中に、含蓄がある。こんな思考が湧く人材を沢山作り上げなければ日本は安心できない。

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2008年5月16日 (金)

CO2の出ない飛行機

 自動車では、クリーンエンジンとかのエンジン方式が3種ほどあり、技術開発の競争が激しく行われている。いずれが勝つか、未だに断定は出来ない。電車は、軽量化しかないのかもしれない。船は、帆掛け舟になるのかな?

 最も、多量の二酸化炭素の排出の飛行機はどうなるのか、と思っていたのだが、ボーイング社が、燃料電池とリチウムイオン電池の組み合わせで、2人乗りのグライダに搭載して、試験を始めたとの、ニュースがあった。

 当然、ジェットエンジンメーカーでは、バイオ燃料の研究はしているであろう。何時になるのか、はっきりとした声明は出ていない。どんな課題があるのだろうか。飛行機エンジンからの温暖化ガスの排気量は、膨大であろう、と想像できる。圧縮気体の爆発での推力の飛行機エンジンはモーター(プロペラ)と組み合わせるハイブリッドは難しい。かといって、モーターだけでは推力不足であろうか。離陸や着陸時飲みの瞬間では補助エンジンとして使えるのかも、やはり推力不足であろう。それに、上空ではプロペラを折りたたまなければ、抵抗になる。難しさは理解できる。

 ラム型ジェットエンジンの活用は出来ないものだろうか。ラム型エンジンは、期待を圧縮して、空気の気体をプラズマ化して推力を得るものである。上空では、このラム型を、離陸と着陸は、今のファンターボプロップエンジンで、と思ったが、エンジンが、その分、増える。このターボプロップエンジンとラム型エンジンの一体のハイブリッド化にも出来ない。

 ラム型エンジンを胴体の中心に入れるといいのだが、客室が減ってしまう。騒音、温度上昇など、解決できそうにないのかな?それとも小さなエンジンで済めば、客室、荷物室の犠牲は少ないかも知れない。推力不足は、本エンジンと併用すればいい。

 ボケ爺の生きている間に、革新があるだろうか、出来るまでは生きていたいのだが。それに、円型翼(抵抗が少ない、騒音が少ない)の実現を待っている。

<読書>

「哲学塾 歴史を哲学する」野家啓一 岩波書店

過去を知ることは、未来を知ることになるのだろうか。唯物史観はどこまで通じるのか。唯物史観で大いに興奮したのだが。科学家として、技術家として、現象学における、認識の科学哲学、分析哲学を基本にした、PDCAは命だと思っているのだが。

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2008年5月12日 (月)

禁じ手

 相撲が始まった。「禁じ手」という業があるらしい。それは使ってはいけない。スポーツでは、危険な行為として使用禁止している。それを禁じ手、と言うらしい。

 世間では、通常使ってはいけない事を、上手に使って、利益を得ている人たちが多い。違反と言うことは、罰せられるが、そこまでは法令化していないのが、禁じ手らしい。あまりの多さに驚くが、自分の身になって反省しなければならない。

 使い回し:ご存知、吉兆での出来事である。大昔、レモンソーダーなるハイカラな飲み物があった。その中のサクランボが使いまわされていた。刺身のツマの使いまわしも有名であった。大昔の事である。しかし、吉兆はそれ以上である。

 先送り:何事も、先送り流行り、である。決断を止めて、先に先に、送り出している。決まらない。決めない。それでも何とかなっているから、不思議だ。辞書によれば、先送りとは、「咲きおおる」といって、枝がたわむほど花が咲く、ことでもあるらしい。宝は寝て待て、と言うことか。

 近頃の若者は:この言葉も禁じ手である。殺人行為、障害行為、ニート族、何を考えているか分からない、なんていってはいけない、らしい。その反面、いい若者も沢山いるのだから。

 責任なすりつけ:銀行経営、「任せていたらこんなになってしまった。」辞めては、赤字、続けては、もっと赤字になる。都民から税をもらえばいい、と。これに似た発言は多い。防衛省の話はすっかり忘れられてしまったようだ。厚生年金問題発言、後期高齢者医療法案、など、など、暇がない。「すみませんでした」と言う無責任発言を禁じる法はないものか。日本国民は寛大である。謝られたら、マーいいか、と許す。

