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2007年10月29日 (月)

とりあえずビールと、畳長に!

 森のテラスには、昨夜の嵐で、緑の葉っぱの付いた小枝が、痛々しく散らばっている。そこに、赤い実の小枝も落ちている。これは絵になる。しかし、赤い実の木は、この近くには見当たらない。多分、ご主人の気配りであろう。

 畳長性という言葉を知っていますか?「冗長」と言う言葉は知っていたが、「畳長」という言葉は、この歳まで知らなかった。近年、冗長と言う意味が、冗談では済まないほど、重要になってきて、冗談じゃないよ!と言うことから、畳長という漢字に変わりつつあるそうです。「Redundancy」と言う英語訳は同じ、であると言う。

 先日、非言語コミュニケーションが90%ほど必要で大切だ、と言う話をしました。「思い」を伝えるには、ロジックだけではない、と言う訳だ。仲間で呑みに行くと、最初は、「といあえず」と言う枕詞を言う。これが、場を和ませる「畳長」な言葉だと言う。

 日本には、短歌、俳句などで、枕詞、掛詞など多くの「畳長語」を使うと言う。特に、落語は、ジェスチャーだけではなく、余分な言葉(レトリック)が多いそうだ、それが笑いを誘うと言う。

 畳長性には、同じコトを繰り返す、複数回線で伝える、文字を選りすぐる。すでに知っていることを伝える、の四種類になると言う。

 ボケ爺は、入社したての頃、メモリーの仕事に携わっていた。正しく記憶するために、余分なビットを使う理論を知った。まさに、畳長性があるといっていた。日常会話も、小説も、この畳長をうまく使うことで、伝わり方がまるで違うと言う。ボケ爺に抱えている、冗長性、否、畳長性を、考えて魅了しよう。

<読書>

「<畳長さ>が大切です;哲学塾」山内志郎 岩波書店

無駄を救え、効率一辺倒からの脱却のために、と帯にはある。岩波の哲学塾シリーズの一つである。ここでは、畳長となる、無駄が、伝達に大いに役立っていると言う、哲学的考察である。哲学もこの畳長が大切であり、畳長が研究の対象となるようである。

 シャノンや、ウインナーなどが、哲学者といくつモノ議論をしていることも新鮮であった。制御手法も哲学だと言う。生物の機構には無駄が多い。免疫細胞には60%以上もの無駄な細胞が見つかっている、と言う。RNAにいたっては、無数にどんな働きをしているか分からないたんぱく質が居ると言う。

 ボケ爺の関心のある、独創性、これとて、無駄な行為、つまり「畳長性」の量で、決まると言われりゃ、冗談にせよ、「畳長」を好きになる。実際に、畳長な生活ができるかは、この歳になって、心配だ。多読は、このような良書に恵まれる。これも、畳長性である。

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2007年10月27日 (土)

勉強不足がたたる

 台風の接近で、朝から雨である。昨日、早朝の、京都からの帰りの新幹線の中から見た、冨士の裾野から、三島までの風景で、谷間の家々まで、雲(霧)に覆われて、深秋の優麗は、この前兆であったか。

 教養とは、極々常識があるということであろう。普段の道徳観、倫理観と言うことではないでしょうか?我輩は教養不足に嘆いている、このことは前回のブログで辱めも無く、暴露してしまった。それ以前に嘆かなければならないことが分かった。「勉強不足」である。

 コミュニケーションとは、なんだろうか?「伝達できる」「理解できる」はどんなことだろうか?「話し方」が全てである、と言う人が居る。美しい、すばらしい理論の文章、文体では、7%しか伝達、理解させられない、と言う。残りは、表現力、つまり、イントネーション、アクセント、音声、強弱、間合い、などが、33%、残りは、なんと、身体言語(身振り、表情、姿勢など)の非言語コミュニケーションであると言う。これが「マレービアンの公式」と、すでに、公式まで出来ていた。勉強不足である。

 この公式を当てはめると、ボケ爺は、顔は醜い、声は高めの不透明声、アクセントは?間合いは?などなど、挙句の果てに、短足、デブ腹、老臭、ハゲ、美的センスも無い。これでは、コミュニケーションはままならない。当然の帰結となる。さて、これからどうする?

 夏目漱石は、英語はもちろん良くできる。そのほかに、漢語に秀でていた。さらには最近、漱石の俳句を見直そうと騒がれている。さらにさらに、漱石は無類の落語好きであったという。特にこの、落語がいいらし。漱石は落語を芸技だ、と言う。漱石の小説の高い評価は、このような、多角の研究、勉強が、功を奏していると思える。

 しまった、このボケ爺、落語を勉強しておけばよかった。週一回の笑点の30分では、投資が少なすぎる。今頃、「勉強不足」を嘆いても、後の祭である。トホホ!

