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2008年2月29日 (金)

モナリザは?

 レオナルド・ダ・ビィンチの名画のモナリザには、モデルがいたのか?誰がモデルか?と言う論争が続いていた。あの微妙な笑みはどこから来たのか、の謎ときが続いていた。

 ついに、そのモデルが見つかった。富豪商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの夫人のリザ・デル・ジョコンドである。ハイデルベルグ大学の図書館に、1503年の書き込みが見つかったからだ。肖像画以上の意味があると言う。

 目元に隆起があることから、ある人が、モナリザは高コレステロールが貯まった黄色種ではないか?これは医学的に言えば、高脂血症で、動脈硬化で、早死にしたのではないかと、謎解きをされていた。(確か、新書版があった)

 しかし、現実には60歳以上の高齢であった。当時としては長生きしたと言うことになる。修道院で亡くなり、お墓まで見つかっている。

 悪玉コレステロールが多くても、長生きできる場合があると言う。そのためには耐酸化栄養素を摂取すればよい。手短には、赤ワインがある。さらに野菜、果物を十分に取る事である。先日、アメリカ人20人ほどとステーキハウスで食事をしたのだが、アペタイザーに、カキを注文したのはボケ爺だけで、残りは全員、何らかのサラダを取っていた。肉を沢山食べる人は、サラダを多く取るようになってきたそうだ。聞いてみると、コレステロールが気になるらしい。

 さらには、男性では、コーヒーを沢山飲んでいる人は、動脈硬化の進行が抑えられると言う。女性では、子沢山が動脈硬化になりにくい、妊娠中の女性ホルモンが高いから、と言う理由である。

 リザは5児の母親だった。ボケ爺、コーヒーを良く飲むことにしよう。胃がんにもいいといわれている。一方、カフェインがよくないとも言われる。何事もホドホドにしなさい、と言う事か?

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2008年2月25日 (月)

驚くべき賑わい

 異常な賑わいといっていいだろう。大学の町ということも在るのかもしれない。アップルストアは、大学通りも、モールの中もいずれも満員である。

 商品に触れるにも待ちが出来るぐらいである。商品はエンターテイメントあり、ITPCあり、教育用PCもあり、広い店は人の渦で狭く感じる。教育向けコーナーは店の中央にジュウタンが敷かれて、保育園児ほどの歳の幼児が、キーボードを叩き、マウスを操っている。7~8台のPCは順番待ちが出来るほどである。23歳の幼児まで、楽しんでいる。

 超薄型ノートブックPCは、実感として薄く感じ、驚く。キーボードのストロークが気になっていたが、十分なストロークが取れていないのではないか、と思っていたが、とんでもない快適な操作性が心地よい。USBなどのコネクターが見当たらない。アレー、欠陥か、と思ったが、とんでもない、フタがスムースに開き、十分である。ディスプレイはかみそりのように、驚くほど薄い。「手の感覚」の驚きの喜びがある。アップルの商品は誰もが「触ってみたい」のである。「操作を楽しみたい」のである。触感で技術の革新を実感できる。

 いまや、最先端の魅力ある技術は、「ジョブスのアップル」から、とすっかり定着した。軽薄短小の日本のお家芸はすっかり奪われてしまった。後になってみると、誰でもが、誰でも出来たのに、という。そんな人は、技術に、将来の感性を、組み込むイノベーションは、適わないのでは、と思う。

今回の超薄型だって、どこだって取り組んでいたはずである。開発には、2年は要するだろう、が、PCの世界では、2年先を見て、開発できるほどの度胸が無いのが本音である。6ヶ月の商品サイクルだから目先の改善にしか決断できない。革新の開発リードタイムの確保を出来る人がいないのである。

ボケ爺は「革新とは我慢だ」と思っている。革新技術、イノベーションには、「熟成期間」が要る、と思っている。さらには、将来を見つめる感性が必要だ。「動向データ分析」や、「顧客の顔を見る」のではない。直感の感性である、と断定できる。

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2008年2月24日 (日)

つくづく、手を見つめると?