 ねじれだし投げ:ご存知、ねじれ国会である。今の状態を何故、「ねじれ」、と言うのかも分からない。名付け親は無責任。いろんな法案が、投げ出されて、60日で再可決。無駄な時間を使っている。議員族のお遊びごっこを禁じる手立てはないものか?税の無駄使いである。

 偽装ひねり:再生紙は誰も責任を取らない。偽装で逮捕もされない。食品は多くの逮捕者が出ている。ミンチ、地鶏、吉兆の高級牛、などなど。賞味期限もあった。逮捕され責任をとるほうはまだましだ。

<読書>

「哲学塾 パラドックスの扉」中岡成文 岩波書店

タフでなければ知ではない、優しくなければ知る資格がない。むつかしい。短歌が一つ、「こんな夜は隣の闇に落ちそうで 何もない国のアリスが眠る」 如何かな?

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2008年5月11日 (日)

性悪説か?

 人間関係、性善説を信じるのか、性悪説を信じているのか?悩む事は多い。ボケ爺の生きてきたサラリーマン社会として、人間関係は、誰もが自分の利益を優先して生きているのは、自然であり、悪いとはいえない、と信じている。学生時代は、損得ではない?さらにさかのぼって幼少の頃はどうだったか、強い者が威張っていた。その反面、強い者が弱い者をいたわっていた。何時までも強くいたいからだ。いすれの世代も、損得のバランスで動いているように思う。

 利他的遺伝子である人間の営む社会は、「利益優先で考える、損か、得か」なのである。それが自然なのだ。 損得は、「商人道」に通じる。「情けは人のためならず」の諺がある。商人は、「何事も相手と利益を分かち合う」って、どちらも生きていけるぎりぎりを探っていく。これが社会に適応する基本であり、そんな考えの中に倫理を身に着けてきた、と思うのである。

 誤解がないようにしたいが、「利益」「損、得」は経済用語であり、経済活動の場で使われる。営みの状況に応じて、その言葉は変わる。親子では、「つながり」、恋人では、「思いやり」、友人では、「信頼」、など、「絆の元」と思えばいい。

「人間性」と言う特別のモノは存在しない。説得や、教育で、心を変えることは出来ない、個性だ、と思っている。この上司に従っていると、好きな事をやらせてくれる、出世するかも。この部下を信じれば、自分が楽になる。など考えているのではないのか?それが倫理である。人間が倫理的に行動するのは、倫理的に行動する事が、結果として自分の立場が保てるからである、と思う。

 不祥事や、いじめなどは、心の荒廃などが原因だといわれて久しい。基本として、「道徳教育の充実」「武士道」の復活など言われている。武士道に通じる「統治者」の全体への奉仕者としての無私の精神を押し付けても、解決にはならないのではないか。例えば、武士道の人は正直であったのか?全体のために、嘘をつかされることが多かった。悲劇小説も数々ある。さらに「嘘も方便」と言う諺まで生まれている。

 ボケ爺の考える問題点は、人と人の絡みを避けるように指導しているからいけないのだ。もっと集団で行動をする場所を造るべきである。子供のケンカに親や、先生が口を挟まない社会にするべきだ。群れの中に、必ず倫理が生まれるはずである。

<読書>

「痴人の愛」谷崎潤一郎 新潮文庫

まさに、男女の損得のバランスのストーリである。この偏屈なバランスを、世間では痴人と言う。

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2008年5月10日 (土)

椿が落ちる

 初夏になるというのに、遅咲き椿はまだ咲いている。その幹には椿の花が首から落ちている。変色している物もあれば、この朝に落ちてしまったかのようなぬくもりを感じる物もある。亡き父は、三月の初めに突然、逝ってしまった。そこで一首。

 落椿 亡父の笑顔 思い出す     合掌!