<読書>

「夢のもつれ」鷲田清一 角川文庫

表題の「夢のもつれ」がすばらしい。なんとなく人生の清華が覗える。「行為に身体的プロセスを忘却して、自己意識から外れると、日常の「私」とは何かかが、揺らぎ始める。それが夢の中で、夢のようにもつれてくる。」と表現できる良書の一冊である。ここでも「勉強不足」」を舐め、叩きつけられる。引用する文献が並みの数ではない。どうしてこんなに勉強が出来るのだろう。

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2007年10月26日 (金)

教養不足がたたる

 今、18時、京都駅ビルの伊勢丹の階段広場の頂上に居る。竹林公園がある。黄色の照明の傘の下はカップルで満たされている。東の空には、満月(?)から、雲が遠ざかって行く。扇型の屋根、渡り廊下、すばらしい造型である。はるか下向の階段の踊り場には、「花と風景のコラボレーション」と言うイベントが、いけばな嵯峨御流主催で開かれており、オカリオの第一演奏家である「宗次郎」が郷愁を誘う、もの悲しげな音色で、演奏されている。ゆっくりは味あうことは出来ない、18時半から仕事が始まる。

 その仕事は、むなしくも人を説得しなければならない。説得など出来る訳が無いのに、証拠にもなく繰り返す。この歳になって短時間での即興リーダーは非難を山ほど浴びている。ボイコットまでの憂き目に会っている。ボケ爺は元々偏コツだから、偏コツな奴らとは合わない。ボケ爺の偏コツは皆が言うから間違ってはないのかもしれない。実は、ボケ爺自身は偏コツだとは思っていない。

 「ひつこい」は、理解が足らないのだろう、と念を押すと、言われる。「細かすぎる」は、具現化しないと実行できない、と思うから指示すると、言われる。「それはどんな意味だ?」と聞くと、「直ぐに、なんでも否定する」と非難される。話の仕方が、「威圧的だ」とも言われる。何でもかんでも非難されて、最近、気が狂ってきた。

 そんなことを言う奴らは、仕事の出来が悪かったり、遅れたりすると、直ぐに、ボケ爺のそんな行動を非難して、一向に「自分に難」があるとは認めない。全ては「自分が正しい」の自己中心からの発想らしい。

 ボケ爺は、真面目一筋であったから、叱られるのは、この自分が悪い、と思ったものである。ボケ爺の「勉強不足」と考えた。だから、恥を忍んで、誰にでも聞き回って、簡便に知識を吸収した。しかし時代は違ってしまったらしい。理解できないのは、「お前の話の仕方、教養が足らないからだ。」との論理が、今の教養らしい。

 ボケ爺、今になって「教養不足」に、嘆いている。今更、勉強して身に付く訳が無い。教養不足がたたってしまっている。

 年とった女性が「他人がどう言ようと、知ったものではありません」と言う教養は、どうしたら身につくのか、教えて欲しい。

<読書>

「妻と罰」土屋賢二 文芸春秋

危険、猛妻が居ます、と、帯に書かれている。「彼方が何を言ようと、私に逆らうことになります。」「逆らうことは許しません。」こんな論理に従わなければ、危険が一杯です。生きていくことが困難です。男の早死は、こんなストレスからですよね、土屋教授殿。

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2007年10月25日 (木)

アメリカンフットボールのTV観戦

 海外では見るTVが無い、言葉が分からないので面白くない。スポーツ観戦は想像でき単純である。この時期、アメリカンフットボール(NFL)が面白い。監督管理の下、作戦が決め手となる。いかにもアメリカ的、戦略好きな管理社会の産物である。しかし面白い。

 最も重要な作戦内容は、「選手の特長を良く知った上での戦略」であり、「選手を取り替える戦略」でもある。前者は、ありきたりであるが、後者は、難しい。多くのスポーツはこの、「選手の適用の仕方」で勝敗が決まる。サッカーにしても、勝敗の評論は何時も「選手の起用の仕方」に集中する。野球、バレーボール、にしてもしかり、である。

 スポーツという、特殊な世界だからではないと思うが、こんな組織運営は難しいと思うけれど、結果が明確に出るから、プロとしてのスペシャリストとの自覚が、選手は覚悟を決めている、と思う。この世界で大切なことは、人材の流動性である。

 企業の組織も、リーダーが、自由に、部隊の人材を取り替えることができると、もう少し成果の出方が変わるかもしれない。特にアメリカのような企業運営ができると、日本の企業の活気も出るのかも知れない。世の中で言う「成果主義」である。日本は、この成果主義を取り違えているように思える。その為に成果主義を非難する人が多い。それは、組織を固定して、賃金格差をつけることに重きを置いている。賃金格差ではなく、部隊の戦力強化のための、人材配置に活用すべき、人材管理に重点をおくべきであろう。