 今回の出張中は、良く手を眺めていた。どうしてだろう。

 その結果、つくづく、歳を感じる手であった。カサカサでシワだらけ。親父のことを思い出してしまった。冬場は手足が冷えると、股引と、靴下には、これ以上分厚いものは無い程のものを、お袋に要求していたのを、不思議に思っていたが、ボケ爺も、今になっては、その気持ちが分かるような気がする。手足が冷えを感じるようになってきたからだ。だからと言って、ボケ爺は温暖化の昨今、股引も、分厚い靴下も必要とはしていない。

 特に、シワが気になる。細かいシワで、これ以上増えることができないほど増殖していたからである。歳を観察するには、首周りのシワ、目じりのシワ、と言うようにシワなのだ。皮膚の内筋肉が衰えるのか、皮膚が必要以上に増えているのか。残念ながら、手のシワは、歳には逆らえないようだ。

 手には不思議な観察を許している。動物の本能は生殖機能が備わっている。いい遺伝子を残したいとの欲望を伴って。その基本がシンメトリーであると言う説が有望である、という。シンメトリー性の表現を、人間の場合は、手に最も良く供え、表れているらしい。異性が、特にメスはオスの手が気になる、と言う。動物によって、オスのシンメトリーのディスプレイはいろんな部材があるらしい。

 デッサンの初歩では、手を描かせる。それほどに、機能的なデザイン表現が手にはある。近年のデザインには外観の美しさ以上に機能美を織り込まなければならない。そんな意味で、手はデザインとしてよく出来ている、と思う。

 ボケ爺、美しさは望めないが、せめて機能美としての活動はこれからも訓練していきたい。

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2008年2月23日 (土)

テニス留学が実績を?

 一週間か前に、「18歳で、デルレービーチ国際選手権で優勝する」、と言う記事が出ていた。松岡(当時、24歳)以来、16年ぶりの快挙だそうだ。ランキング244位の錦織圭選手である。当然ジュニア時代から逸材であったようである。(先日のツアーでは、負けたようであるが)

 強くなるためには、日本国内では、無理である、と言う例がここにも現れた。やはりレベルの高い国は、レベルの高いコーチに恵まれる。特にアメリカは、指導するために、特別の訓練も受ける、と言う。特にメンタリティの件で。話題のスケートダンスも、海外コーチに頼っている。

 ボケ爺の言いたいことは、簡単である。「優れた結果を残すためには、レベルの高い指導者に恵まれることである。」全ての分野において成り立つのではないだろうか。そんな指導者を探すと、海外留学となることは一つの方法である。他には、良い指導者を招くことである。日本はどうもここが下手であるらしい。自分より出来のいい人を招くことに抵抗があるからだ。そこが日本のアキレス腱である。

 明治維新以来、昭和の初期までは、海外からの良き指導者を受け入れて成功していたのも明らかである。

 いずれの方法にしても、遅まきながら、大いに推進しなければならない。海外留学も、もっと増えなくてはならないし、良い指導書も、招聘しなければならない。

 目的や、夢は単純な方がいい。「勝つ」「やるからには良い結果を残す」と言う問題意識が、若者の元気の源となるであろう。今は、単純な目標を複雑に考えすぎて、気力をなくしていると思う。複雑にしているのは「競争」を非難することから始まっている。競争は生物(人間を含む)の本能である。だから生きていける。「嫉妬」は人間の本能である。清い嫉妬が「勝つ」と言う精神でなければならない。今になって、ボケ爺は「競争」に、いささか淡白で、勉強を怠った付けに悔やんでいる。トホホ!

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2008年2月22日 (金)

ご飯の炊き方の思い出

 新聞の広告に、「究極のご飯鍋」なる、宣伝が出ていた。特殊に工夫された、陶器鍋である。ポイントは、土の材料と、重い中蓋を設けたこと、にあるという。この鍋は、一人分となっているので、1合か、1合半程度であろう。ガス火で、「火加減は全くいらない」と言う。IH電子釜より、はるかに美味しいと言う。同じような品物で、電子レンジで炊けるのもある。

 ボケ爺が興味を引いたのは、一人暮らしをしているからではない。「火加減がいらない」と言うことに、興味を覚えるからである。電子釜での、宣伝の多くは、センサーによって、きめ細かく制御しているから美味しい、と言うことが宣伝文句になっているし、一般にも、その火加減により美味しさが違うと、納得しているはずであるからだ。