 「漱石さんの俳句」大高翔 実業の日本社 

私の好きな、50選と言う本を読んでいると、漱石の本音で生きてきた「生き様」が見えてくる。解説者の大高翔さんは、俳人で30歳まえの淑女である、らしい。その解説が、漱石と言う恋人を、愛の目で、語る。その語りべに、漱石の本音を裸にさらす手法は、心憎い。女性で、漱石が恋人ならでは出来ない業であろう。それにしても、漱石は、子規と出会い大いに俳句を友として、本音を俳句に託したのかも知れない。最後の句は、芥川龍之介にあてた手紙の中にあったらしい。

 秋たつや 一巻の書のよみのこし

 実に、いい句である。ボケ爺の歳になると分かるような気がする。ボケ爺の臨終時にこの句が思い出せるといいのだが。ボケ爺にも考えさせられるところが多い。以下は、ボケ爺の駄作なり。

春のちょう 二頭のからみいつもより

新芽には 思いは深く悩みあり

満月や どこから見てもまんまるか

如身仏 アドレナリンを夢うつつ

春風に つられて行けど道見えず

短春の 花一生の忙しさ

稲作をはじめし 陶磁村

暁に 会話途切れて本の中

水の意 花藻となりしも抗えず

春雷に 気をひきしめし 夢の中

春雷は 何をお告げか 夢の中

深遠におぼろに輝く 春雨なり

絵心を 黄クロッカスにもとめたり

吾妹子を夢見る春の夜は永し

思い切り春の風あり 恋文か

衣替え 脱いで丸めてどこに行く

立夏なり 思い出すこと多かりし

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2008年5月 8日 (木)

吉野のサクラが危ない

 吉野のサクラの木がこの所枯れてきている、という。吉野のサクラ群がこのままだと5年で全滅になるという、危機的状態だそうだ。その原因が、根にはびこる菌、ナラタケ菌の仕業だという。ナラタケは食べられる茸の一種であるとも言われている。それに、宿り木菌にも冒されているらしい。その理由が、7月の雨量が特に多い、と言う。土が水分を含みすぎで、ナラタケ菌が繁殖するのに都合がいいのだそうだ。温暖化も影響があるかもしれないともことも言われている。どうすれば防げるのだろう。埋立地で、乾燥に使うテープでも埋め込んで、土の乾燥をよくする。排水溝を埋め込む?

 米国のJ・クレイグ・ベンダー研究所で、細菌の全遺伝子を化学合成が出来るようになった、と言うニュースを見た。細胞にこの遺伝子を入れると、増殖して「人口生命」が作れるという。環境浄化に役立つ人口細菌が作れるらしい。細菌にはさまざまなものがある。石油を分解する、硫黄を分解する、など。

 化学的に合成した遺伝子で細菌の全てが合成できるとなると、怖い事が起こるかもしれない。細菌の世界も、自然淘汰の環境で微妙に安定を保っているはずだ。それが崩れる事は、細菌だけに、生命世界に大きな影響がある。うまく使えば、二酸化炭素を吸収して、天然ガスに出来たり、光合成で、水素ガスに変換したり、吉野のサクラを悩ます、ナラタケ菌を窒素に分解してくれる、ことだって出来る。環境保全だけに限定した、人口細菌が開発される事を期待する。

 金属が高騰している。銅やインジウムなど希少金属の回収技術に、微生物を使うと効率がいいという技術が開発されてきている。そんな微生物も、合成化学で作れる可能性だって出てきた。この分野のバイオ技術は日本では弱い。持たざる国の戦略に不安を感じる。

ところで、マツタケの原産地を見分ける頃がDNAで出来るようになったらしい。韓国産、中国産、カリフォルニア産など見分けられるようだ。見分けてもどうにもならない。逆に、人口細菌で、マツタケを栽培する事はできないだろうか?体に好い茸の増産などにも期待したい。ボケ爺の長生きのために!

細菌、微生物の遺伝子、その化学合成などのバイオ技術に未来の夢あり。日本に戦略を。

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2008年5月 5日 (月)

日永で考える事

祝日、こどもの日である。ボケ爺、当年とって、後期高齢者までは、まだ少しある。しかし、老人と言われて人間でないことは明らかな歳である。

 問題は、一向に老人になりきれないことである。老人を受け入れない自分に手を焼いている。さらには、いまだ夢を見ているのである。困った者だ、だと思う。なんとなく落ち着きが悪い。その不安定な心地が、益々、中途半端な状態を作っている。このまま、老いとの戦いを続けるのであろうか。

 「悟り」得なければならないのだが、聖人のように、絶食、苦行、修行を繰り返してこそ、得られると、先人が言うようには出来ない。怠け者のボケ爺には、そんな苦行は、鼻から出来ない。絶食など、一食を抜くことも出来ない。何時も腹120%でなければ、発狂してしまう。勉強もしたくない、出来ない。