 スポーツの世界のように、選手を交代させる、という行為は日本では出来ない。しかし、これからは人材流動化を考慮できる組織運営を考えなければならない。単純にいえば「部下の取替え」である。追い出す、と言っている訳ではない。

 こんな考えは過激であろうか?ボケ爺、この歳で、まだこのような生臭いこと考えている。止めよう。

<読書>

「部下は育てるな!取り替えろ!!」長野慶太 光文社

過激な表題であり、内容である。ボケ爺と同じようなことを考えている。後半は平凡にすぎ、退屈である。前半を良く読解してもらいたい。

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2007年10月24日 (水)

サイエンス・リンケージ

 サイエンス・リンケージなる言葉がある。特許一件当たり、研究論文を何件引用したか、つまり、最先端科学が、どれほど、技術に応用されたか?を知る指標となる、統計値のことである。この値が、大きいほど技術は先端的で、革新的創造的であるかということになる。この値が大きい方が、より先端技術の開発が行われているか?という、指標にも繋がる。

 日本は、特に最近は伸び率が低下しており、2006年では、アメリカの16%にとどまっている。英国の17%、フランスの23%、とダントツに少ない。日本の特許数はそんなに少なくは無い、と言う事は、日本は、技術の改良特許が多くて、昔から言われている、「改良型、実用化技術」に集中していることになる。この形は昔から言われている。改良すべきと言われながら今なお続いている。いつもながら、「種」は他から拾ってくる形から、脱皮できていない。「知価」、からいえば、上流ではなく、下流を守っている。それも価値の一つかも知れない。立派なことであると言う人も居る。

 日本の特許は、エレクトロニクス、機械工学、自動車など、H/Wに固まって、改良型である。欧米は、生化学、微生物、バイオ、などが多くて、将来型の特許が多く習得されている、という結果にも、この統計値は一致する。

 将来の動向における科学研究が遅れていることも原因の一つであろう。科学研究のあり方が課題である。ボケ爺が日ごろ、お願いしているように、頭脳の流動性を良くしなければ、この事象は改善できない。国内しか見ることの出来ない世界観から早く脱皮をしなければならない。

 日本の科学技術教育は、この現象を改革しようと取り組んでいったはずだが、さらに差がついてきている。日本の創造性教育は、一向によくはならない。目指したことが達成していないことは教育の失敗と見なければならない。企業も問題がある。革新的な技術にリスクに投資が出来ない、「うつむき経営」、「縮み経営」が続いているからだろう。

 日本は、一歩前は良く見られる、のだろうが、将来への洞察力は弱い。一概に島国だから、農耕民族だから、という単純な議論はやめなければならない。新しい知の輸入が必要だ。

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2007年10月23日 (火)

組織と人間性

 守屋氏の防衛庁の物品取引で不正問題、今に始まったことではない。もっともっと出てくるであろう。他にもある美味しかった赤福もち、のずさんな管理、またまた、薬害被害のHCVC型肝炎の厚生省、もっともっとある社会保険庁の横領問題、未だに続く県、市の隠し金問題、挙げればきりが無い。これらの問題は、特定、省庁、企業の問題ではない。こんな危険は組織を作れば必ず、潜んでいる。

 組織が大きくなればなるほど、不正とまで行かなくても、馴れ合いで、見て見ぬ振りは横行する。人間の弱さである。人間関係の円滑に必要な、曖昧さがコトの重大さに気が付かせない要因になる。組織の中での人間関係は複雑で、人の悩みの半分以上を抱えている。組織が大きくなると、階級が一段と多くなる。その階級を昇るための競争が、また、人間性をなくする嫉妬として煮えくりかえる。争いごとは避けたいが、嫉妬という欲望は避けられない性がある。そこに悪の巣が芽生え、網を張る人が出てくる。

 TOYOTAの一連のリコール問題、これは単純な技術問題ではない。組織がもたらす重大な課題であろう。組織が見逃す人間のミス、それを見逃す人間の曖昧さは遺憾とのしがたいのか?アメリカのコンシューマ・リポートでは、TOYOTA3機種が平均以下の品質、と判定されたようである。2007年末には、GMを抜いてトップになるといった報道があったが、GMの検討で(TOYOTAのおごり、とは報道しない)微妙であると発表されたのは、昨日である。

巨大戦艦は、いずれは沈没するのではないか?巨大戦艦に乗り組んでいる組織人全員を、管理監督など出来ないであろう。巨大ゾウとしても、末端細胞を何処までコントロールできるのか?エントロピーが増加して、いずれ爆発する。生物の分散処理はすばらしく良く出来ている組織構造であるが、巨大ゾウで何処まで出来ているかは、分からない。

ボケ爺も、日々、組織と人間性においては悩みっぱなしである。サラリーマンとなってから、この問題から逃れられるような時間は無かった。本当にくたびれている。人、人間性とは何であろうか?

