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2007年7月30日 (月)

夏を楽しむ雷

 一週間留守にしている間に庭の百日紅の花が咲いている。少し濃い目のピンク色が暑苦しい。暑い夏を1ヶ月も咲き続ける精神力に魅せられる。ベッドから眺められる位置にある。横たわって本を読みながら、時々、その花の我慢力に思いを馳せる。花は直ぐに散る可憐なものと思っているが。ここまで我慢が出来る花も珍しい、と尊敬している。

 突然に、雷がやってきた。実にたくましい。かなり近くで、大暴れだ。心が躍る。ボケ爺にもまだ、子供心の感動ができる要素を残している。500m以内だ、今度は1Km以内だ、とモット近くに来て欲しいなど結構な時間楽しんだ。幼少の頃、恐々窓から目を出して否妻を眺めては目を伏せていた頃を思い出している。

 すると、突風が駆け抜ける。木々が大きく波打ち、百日紅の木もしなっている。途端に大粒の雨が、ガラス窓を叩きつける。瓦屋根も大きな悲鳴をあげる。実に男らしく荒々しさに胸が躍る。そこら辺りで、眠ってしまった。あわてて起き上がると、太陽が窓から注ぎ込んでいた。百日紅の花が気になり、そろりと覗いてみると、花びら一枚落とすことなくピンク色がまぶしく輝いている。ボケ爺も見習いたい。

 選挙の投票と併せて、散歩に出る。無料になった実篤公園を横切る。先ほどの夕立で結構涼しく、30mもの大木に囲まれ森林浴が楽しめた。隣の森のテラスの坂道には、毎年、真っ白な鬼百合が楽しめる。今年は何だか痩せて気弱に見える。ご時勢を反映しているのかと、思わず苦笑いである。一度掘り起こして、株分けが必要になったのではないだろうか?ボケ爺もどうすれば立ち直れるのか、立ち止まり、しばし考え込んでしまった。

<読書>

「幕末気分」野口武彦 講談社文庫

幕末は実に複雑で不可解な世の中であったようだ。世間一般はだらけにだらけ、世を動かしていたのは、ほんの一握りとなってしまっていたことになる。今の世の中、現実に何が起きているのか、分からなくなってはいないだろうか。空恐ろしい。

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2007年7月28日 (土)

なんとなくすっきりしない。

 やっと、夕食が終わって、窓の外を見ると、島根の沖合に、イカ釣り漁の篝火が6~9隻を群として8~10の群が群がっている。離陸時は曇って何も見えなかったが、西日本は梅雨明けの様相であった。

 到着すると小雨に蒸せていた。こちらもまだ、梅雨明けが遅れているようである。連日雨に見舞われたが、オフィスでの生活には何の不自由も無い。今回でプロジェクトの終わりを、何とか宣言したい会議は気が重い。それに、数々の連絡、情報交換をしないといけないことが多く、時間調整に苦労する。同時通訳は昨日の午後には、声が出なくなってきて、倒れてしまった。通訳も結構肉体労働であると、嘆いていた。結果は「なんとなくすっきりとしない」状況となってしまった。精神的に絶えるには限界まで来てしまっている。こんな状況を察してか、今回の痛風君(嬢かもしれない)は大人しく、遠慮して控えてくれている。

 グループの経営のホテルは、一杯で予約が出来なく、南山にある外資系のホテルに泊まっている。韓江(ハンガン)と言う河が一望でき、その向かいに新興都市、江南地域が広がる、はずであるが、連日霧で霞んでほとんど見えない。梅雨明けはしたものの、霞の「なんとなくすっきりしない」連日である。

 南山の麓に南山公園がある。急な勾配の公園であり、南山の頂上にはソウルタワーがある。朝早く、そこに向かって散歩することにした。今にも雨が降りそうであり、ソウルタワーも見えない、せっかくの韓江の町並みも見えない。ひたすら汗のみが噴出してくる。行きかう人は年寄りが多く、健康に気をつかっている様子はボケ爺の発想と同じである。標高670m、松ノ木が約50万本、この公園にあるという看板が汗で霞む。ニッコウキスゲに鬼百合、水仙に桔梗、ススキに萩の花、夏と秋が混在している。途中で引き返すことにした。昔痛めた右の膝がゲラゲラ笑い始めた。それをかばうと、左足も苦痛を訴えてくる。ボケ爺も思わず、ゲラゲラ笑ってしまう、こんなに歳を取ってから無理をして何を求めているのかと、オッチョコチョイに、「なんとなくすっきりしない。」

<読書>

「アルキメデスは手を汚さない」小峰元 講談社文庫

典型的な、トリック推理小説である。古い時代の良き推理小説である。たまにはこんなトリックにはまることも良いのでは。

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2007年7月23日 (月)

梅雨明けは程遠く

 平年の、関東地区、720日ごろは過ぎて行く。梅雨明けには程遠い今日の朝である。久しぶりに、目覚まし時計で目が覚めた。小鳥のさえずりが、美しく、心地よい。曇ってはいるものの、程よい天気なのだろう。季節によって、鳴声が違ってくる。初春には、個性豊かな、目白、ウグイス、初夏には、モズなどきつい鳴声、真夏は優しい、小さな小鳥群なのだろう、細かく震える優しいさえずりへと変わっていく。それぞれ繁殖期をずらして安全を確保する、自然の摂理なのだろうか。人間の世界も、何事も半歩ずつ、ずれて行動することが、揉め事が起きないコツであり、人間づきあいの潤滑のコツなのかも知れない。ほどほどの半歩後を、半歩先を心がけたい。「半歩」程の欲望、願望を大切にしたい。