 隠居も、修行も、悟りも出来ない事が、狂人であり、変な老人となって、この世に住みつけていけるのか、試みてみようと開き直っている。回りには大いに迷惑をかけたい。

 しかし、迷惑はかけてはいけない。怠けて生きていくのだから、今から「何が出来るのか」「ないかするために」ではなく、「何をしないか」を心がける。何かしたい欲望を、何もしない欲望へと導きたい。生臭ボケ爺ができるのか、見守って欲しい。

 「少年易老学難成」には飽き飽きしている。「かには甲に似せて穴を掘る」で、等身大に生きてきたのか?せめて墓穴だけは大きくほって欲しい。「覆水盆に帰らず」は分かってるって、だから諦めている。「終わりよければ全てよし」も分かってはいるが、よい終わりに欲を出している?

<読書>

「他諺の空似」米原万里 光文社

世界はことわざで連帯する。諺こそ、人間の知恵である。以前にも紹介したが、米原万里とはどんな人物であったのか?博学は勿論、文書がうまい。世相を全うに批判できる。下ネタを、堂々と、実にユーモラスにこなせる。ボケ爺よりも6歳も若く、癌で亡くなられてから、一年が経つ。合掌!

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2008年5月 3日 (土)

陶磁器見学

 陶磁器の歴史は長い。取分け青磁、白磁は韓国での優れた伝統芸術である。陶磁器の歴史にはあまり詳しくないが、定年退職後は、やってみたい、道楽の一種である。さて才能がないことは明らかである。「ガラクタを作って置く場所をどうしてくれるのか」と、苦情もある。

 昨日は休みの日永を癒すために、韓国での有名な陶芸村を訪れる事にした。水原市(スウォン市)から近い(車で約1時間)利川市(イチョン市)である。隣の広州市(カンジュ市)と併せて、有名であるらしい。韓国には陶芸村はその他いろんなところにあるようだ。

 運転手の知りあいだと言う店、ここは10軒ほどの長屋の一角の店に入った。所狭しと、白磁、青磁が並んでいる。すばらしい作品が並んでいる。この店の主人が作った物がほとんどだという。所々に、近代風の陶芸もある。

 最も高価な品物が並んでいる店に寄ってみると、全く出来が違う。値段を尋ねると、先ほどの店の品と比べると、値段が100倍違う。すてきだな、と思うものは500万円の大花瓶、お茶で使う水差しでも50万円から100万円する。お茶の茶碗が、5万円は下らない。いいものは50万円する。「北」と言う人の作品である。ここでは必ずしも、磁器だけを作品にしているわけでなく、いろんな手法の作品がある。展示台の横に、籠の中に、無造作にいれられている物があり、気に入った品があったので、これが欲しいと思い値段を聞くと、5万円と言う。どうしてこんな籠に入れられているのか?と質問するとこれから片付けるのだと、そそくさと、机の中に閉まってしまった。

 人間国宝の海剛(ヘカン)の展示場を見学した。この人は、韓国で、製作が途絶えていた青磁を再びよみがえらせた有名な人らしい。今は韓国では珍しく、二代目が伝統を継続している、と言う。豊臣秀吉時代に、有名な陶芸師をごっそり日本に抑留してしまって、韓国の陶芸の伝統を壊してしまった歴史を知ると、心が痛む。

 イチョンの村は、水田地帯でもあり、美味しいお米が取れるところでも有名である。昼食は、そのお米に舌鼓をうった。ボケ爺、韓国で、やっと始めて美味いご飯を貪った。

<読書>

「フェルメール全点踏破の旅」朽木ゆり子 集英社新書

フェルメール、レンブラント、ダビンチ、となると、全く手が出ない。印象派で代表であり、その忠実さには舌を巻く。とりわけ、フェルメールの描く、女性は、表現が深い。いろんな想像ができる。一点ごとに小説として語らえるほどの表現力である。

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2008年5月 2日 (金)