<読書>

「ちょいデキ!」青野慶久 文春新書

人一倍デキル人を目指すのではなく、ほんのちょっとデキルのが、いいと言う。相手を叩きのめす「北斗神拳」ではなく、相手の攻撃をかわす「太極拳」的仕事術がいいと言う。

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2007年10月22日 (月)

この秋一番の冷え込み

 20日のソールの朝は2℃、昨日は、4℃と、まるで冬の朝である。紅葉が急激に加速しているが、気ままな天気についてゆけない、否、自然体の悠然としたところが、植物の世界である。その点、動物の世界は敏感すぎるし、格別、人間は騒がしい。

 20日は、2008年事業活動方針会議が午前中あって、午後からは、部長以上、社長も含めた役員が、山登りで、気勢を上げることとなって、標高500mの山に挑戦した。昨日は、役員昇格の家に、役員クラスが招待されて、ウイスキーボトル18本、ビール、24本を飲んでしまったらしい。参加者が、15名だから、一人、一本以上の呑みっぷり、である。それにしても広いアパートである。

 500mだから革靴でも昇れる、といっていたが、前日に、急遽デパートで買い揃えていて良かった。頂上付近は、10℃にもなっていない。韓国では登山が盛んである。結構険しい。何回かのアップダウンがあり、特に最後の登りは急で心臓が破裂しそうになる。2年前は、右の膝を痛めて、未だ多少の後遺症が残している。今回は、右をかばったので、左が、多少傷んでしまった。前回ほどではない。それにしても、前日アレだけのお酒を飲んだ役員どもが、すんなりと昇るのには、驚く。

 山を降りてきて、また酒である。マッコリーと言う発泡酒である。飲むわ、飲むわ、あっという間に、壷が5缶、6缶となくなっていく。このエネルギーはすごい。グループごとに、「頑張るぞ!頑張るぞ!」と叫びあう。(実は、韓国には、頑張る、に当たる言葉は見当たらない)(実は、「約束をする」「実行する」と制約している、らしい。)

 富士の山には雪が無かった。夕焼けで、打ち出された、薄黒い冨士の輪郭はやはり、日本の象徴だろう、美しい。今朝の東京も今年一番の冷え込み(約10℃)であった。

<読書>

「悪果」黒川博行 角川書店

大阪府警内の話である。暴力団、不動産家、賭博、などと警察のかかわりを、リアルに描き出している。これが全て、実態ではないだろうが、大なり小なり、腐れ縁の実態が明らかにされている。それにしても、会話での表現が巧みであり、登場人物の性格がよく描けている。大阪弁がいいのかもしれないが、それだけに、リアルさが増す。皆さん読むべし。

 

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2007年10月17日 (水)

ムーアの法則に限界説?

 ムーアの法則とは、インテル社の創立者の一人、ゴードン・ムーア氏の説であり、「半導体の集積度は2年間で倍になる」ということである。

 ボケ爺が、あるメモリーを開発している時に、IBMワトソン研究所から(名前は失念してしまった)これ以上の量子効率は上げられないから、メモリー容量は、これでおしまい。これからはシステムの工夫が必要である、という論文を見つけ、早々に、システム提案をした。なんと、1年後にIBMはその中身とそっくりのデバイスを発表した。それがIBM3500(500MB HDD)であった。

 しかし、その論文には、落とし穴があった。温度条件が抜けていた、抜けていたわけではなく、無視されていた。発熱を抑える方策の考えに至らなかったのだ。単純には、電流値を抑えることであった。それ以来、半導体技術は微細加工の製造技術の戦いとなり、今では線幅、40ミクロンの戦いに至っている。

 ムーアの法則も、後10年から、15年は続く、という。これが本当というなら、今から10年後の速度は、今より32倍は速いので、十分といえば十分である。しかし、人間の代替をするセンサーと認識には、これでは到底間に合わない。

 シュンペーターいわく、技術は飽和する。飽和した技術を破壊的創造(ブレークスルー)で、乗り越えていく。シリコン半導体の、次のイノベーションは、システムイノベーション(DSP化と新OS)か生物理学イノベーションの時代に入るのか?いずれにしても、ボケ爺が生きている間には実現しないであろう。寂しいことだ。

<読書>

「日本の本当の順位」浅井信雄 アスキー新書

30分で読める本であるが、意外な発見もある。自殺率世界一位は、以外かどうかは分からないが、複雑な社会のストレスであることには間違いない。ブログ投稿率が世界一位、と関係しているかもしれない。何故、タバコ輸入量が世界一位なのか、分からない。統計の取り方に工夫が必要なところもある。