 ボケ爺は、勉強が苦手か、モトモト頭が悪かったかで、勉強が出来なかったことから、母親は、ボケ爺に、飯炊きを命じた。覚えている年は小学校3年生時代から、6年生までやらされた。この間70%の夕食のご飯は、自慢できないがボケ爺が、家族のため、お客さんのために、供給し続けた。

 その頃は、土間に鎮座したカマドであり、薪であった。「始めは強火で、中パッパ、子供が泣いても蓋取るな。」と教わった。水加減の難しさは、言うに及ばす、やはり火加減が最高に難しい。とにかくいろいろ工夫してみた、が結果はそれほど褒められることは無かった。くさされる方が多かったと思う。

 その頃は、それだけではなく、美味しく炊ける道具が提案された。噴出さないように、「重い鍋蓋」「むしろ蒸気を逃がす、今で言う、圧力釜の安全弁の付いた鍋蓋」「鍋の中に横穴の開けたパイプを数本入れる、パイプセット」など売られてきた。ボケ爺は、新工夫された商品が出るたびに、購入して、試みた。結果は、やはり、水加減のブレの方(お米の状態において)が美味しさには影響が大きかった。

 もし本当に、火加減がいらないならば、「究極のお米鍋」である、と思う。しかし、疑問が残る。もし本当なら、大きな鍋も用意をして、自信を持って、売り出せばいいと思うのだが?

<読書>

「モテたい理由」赤坂真理 講談社現代新書

実に、しっかりした分析であり、論説である。「男の受難、女の業」と副題が示すように、「業」が「技」でないところに皮肉がこもっている。女性雑誌とは、実に怖いものである。時代を先行せしめて、女の心理を「業」と言わせしめる、のだから。こんな文章が書けるのは、男的であり、内容は女性そのものである。だから、男は受難の時代になっている、と思う。

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2008年2月20日 (水)

トランジェントが好き?

 海外出張には、ハブ空港に降りて、乗り継ぎをすることが多い。そんな時に、待ち合わせ時間が結構長く、時間つぶしに工夫が必要である。そんな乗り継ぎは無駄な時間のようで、使い方によっては結構楽しいものである。結構リラックスが出来る。ボケ爺は、そんな無駄な時間が好きである。

 今まで多少の経験をしてきたが、結構、トラブルが起きる。必死に交渉する時に、下手な英語が、思わず通じることがあり嬉しくなる。遅れることがあったり、キャンセルがあったりで、さまざまである。必ず何らかの交渉が必要になる。

そんなことから、ボケ爺は、手荷物は機内に持ちこくことに決めている。元祖カート型で機内持ち込みのバッグは、ハートマンから発売された。17年ほど使った。無理をすればもう3年は使えただろうが、チャックが磨り減ってしまったからである。泪ながらに買い換えた。絶対持ち込みに限る。荷物が、どこかにいってしまって困ったことは、数々あった。見事に最後には出てくるのだが。

 待ち時間を、ラウンジで過ごすこともあれば、店を冷やかしに回ることも、また楽しい。本など、その国、その地域のヒット作品が良く分かる。CDなども同じである。ブランドショップは何処でも同じであり面白くない。特別割引があるときは別であるが。

 今回の第一回目は、乗り継ぎ時間が少なかったので、ラウンジで休むことにした。その時は、40分の待ち合わせで、定刻通りと表示されていた。時間が来たので、表示板を確認すると、45分遅れとなっている。その時点で、待っている人たちであろう人々は、ソファーで眠りモードになってくる。文句を言う人は何処にも居ない。諦めているのである。その後、ずるずると遅れて、次の便の時刻と、7分違いまでに迫った。アレー!嫌な予感がする、キャンセルになって、次の便と一緒になってしまうかも知れない。(何度か経験をしている)そうすると今頃、座席指定を変更する手続きで混乱しているのでは、とゲートまで急いだ。こんな時は悪いことが続く。最も遠くの奥のゲートであった。静かであり、混乱は無かった。ボケ爺だけがゲーゲーと荒い息づかいである。2時間半の遅れとなった。(前の便は、成田でレーダーシステムがダウン、機内で、1時間半待たされた、と言うのに)ボケ爺にとっては疲れるが、英会話の勉強と思えば、諦めも付くものだ。

<読書>

「象の背中」秋元康 扶桑社文庫

こんな人生に憧れる。このような死に方がしたい。死に立ち向かう想定に抜けが無い。ボケ爺は決して、延命治療は受けない。ボケ爺の人生の通知簿はどんな仕上がりになるのだろうか。思わず身に迫る迫力のある構成であり、文体である。

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2008年2月16日 (土)

寒い~!

