勉強不足がたたる
台風の接近で、朝から雨である。昨日、早朝の、京都からの帰りの新幹線の中から見た、冨士の裾野から、三島までの風景で、谷間の家々まで、雲(霧)に覆われて、深秋の優麗は、この前兆であったか。
教養とは、極々常識があるということであろう。普段の道徳観、倫理観と言うことではないでしょうか?我輩は教養不足に嘆いている、このことは前回のブログで辱めも無く、暴露してしまった。それ以前に嘆かなければならないことが分かった。「勉強不足」である。
コミュニケーションとは、なんだろうか?「伝達できる」「理解できる」はどんなことだろうか?「話し方」が全てである、と言う人が居る。美しい、すばらしい理論の文章、文体では、7%しか伝達、理解させられない、と言う。残りは、表現力、つまり、イントネーション、アクセント、音声、強弱、間合い、などが、33%、残りは、なんと、身体言語(身振り、表情、姿勢など)の非言語コミュニケーションであると言う。これが「マレービアンの公式」と、すでに、公式まで出来ていた。勉強不足である。
この公式を当てはめると、ボケ爺は、顔は醜い、声は高めの不透明声、アクセントは?間合いは?などなど、挙句の果てに、短足、デブ腹、老臭、ハゲ、美的センスも無い。これでは、コミュニケーションはままならない。当然の帰結となる。さて、これからどうする?
夏目漱石は、英語はもちろん良くできる。そのほかに、漢語に秀でていた。さらには最近、漱石の俳句を見直そうと騒がれている。さらにさらに、漱石は無類の落語好きであったという。特にこの、落語がいいらし。漱石は落語を芸技だ、と言う。漱石の小説の高い評価は、このような、多角の研究、勉強が、功を奏していると思える。
しまった、このボケ爺、落語を勉強しておけばよかった。週一回の笑点の30分では、投資が少なすぎる。今頃、「勉強不足」を嘆いても、後の祭である。トホホ!
<読書>
「夢のもつれ」鷲田清一 角川文庫
表題の「夢のもつれ」がすばらしい。なんとなく人生の清華が覗える。「行為に身体的プロセスを忘却して、自己意識から外れると、日常の「私」とは何かかが、揺らぎ始める。それが夢の中で、夢のようにもつれてくる。」と表現できる良書の一冊である。ここでも「勉強不足」」を舐め、叩きつけられる。引用する文献が並みの数ではない。どうしてこんなに勉強が出来るのだろう。
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