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2007年10月15日 (月)

何時もの朝の風景

 2週間ほど前から、出勤時間を冬時間に変更した。1時間遅らせることにした。理由は、オフィスのキーが不調になって、開かないからである。1時間ずらすと、係りが居て、あけてくれる。

 1時間ずれると、朝散歩している人に出会う。バス停に人が居る。車の数が3割程度増える。通勤時間が5~7分余分に掛かる。

 散歩している人は結構多くて、犬の散歩が多い。何時も出会うことになる。思わず声を掛けたくなってくる。180cm以上はある白髪老人の夫と、150cmほどの小柄な老婦人、きっと夫婦であろうが、ランニングしている姿は成城の街に溶け込む。ボケ爺もそろそろ、ランニングでも始めたいと思う。思うが実行できない、弱さがある。

 急に、落ち葉といっても、まだ緑ではあるが、道路にたまる量が増えてきた。タイヤの音が変わってくる。急激に冷えて、今年の冬は寒くなるのではないかと心配する。途中に園芸家さんがある。そこには何時も花が咲いている。遠くだから、季節感は分からないが、1年中花が絶えない。(冬は、どうだろうか?)

 通常の月曜日は車の量は少ないのが相場である。今日は、何故か多い。何時もの倍ほどである。どうしてか、と考えてみるが、15日、つまり5,10日は納品、検収上げ、で混む、といわれている。その為か?電子マネー時代といわれているが、未だに平準化は進んでいないのか?納品も、日をずらせば、楽になるのに、と、ボケ爺のおせっかいが始まる。

<読書>

「官邸崩壊 安倍政権瞑想の1年」上杉隆 新潮社

発行は、安倍首相退陣前であった。その後、書店から姿を消した。何か、記事に不都合でもあったか、とかんぐっていた。2版が書店に並んだので、直ぐに手に取り一気に読み通した。新聞記事の域を脱していない。暴露本ではなかった。

 

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2007年10月12日 (金)

発狂一歩手前

 今朝、横羽、首都高速で、横浜西口から乗ってきた、藤田観光のバスが、ボケ爺の車が、横にいて追い越そうとしているのに、急に、右ウインカーを出して、ブレーキも踏まず、移動してくる、急ブレーキ、安全ベルトが作用して、締め付けられる。たまたま後続車両が居なかったので、大事故にならなかったが。何だかこの世の中狂っている。

 政治の世界では、保険庁の横領が刑事告発できない、しない、とは、泥棒をしていて、犯人も分かっていても、捕まえない常識は狂っている。議員会館で、2000億円もの設備投資、森ビルを借りた方がまだ安い。マンションが低賃金。議会では、維持の張り合いで遊んでいる。男も女も不倫だらけ。週刊誌は助かり、喜び、楽しんでいる大衆も狂っている。

 企業では、上司の欠点を言いふらして、仕事をしない奴だらけ。それを聞いて喜ぶ奴だらけ。給与泥棒を飼っている。仕事の仕方が悪いというと、パワーハラスメントと騒ぎ、訴える奴ばかり。自分の実力を伸ばそうなって考えている奴はほんの一握り。狂った者の動物園。それを管理できないと、ゴマすり出世上司が鬼の首でも取ったように騒ぐハゲタカクラブである。

 混んだ電車の中で、席を二つ占拠する人、音漏れイヤホーン、携帯で大声、などなど、背広着てはちきれそうな背負いバッグを動かしまわる無神経な奴ら。

 自分のことでは、アイデアがでない、ヒット商品が作れない、創造性が足りない。勉強不足が身にしみる、記憶力がない。無い、無いだらけで、爆発、狂いそう。

 家庭では、この歳になっても、夫婦喧嘩のバトルで気力は消耗しきって、心はボロボロ。

発狂してしまいそう、発狂一歩手前である。一歩手前とは、発狂しそうであるのであって、発狂したのでこれからどうする、の状態ではない。正常から異常になりそうだ。

 一層のこと狂ってしまって、「風狂」の世界に入ろうか?狂言、狂歌などの「芸術の世界」に憧れるのだが。

<読書>

「狂人 三歩手前」中島義道 新潮社

中島義道らしい作品である。まだ、三歩手前だから、中島の方が正常である。狂い方には違いがあるが、共感できる。反社会思想の代表としての活躍を期待する。どうやら、仙川近くに住んでいるらしい。

 

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ついに泣き寝入り?