 とにかく寒い。ここ3週間ほど、住居を構えた水原市はソウルより1~3℃低い。毎朝、マイナス5度以下が続く。最高で、マイナス12℃を経験した、昼間でもマイナス3℃である。昼間が3℃を越す事がない。

 今日は土曜で休みである。娘の残していったパーカーを来て、スタジアムにランニングに出かけたが、やはり寒い。こんな日は、家にこもって読書が似合う。

 「行きっぱなしの記、私の履歴書」阿久悠 日経ビジネス文庫を一気に読み上げた。実に文章といい、構成といい、うまい。すばらしい。詩歌だけが、ずば抜けているのかと思っていたら、小説もいろいろ書いて、直木賞候補までなっているという。

 しかし、何故ここまで、過去の事を覚えていられるのであろう。ボケ爺は人の名前など、自慢ではないが、「ホレ、アレ、ソノ」で、出てこない。そこに無名モノとの差があるのだろう。それにしても、良く働いている。戦後の日本の人たちはこのように良く働いた。決して裕福に、偉くなりたいからではなく、有名に成りたいからではなく、がむしゃらに働いた。阿久はそれ以上である。首題の「生きっぱなし」とは、あなたは3日前に死んでいますよ、といわれるまで、減速することなく人生を走り向けたいからだそうだ。先輩たちの一言に、心がしみて、それを実現したかったのだ、という。良く出来る人は人の交流が多い。

 「正直な人がいなくなった」「清潔な人もいなくなった」「美意識が笑いものになる」「忍耐は軽蔑される」「親切は舐められる」「社会は皆人のせいにする」と、21世紀になっての死の前に、言い残している。時代の変化がよく見えた人なのだ。

 「沢山の言葉を持っているといろんなことが出来る」といっている。「美空ひばりによって完成された流行歌の本道と、違う道はないか」を一生の課題にしていた、と知って驚くとともに、創造性の基本の基本を言い当てていると思った。

 ボケ爺の創造性の基本は?無い?秘密?

<読書>

「清らかな厭世」阿久悠 新潮社

言葉をなくした日本人へ、という副題がついっている。阿久のラストメッセージである。「格言、蔵言、警句」のアフォリズムである。今日は、「今」と「自分」以外の思考が出来なくなっていると嘆く。大人たちにも警告する。努力と英知で生まれてきた言葉を、語ろうとせず、沈黙という無責任に逃げ込んだ結果が、若者に生き方を見えなくしている、と。産経新聞に連載さられた物である。

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2008年2月14日 (木)

日本は沈没する

 年を取ってボケてくると、刺激が欲しくなる。「日本は沈没する」榊原英資 朝日新聞社は売れているようだ。これまでにも過激な本があったが、カネの話が多かった。今回は日本という国を論じている。日本を離れて日本を眺めると、このままだと、どんどん、下落すると思う。現に、統計的には、頭脳能力にしても、経済力にして、見事に落ちている。

 この本の特長は、没落の理由をわかりやすく解析している事である。それも、他国、インドから見ている。(ボケ爺は韓国からだけれど)危機を訴える人は沢山いるが、日本内から発言だったり、米英からの発言だったりして、うまく分析が出来ていない。