重量に逆らいたい

 朝、顔を洗って、日焼けした顔を眺めていたら、少し焼けすぎに、気をもんでいたのだが、それ以上にショックが押し寄せて来た。昔からだだっ広い額が、顔の全体の2分の1をしめるに至ってきていたではないか?禿げ上がっているのかと心配したがそうではない、と分かる。それならば、どうして?よくよく観測すると、皮膚が、全体に、重力にしたがって、たれてきているのである。眉毛の位置が下がって、と言うより垂れ下がってきている。額の眼の上の骨を通り越して、たれている事が分かった。その分、まぶたもたれて眼が細くなってしまっているのである。さらには、頬は「への字」を書いている。それも、ボケ爺の率直な気持ちと同じように、素直に重力に従ってしまっている。さらに顎に、首にと繋がっている。なぜ、皮膚は素直に重力に従うのであろうか、少しは、反骨精神に従って、重力にさからって欲しい物である。

 ついでにいろいろ、観察していると、眼の下のクマが大きくなってきているのに気がつく。ここは、高脂血症の現れである、と教えてもらったのは、モナリザは高脂血症であると結論つけた医者からである。血糖値、中性脂肪も数値としては悪くないのだが?

 厚労省は最近になって、年寄りを苛める法案を実行している。後期高齢医療制度なる、奇妙な名前と法令が出来てきた。保険料を取るという。メタボリック法などができて検査が義務付けられた。さらには、ジェネリック薬を飲めという。医療費の削減と言う名目と、何時までも健康で居て欲しいと、激励してくれているのだろう、と解釈すると少しは、気が治まる。肥満は罪であり、それが出来ないと罰になるという、「罪と罰」物語が出来てきた。

 罪と罰が理解できないほど、ボケ爺はボケたいものだ。だが、これ以上ボケたくもない。住みづらくなった。

<読書>

「ながい坂」大岡昇平 角川文庫

深遠なる信念を貫く人生の美談である。ボケ爺のようないい加減な人生を歩んで来た者にとって、苦痛の読書である。人間て言う奴は、一体何者なんだろう。罪と罰が必要なのだろうか?

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2008年5月 1日 (木)

今日は休日

 今日は、5月1日、当たり前です。休日でした。多分、メーデーでしょうか?会社が、外国人に呼びかけ、スウォン市にある世界遺産の華城を案内してくれると、と言うので、参加してきた。日本人は2人だけ、インド、ロシア、中国の若者が参加していた。 

  城壁を1時間半ほど歩き、華城行宮では、民族芸能を暫く楽しんで、行宮内を見学した。とにかく、疲れた。天気が良く、真っ赤に日焼けをしてしまった。多分、出勤した時、皆に、ゴルフ焼け、と冷かされると思う。乾燥していて、木陰では涼しい風に、ホッとしたものだ。すっかり初夏である。 外国人同士は、英語での会話である。若者は、すぐに打ち解ける。インド人のヒョウキンな男性は、1ヶ月前に上海からやってきたという女性と仲良くなって、楽しそうである。

  昼食では、インド人は肉を食べないので、野菜ビビンパプを要求、違うインド人グループは何処からか、ナンを買ってきて持ち込んで食べている。ロシア人は、カルビタン(牛の骨スープ)を美味しそうに食していた。中国人は、大食漢であった。突き出しを何度もお変わりしていた。民族の特長が出ている。 

  どこの世界も、権力者は、絶対権力を見せしめるために、豪華な建物を要求する。さらには栄華を謳歌していたようである。韓国では、ソウルにしても同じであるが、西洋と繋がるところがあるのか、外敵から守る城壁で囲った中が都市である。その外は農場であったような写真が残っている。この文化は日本には強くは伝わっていないように思う。不思議である。その他の文化では、なるほど影響を強く受けているように思う。 

  民族音楽においては、楽器などは、影響があるが、音程など、かなり違っているように思う。韓国のクラッシクは、そのまま、ジャズと競演しても全く違和感がないように思えてならない。

<読者>「恋愛哲学者 モーツァルト」岡田暁生 新潮選書難しい言葉で、流暢に流れるような文章は、それで、十分に魅力的である。モーツァルトのオペラの見方、解釈に集中した解説である。モーツァルトのオペラは、18世紀恋愛の破壊者であるとする。貴族の愛は、政略であり、だから嫉妬である。市民の恋は求め合う愛である。モーツァルトはそこに、喜劇を織り込んでいるという。ボケ爺の理解の外の世界である。

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