 9月14日、第三京浜の保土ヶ谷料金所のゲート12レーン(ECT)で、バーにぶつけてしまった。突然、バーがサイドミラーを閉じてしまった。むなしく、「料金は250円です」とアナウンスされる。停まって、事務所に駆け込もうかと思いましたが、何せ一番外側で、どうしても歩いて交差できそうにない。

 右のレーンにしようか、左のレーンにしようか、何故かその日は迷った。左のレーンの先には左端に軽トラックがハザードして停まっている。運転手も出てきたからである。一瞬、何が起きているのか判断が付かなかったが、習慣的に左のレーンに突入して、このアクシデントにあってしまった。

 「軽トラックもボケ爺と同じアクシデントに会ったのだ」と、分かったがもう遅い。次の日、15日(土曜日)だが、そのレーンは中に車が停まって、閉鎖されていた。先日もそのゲートはパトカー、道路公団車が来て、中に車が入ったまま閉鎖され、何か対処している。10レーン(ETC)では、閉鎖されて、バーを取り替えていた。

 早速、電話をすると、「ログ解析をするので、1週間が欲しい。」返事は、「貴方の車は5時56分に通過しています。0時から7時まで、バーが上がらなかった、或いは、衝撃を受けた記録はありません。ですから、バーは貴方の車には当たっていません」「念のため、13日も調べました。5時54分に通過しています。その日の異常は、6時12分に起きていました」「ログだけでなく、ビデオ解析をもしてください。」「分かりました、1週間下さい(なかなか、ウンとは言わなかったが)」約束の電話は来ない。今度は違う人が、同じコトを繰り返す。「ビデオ解析は?」と聞くと「出来ません」と言う。「事務所に出かけるから、そこで見せてください」「仕方がないけれど了解、4日後のこの時間で」。翌日、突然、「こちらから、解析結果を持って参上します」

 解析結果は明らかに捏造されている。矛盾だらけである。部長と課長はひたすら、対応の拙さを謝る。何を聞いても「貴方は、赤信号で通過したのです。当方にはこの通り、間違いはありません。回答者が良くチェックしないで回答してしまいました。謝ります」何を聞いても「申し訳ありません、当方には落ち度はありません、保障は出来ません」を繰り返すだけ。「解析結果のワープロ資料はお渡しできません。」 ボケ爺は泣き寝入りしなければならないのでしょうか?

<読書>

「女人しぐれ」平山寿三郎 講談社

長谷川時雨は三上於兎吉の12歳姉女房である。大正時代の文壇の発展を促した物語である。時雨は良き、姉さん女房であったようだ。文壇の人脈、出版界との絡みが良く分かる。

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2007年10月 8日 (月)

秋祭りと若さ

 我が家の庭にある金木犀の花が、2週間遅れ程度か、いい香りを放っている。日本企業の多くは、10月初めが下期の始まりで、9月末は上期の締めで忙しい。夜遅く帰ってくる道すがら、この金木犀の匂いで、上期の終わりの反省をする。と言っても多くは失敗の言い訳の回顧の連続であった。会社員にとってはこの匂いの季節感は意味深いものがあると思う。

 天気が良かったので、散歩に出かける。麦藁帽子がまだ必要だ。森のテラスでは、子供の騒ぐ声が聞こえる。覗いてみると、小さな池があり、その中に何かがいるらしい。45人の子供がそれを追っかけているようだ。子供たちにとっては、この陽気では、まだ、夏休みの続きであるのかもしれない。

 仙川の街の中にある中高等学校の校庭からは、大きな叫び声と共に、太鼓や、笛の音が聞こえ、体育会か、運動会と言うのか、が盛り上がっている様子がうかがえる。若さ故に夢中になれる過去にボケ爺は思いをはせた。戻りたくっても戻れない。

 祭の季節でもある。ところどころにテントが出ている。年寄りどもが、テントの中で、酒盛りをして、にぎやかに笑顔を振りまいている。この街では、農業をする人はほとんど居なくなっているが、豊作に感謝する祭だけは続いているようだ。一部では御神輿もテントの中で鎮座している。

 ボケ爺の、幼少の頃を思い出す。小学校6年になると、御神輿を担がされる。結構重労働だ。白装束に身を包み、お神酒を飲み、勢いをつけて、神社まで練り歩く、村々では、ご苦労様と言って。水を掛けてくれる。肩がすりむけたこともあった。ボケ爺は祭りでは血が騒ぎ、心が躍り、頭は空っぽとなり、無我夢中で、ハヤシ(掛け声)を怒鳴っていた。

 今でも、笛、太鼓に、血が踊る。処や、場所や民族によって、祭の意味や姿は変わるけれど、人の心と、血が騒ぐことはどの祭でも同じである。祭こそ人間の根源をなしているものは無いように思える。コトの基本である、と認識をした。

<読書>

「交歓」倉橋由美子 新潮社

夫がなくなり、事業家であった未亡人が織り成す人々の交流を、特に才女たちの複雑な感情を、特別に、愛だ恋だ、好きだ嫌いだを意識することなく、絡まる人間関係は、ボケ爺には全く理解できない世界であった。(三冊200円、でなければ味わえなかった。)