 第一の指摘は、バブル前から、「技術で確実に負けた。」資源のない日本で、技術をおろそかにした付けが回ってきている、と主張する。資本=金融、と、米英の真似をしてしまった事にある、という。エネルギー、食料の自給率は下がる一方で、他国の情勢に脅かされている。エネルギーについては、やっと本格的な調査船を海外から買ってきて、調査に乗り出した。何故日本の技術で早くからしなかったのか、真に疑問である。バイオエネルギーで、5%のエネルギーを確保することは、出来ないことは明らかであるが、食料の高騰を招く。これらの技術も遅れてしまっている。CO2削減技術で先端を要っているといっても、日本自身が削減目標を達成する事は出来ない、と断定する。技術の進歩が追いつかないからだ。つまり技術がない、技術で日本は大変な遅れを伴ってしまっている、と思う。中国では常任委員が、90%が理科系だという。

 その基本は、平等主義にある。「競争を否定したからだ。」競争する事を忘れてしまったのだ。格差が無ければ確かに競争しなくてすむ。適度な格差が無ければ、日本は滅ぶ。資源のない日本は、教育して、頭脳能力で、競争するより方法はない。お隣韓国は、特に教育熱心である。英語力にしても、大学を出た人はほとんどの人が話せる。インドもそうだ、という。優秀であり、がむしゃらに働く。それが当たり前と思っている。

何時の間に、日本は無気力、無責任がまかり通るようになったのか。

 戦略があれば、教育に一番力を入れたことであろう。カネで勝負できる時代でもないし、そんな国力はない。バカなボケ爺も考えている。

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2008年2月11日 (月)

 思考の補助線

 ここ暫く、難しいことを考えている。発想の暗礁に乗り上げているからであり、思ったように、面白い考えが現れないからだろう。朝日新聞だったかの、経済欄に「補助線」のコラムがある。内容は、いつも補助線からはかけ離れている。

 そもそも補助線とは、幾何学から来たのではないかと思う。正解を得るために、一本の線を引くと見事に解が求まる(複数本のときもある)、そんな補助線は、決してそのものでは思想にはならない。思考を考える、あくまでも補助である、と思っている。そんな補助線があると、ボケ爺でも、難解な問題がすっきりと解決できると期待する。見事な創造が生まれることを期待する。期待はボケ爺だけではないないだろう。

 「思考の補助線」茂木健一郎がちくま新書から発売された。そんなノウハウ本として期待してすぐに読もうとしたが、難しすぎて、理解が出来ない。どこにも補助線らしきものが現れない。失望した。しかし、思想書としての中身は大変濃くて、良い著書である。今の気になる理系の思想家としての役割は立派に担っている。(茂木に相当する文系の思想家としては、福田知也がいる。)

 そこで、大胆にボケ爺が、茂木健一郎が言いたかった補助線をまとめてみた。

1)     困れば、質問でき議論できる友を持ち、コミュニケーションをするべし。

2)     現実の課題に、「仮想の解決策を作り」その「仮想」をスケープゴーどにするべし。

3)     曖昧を曖昧のままにしておく寛容性を持つべし。

4)     サブカルチャーを持つ。専門とは違う分野の基礎を勉強すべし。

5)     課題と関係しない、あえて違う分野の経験に時間をつぶすべし。

6)     自由奔放、天真爛漫であるべし。

7)     自己を徹底して批判し、厳格であるべし。

8)     散文的な展開をし、それを批判的に思い出す事を楽しみとすべし。

9)     何事にも怒りをもって、批判すべし。

10)不協和音を好み、可能無限の夢を考えるべし。

ご批判あれ。

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空白は2次元、3次元、無限か

 悩みの一つには、価値創造を脅迫的に迫られている、ことである。企業の生き残りに、価値創造が必然だからである。昨日に引き続いて、発想、想像力を得るために、どうすれば良いのかが、課題である。モトモトな鋳物を作り出すのは大変である。

 「空間」が一つの解となるのではないか、と考えてみた。「音と旋律が生み出す連続の中の空間」、黒のバックを消したあとの「白の作り出す空間」は、思わぬ遇有性に補助線がある。

 空白という言葉が浮かんできた。空白は2次元の世界か、3次元なのか?時間経過を含んだ4次元でもあるのか?空間は明らかに3次元だと思う。空白とは無限を含んだ4次元だと思う。

 価値とは、無限である。無限はクアリアである。クアリアをデザインする。デザインが価値を生む。今のデザイン性は表皮的な形だけではないようだ。デザインの定義が塗り替えられている。機能という概念を加えなくてはならない。そこに興味がある。