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2007年10月 7日 (日)

違いがわかる人になりたい

 「違いが分かる人」は格好がいい。どこかのコマーシャルの台詞に出てきていたが、ボケ爺はそんなことには無縁な凡人だと思い続けている。何故か、「個性的なスタイル、美男であり、淑女である。嗜欲を心に秘め、薀蓄を傾けるととどまるところなく、端正な表現で、皆を驚嘆させる人」とも言えるからである。

 最近の研究では、違いが分かる、とは大脳皮質の領域に広がっているらしい。絶対音感の分かる人が居る。半音が狂っても分かると言うから、音痴のボケ爺には信じがたいが、実際に居る。発音についても同じことである。発音は正確さが身についてしまうと、それからわずか訛ってしまうと判別ができなくなると言う。

 そこで、脳科学的には「違いが分かる」と言うことは、上記の現象も、結果は相対的(比較しながら))に判断が出来ている、と言うことのようである。脳にとって無駄な経験はなくて、全ての経験から判断にゆだねられることとなる。経験の多さが、違いの判断力に繋がるらしい。その中から、もっとも経験の多く、深いところが絶対値となるのではないだろうか?

 技術についても同じことが言える。他者の製品のよさ悪さを知るには、絶対値では設計思想の判断は出来ない。数多くの比較をしながらでなくては「違いが分かる」とはいえないのだ。多くの他社製品の比較をするようにしている。「比較出来る」ようになってはじめて「違いが分かる人」となる。落ちこぼれのボケ爺には、このような説は頼もしく、元気がもらえる。絶対値説であれば自殺していなければならない。

 「Ratio」は「比率」と訳す。技術の現場では、この無次元化された物理量が重要で頼もしい。創造性の源となるからである。ボケ爺はこれからも「Ratio」さんを、恋人にして明日の夢を見る。

<読書>

「考具」加藤昌治 阪急コミュニケーションズ

考具とは考える道具であるという。なるほどうまい銘々である。ロングテールの本の一部である。この本を読めば、頭と体が「アイデア工場」となると言う、が読んでからのお楽しみである。アイデアと企画は違う。企画を作るためにはアイデアがいる。つまるところ、アイデアは「違い探索」を基本として、情報を集めることであると言っているように思えるが。

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2007年10月 6日 (土)

ことばのちから事業

 松山市は「ことばのちから事業」推進していると言う。市内の路線電車には投句ポストがあるらしい。今春から、車体の外側に当選句が張り出されているらしい。

 一例を挙げると、「伝えなきゃ伝わらない」「ピカソはピカソ、私は私」「「ありがとう」で心がまんまる」「君の速さであるけばいい」など、思わず元気が出てくるように思える。

 「まんまるい 地球の隅で ゆがみあい」「道路族 天の川にも 橋をかけ」は、健やか食生活協会会長の「堤恒雄」さん、の川柳である。目がご不自由で、川柳の会員の全員が目に障害がある、と言う。本当の意味で言葉が命である。

「社会保険庁 言葉なくしても なんでもあり」はボケ爺の発句である。「安倍詭弁と 病院へ逃避行 これ常道なり」は字余りすぎで、ごめんなさい。「安倍おどる 御主も悪よの! と黒幕は言い」など、簡単だ。出来栄えを無視すれば、川柳は面白い。

今では川柳専門誌「川柳マガジン」なるものがあるらしい。「大物だ 漫画になれる貌を持つ」「百歳に聞けば薬は止せと言う」これらは句にユーモアがある。まだまだある。「核ボタン押すとき終わる進化論」「いい友を沢山もって茶がうまい」「ケータイを切って高原を謳歌する」などなど。

川柳と、俳句の違いは何か、の議論の結論は、川柳は一義的、俳句は多義的、であると言う。ボケ爺には才能がないのだから、どちらでも良い。

ビジネスの場でも、川柳でも俳句でもいいのだが、そのセンスは必要である。提案書、報告書なるものが、Power-pointで作られるのが、川柳であり、ワードで作られるのが、短編小説である。いずれの力も必要であるが、コトの発想には「Power-point」流、つまり、川柳的センスが必要だ、と常日頃考えている。如何かな?