 デザインが価値を生むのであるなら、クアリアを研究しなければならないことになる。クアリア、つまり五感の感動であるという。「可能無限」を追求することになる。しからば、「空白」を埋めていく、俯瞰していく「何か」、を見つけなければならない。

 ボケ爺はここまで!これ以上はボケていて、考えることは出来ない。確かに、無限の可能「空白」を考えることが、解に近いことは確かである。それには「空白」が思考の補助線になることも確かである。

 ボケ爺は、昨日、深酔いをして、記憶をなくした「空白の時間」に恐怖を抱いている。何を喋ったのか、何をしたのだろうか、を思い出そうとする努力程度しか補助線を生かせない。トホホ!

<読書>

「氷葬」諸田玲子 文芸文庫

面白いミステリー、と一言。

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2008年2月 9日 (土)

沈黙の重要性

 最近、発想力の減退が目立つ。モトモト、そんなに発想力がある方ではない。だからそんなに悩む必要も無いのだが、ここに来て、企業の存続は、やはり商品の差別化、付加価値化の発想が生命であるとの実例が続いている。

 どうして、発想が乏しくなったのか、思考の補助線がなくなっているのかも知れないと、悩んでいた。そうではなくて、「耳を澄ます」ことがなくなっているのではないか、という疑問が湧いてきた。ひたすら、喋ってばかりいるように思える。皆に「浅い考え」を聞いてもらい理解してもらうために、ひっきりなしに喋っている自分に気が付いた。「聴く」事に専念していないのだ。理解を求めるだけになっている。「沈黙は金也」という。

1)質問に対して、何人にも沈黙(黙秘)の権利がある。自己防衛権ということか?

2)対話は解決をもたらさない。永遠に平行線か、理解度は離れるばかりである。人間関係の理解には、非ユークリッド幾何学は成立しない。沈黙が唯一の解となるということか?

 それ以外に、遠藤周作の「沈黙」という作の世界もある。

 男と女、仕事上の共感、生きるということは「不協和音のシンフォニー」と言う事か?すばらしい発想は、不協和音でもあるが、「音がしない空間」を知った時の体を駆け抜ける戦慄は何なのか?音がしないことが分かるまで、耳を澄まして聴く、徹底して聴き入ることになる、と思ってきた。

 クロッキーでもそうだった。黒く塗りつぶしては、消してみる。「消された空間」に美の驚愕に頭脳で共振して手が、足が震える感覚を味わうことがある。

 そうだ「沈黙は芸術の空間と等価」なのかも知れない。

<読書>

「すべては音楽から生まれる」茂木健一郎 PHP新書

生命の躍動は音から来るという。ときめきが肝心という、絵画にも、文学にもときめきはあるが、音楽が最高という。つまり「旋律は戦慄」という。クオリアは無限の感覚にある、という。モーツアルト効果の「喜びの高揚」から、シューベルトの不協和音の「人の苦悩の味」がすべてである、という。

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2008年2月 8日 (金)

諦めのボケ爺

 前回は、ボケ爺の三訓など偉そうなことを言ってしまったが、そもそもそんなことを悟っている訳ではない。いささか受け売りで、格好良く言ってしまった、と反省している。

 今日は、ボケ爺の本音で、前回の三訓を補足しておきたい。

1)     どうせ死ぬ身、死が迫ったので、投げやりが好い。

2)     どんなに努力しても、運の作用でその努力は吹っ飛ぶ、だから程ほどに。

3)     どんなに真面目でも、悪い奴が威張るし出世もする。真面目な奴は高血圧で早死にすべき。

4)     孤独に耐え、孤独を好むべし。

5)     変人で在るべし、変人を喜ぶべし。

6)     媚びることは決してしない、を愉しむべし。

 いよいよ、ぐれて来た。ボケ老人(ボケ爺)バンザイ!

 真に孤独で、変人になれば、きっと長生きできる。長生きして、悪い奴らに嫌味を言い続けようと、考えているのが本音である。努力してはいけないし、真面目であってはいけないが、愚痴ではなく「嫌味」を放言し続けるためには、努力もし真面目でもありたい。

<読書>

「髭麻呂」諸田玲子 集英社文庫

キャラクターが面白い。まるでルパン三世かのようである。著書は頭がいいのでしょう、平安時代の歌をもじってみたり、漢詩をもじってみたり、文章、言葉に詳しい。

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2008年2月 4日 (月)

ボケ爺の三訓

  ボケ爺は誰が何を言っているのか、理解できなくなってきている。だから本当にボケた、と不安になることがある。理解できていない、と確証できるので、まだまだ、ボケていないと、不安になることがある、今日この頃である。

 元気なボケ爺は疲れてきている。さてどうすれば元気になるか、三訓を実行していこう、と思う。

1)     「人間嫌い」、を徹底しよう。

 若者に、部下に、迎合しすぎていないか?親切にしすぎている、と実感できる。上司の機嫌を伺っていないか?もう上昇できないのだから、「諦めが肝心」であるのに、まだまだそこまで割り切れていない。分かってもらおうと、努力はしない。

2)     「優柔不断」、を進化させる。

 白黒の決着はつけない。何時までも、何処までも、結論は出さない。あれもこれも正しいと、思い込む訓練が必要である。笑顔を忘れず、「ボケた振り」をして、何度も聞き返し、何度も説明させる楽しみを趣味とすべき。「とりあえず、とりあえず」の繰り返しを大好きになろう。

3)     「ぐれる」、何事にも、逆の行動を取ってみよう。

 ふてくされる、とも違うが、「何言っているのだ!」と開き直る術である。何事も開き直ってやろうではないか。逆の行動を、逆の考えを提案して、相手の苦渋の顔を眺めることを楽しみとする。

 つまり、「しなやか」「したたか」「おだやか」であることが、ボケ爺の三原則と言う事である。これが実行できると、老人力が出てきて、人が頼ってきてくれる、と賢人は言う。オット、そんな格好を気にするから、生きるのが辛くなる。この三原則は忘却すること。ならば、老人「ならず者」と成れるのだ。

<読書>

「山流し、さればこそ」諸田玲子 角川文庫

山流し、とは左遷のことである。江戸時代は現在のサラリーマン社会と極度に類似している。出世街道で、負けると左遷される、はいずれの社会も同じである。そんな悲哀の中で、生きがいを求めながら、ぐれたり、ならず者になったり、事件に巻き込まれながら、世捨て人の人間味をうまく描いている。

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2008年2月 3日 (日)

冷凍食品薬物中毒事件

 来る時が来たと思う。いずれかは、何かが起こるであろう、と。今回の餃子で、直接の薬害はメタミドホスという有機燐酸系であるという。その被害者は、10人であるという。しかも、ここに来て、中毒現象を起こしている人は1000人とも言われている。

 報道、調査に、疑問が沢山ある。どうして、日本人は理論的でないのか?

1)     その後の検査で、検出されたというけれど、どんな状態だったのか?つまり、餃子は一個一個バラケている。(1)それぞれ個別全部から同じように検出されたのか?(2)兵庫、千葉の製造日時はどうなっているのか?同じロットといえるのか?(3)その近く(同じロット)の、回収された餃子は、検出されたのか?

2)     10人の餃子中毒と、その他との関係はどうなっているのか?その他、1000人ほどの症状の内容はどういうことになっているのか?相関があるのか?

 など、ボケ爺には、何故、このような簡単な相関が説明されないのか?全く理解できない。やっぱり中国製だからと、全ての中国製品を回収とは、少々ヒステリックである。これが日本人の品性と言う事か。

 もっと、理論的に考えて行動して欲しい。工場生産は、製造工程を理解すれば、もし、薬剤が混入するとなるとどんな製品が出来てくるかわかるはずである。分析ももっと緻密に考えて欲しい。

 ボケ爺は、これを機会に、食文化を考えていかなければならない。冷凍食品は便利であるが、ここまでも海外に依存しなければならない日本の「何事にも無関心」が無責任を生んでいる。これで将来は大丈夫か?これ以上の金満主義は捨てなければならない。人も、企業も真の豊かさを、再考する時である。

<読書>

「こんちき」諸田玲子 文芸文庫

正直、前著の「あくじゃれ」よりは出来がよくない、と思う。それにしても発想がいい。ミステリー性が少なかった。

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