<読書>

「別れてのちの恋歌」高橋治 新潮社

実に巧い。言葉も、ストーリも。「風の盆恋歌」でも感動したが、祭と恋を絡ませて、田舎言葉を巧みに操る作家は高橋を右にして誰も居ないのではないか。余韻も楽しめる。女心を知り尽くしているようだ。また、近年の高橋治は小説だけではない多彩な活動を続けている。高橋治を読もう。(3200円の中の一冊であった)

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2007年10月 5日 (金)

スタバでコーヒー!でマーケットの勉強

 カフェ・スタバでツデイズコーヒー、Sサイズを飲む。少し苦い味と感じる。少し高めだけれど、ファッションだから?オフィス街では、キャリアウーマンがスタバのカップを持ち歩く姿が、ここはハイカラ(モダン)なオフィス街だ!と、錯覚させる。スタバとはスターバックスと言い、アメリカシアトルから上陸してきた。UAの機内も早くからスタバのコーヒーである。

 ここに来て、スタバの経営が厳しくなっている、と言う。日本では、180円クラスのカフェが検討してきたし、スタバと同じ価格帯の280円クラスのカフェが健闘してきた。それぞれ、その理由はある。それにしても、スタバはブランドにしがみ付いている気がしてならない。ボケ爺は、時間の埋め合わせには、180円クラスのカフェを探すか、本屋を探す。高めのスタバは避けるようにしている。避ける理由は、オーダーするルールが複雑、コーヒーの種類も複雑、と言うこともある。生意気だ、とも思う。

 しかし、何故、スタバが日本でここまで伸びたか?早くから似たようなカフェはあったのだが。値付けが巧みであった。高値と、サイズのオプション。アメリカで流行っている、との宣伝。オフィス街では、カッコイイ、との口コミ、など、マーケットの勉強には事欠かない。

 ここに来て不調である、と言うこともマーケットの例題として、面白いテーマを与えてくれる。ダサかったカフェ、ツーリーと呼ぶのか、ターリーと呼ぶのか、そのカフェが元気になってきている。何故かの差が気になる。マクドナルドがマックカフェを展開し始めた。検討を祈る。マーケットの勉強に役に立たせたい。ボケ爺は、あいも変わらず、ドトールを愛用している。安いと言う理由からだけである。

 「値付け」と「オプション」が顧客の心を揺さぶることは、ボケ爺、良く分かっているのだが、競合とコストが絡むと難しい。

<読書>

「スタバではグランデを買え!」吉本佳生 ダイヤモンド社

価格と生活の経済学となっている。デフレ時代、価格破壊といわれて、雑巾を絞っても雫も出ないほどコスト(原価)を下げることにまい進してきた。少しでも売値を上げることが出来ると、利益が、ゆとりが、出るのだが、と嘆いてきた。価格の値付けのため、ブランド力、デザイン力なども努力した。高値は簡単ではない。その仕組みがこの本で解るかな。

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2007年10月 4日 (木)

社員人生を学問に、出来るかな?

 早くも10月に入ってしまった。うっかりしていると、このBlogの間が跳んでしまう。心がけがまだ足らないのだろう、と反省する。

 6月の日経新聞の夕刊に、玩具のメーカのタカラトミーの創立者の佐藤安太さんが83歳で山形大大学院・理工学研究科に入学、勉学に励んでおられると、の記事があった。「経営者人生を学問に」をベースに「MOT論」をまとめておられるらしい。特に、「玩具産業論」を研究テーマにして、「玩具は遊びを通じて健全な子供を育てる教育産業である」との確信から、「教育玩具」をも、創造する、と言う。壮大な夢のある話である。「Lego」など思い出す。すでに、自己啓発法として「ライフマネージメント学」をまとめられ、NPOを立ち上げて、啓蒙活動をされているとも伺っている。

 元京セラ社長であった、西口さんも「経営者人生を学問に、技術の育て方」をまとめるために、退任後、大学院で学んでおられる。それに付け、同じような思いを抱いているボケ爺は、一向に実行できない。実行できる人と、出来ない人では、当然正反対である。実行する勇気はどうすればいいのだろう。ボケ爺は直ぐに楽な方に流れてしまう。今日ではなくて明日にしよう、なんて毎日の言い訳人生が一向に直らない。この違いは、会社のトップと、一員の違いか?

 定常化する、習慣化する、事が大切なことは分かっている。先日、本屋で、毎日30分の継続を義務付けよう、の主旨の本がよく売れていると言う。皆は買わなくても分かっている。どうしたら出来るかは、本からは学び取れない。それは意志力であるからだ。ノウハウでは三日坊主であろう。

 暑さにかまけて、ストレッチを3ヶ月もサボってしまったボケ爺は、復活の勇気がなかなか出来ない。やっと10月に入ってから始めたが、筋肉痛で、もはや諦め始めている。習慣化(継続)は、簡単なようで、大変に難しい。トホホ!

<読書>

「夢をかなえるゾウ」水野敬也 飛鳥新社

小説風にした、「やる気を起こさせる格言集」である。ゾウを想像して見てください。太っていて、のっそりとして、人生の破綻者のようである。そのゾウが、オレには出来ないが、お前だったら出来る、ユーモアたっぷりで語り継いでいく。ここでも真っ先に、習慣化を提唱している。

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