 気がつけば、突然に小鳥のさえずりは止んでしまったいた。カラスでも来たのかと思いきや、霧のような雨が降り始めていた。気象庁泣かせである。今ニュースで雨は夕方から、と報道していた。きっと計算機に頼りすぎているせいである。アナログの直感を大切にしたい。

カラスの鳴声は最近、何処に行ってしまったのか。ゴミの処置を玄関に置くように個人責任を徹底したからである。自治会ではこの処置に大いに反対したが、カラスを追放できた結果は良かった。その時はそんな説明は無かったが。

 ここ3ヶ月ほど、5時に起きて、オフィスには6時過ぎに到着、仕事に掛かる。忙しい、と言えば一言で済んでしまう。仕事など、人間関係も、予想以上に複雑なものである。時間を掛ければ解決するものでもないことぐらいは、ボケ爺の歳になれば十分に承知している。時間を掛ければ解決することもまた事実である。一筋縄では済まないことも理解している。しかし、時間のみが、人に与えられた、唯一の平等な事象である。24時間は、全てに平等である。それだけに真剣さが必要である。

 おかげで、痛風が再発したようだ。右足の中指の第一関節が腫れてきた。今回は、同情してくれているようで、遠慮がちな、おとなしい腫れ方である。痛みもほどほどである。状況を理解してくれた痛風君に感謝する。

<読書>

「獄医 立花登手控え四 人間の檻」藤沢周平 講談社文庫

シリーズ最後である。「女の部屋」「別れゆく季節」など余韻を含む、想像を膨らませる構造は、周平をして与えてくれるものであろう。

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2007年7月21日 (土)

デル「一人負け」と「十年ひと昔」

 この記事を読んで、ボケ爺「ドッキ!」とする。ボケ爺のサラリーマン人生「一人負け」と言われているような気がするからだ。勝とうが負けようが、どうでもいいのだけれど、何か中途半端な気がしている。何事にも「極め付き」に至っていない。

 脳科学や生物学の学説の変化は激しい。脳科学では、男女差が焦点であったのが、「十年ひと昔」で、今では大きくは差が認められない、となってきている。海馬から前頭葉に注目が集まっている。脳の老化説は未だ定まらないようだ。このボケ爺の脳の老化の対策に間に合いそうにない、ボケは元々だから、真剣には気にしていないが。

 一方、生物学では、「生物とは」がハッキリしていないようだ。DNA,RNAの遺伝子螺旋でのコピー活動をしているものが、生物だ!と定義されたかに思っていたが、それらは、また一説に寄れば、生物は、仮の宿で、利己的遺伝子が、適当に選んでいると言う説もある。これは一様、コピー説である。ボケ爺も、「オレが、オレが」、といきまいているが、このボケ爺の正体は、ボケ爺をヴェヒクル(乗り物)にして住み着いた利己的遺伝子の仕業らしい。ボケ爺の責任でない?

 今日また、物議をかもし出しているのが、「循環、ダイナミックス説」を加えるべきである、と言う。簡単に言えば、生物を構成している物質は、エントロピーの法則(分子、電子は拡散する)を逃れるように、生物の分子、電子は循環している、と言うことである。エエーっと益々分からない?細胞、血など、食べた物質と入れ替わっているだけである。入れ替えられる機能を持っているのが生物である、と言う。だから食べていないと生きていられないのが生物である?当然だ。

 だから、生物である人間は我を張って生きれるのではなく、自然体が好い、と言うことのようだ。

 難しい話は止めて、デルの話に戻ろう。ネット販売を取り入れたビジネスモデルは早かった、が平凡であった。「見せかけの安売り」モデルも平凡である。「十年ひと昔」PCを良く知った人達に「循環」してしまった。少なくとも、十年ごとにビジネスモデルの革新が必要であろう。生物の「循環、ダイナミックス説」に学ぼう。Web2.0の活用は?

<読書>

「獄医 立花登手控え三 愛憎の檻」藤沢周平 講談社文庫

特に、影法師がいい。周平のこのシリーズは「実存」を意識しているのではないかと気が付いた。サルトルを意識した影響か?最終の四が楽しみである。

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2007年7月20日 (金)

アーっと、また擦ってしまった。

朝から、車の調子がよくない。ナビゲーターの働きがいつもと違う、と思って、5~6時間後になったが見てもらうと「何も無い」、との冷たい返事。帰りに乗ってみると何も無い、信じられない。ボケ爺側がおかしいのか、疲れているのか、など考えながら駐車していると、バックに入れたつもりだったが前進してしまい、バンパーがほんの少し壁に接吻をしてしまった。この接吻は歯がむき出しなので傷が付く。アーっと、また遣ってしまった。出張から数えて連続で、毎日何かしらアクシデントが起きている。ボケ爺は歳だから何もしない方がいい。分かっちゃいますぜ!

 今年のサラリーマン川柳の一位は「脳年齢 年金すでにもらえます」である。お返しで「年金に 抹消があることつゆ知らず」では如何かな?二位には「このオレに あたたかいのは便座だけ」これは面白い。お返しに、「あたたかき便座の電源 切られている」で、格差が益々広がっています。ボケ爺も一句、「アノ人は アノ時アレして 通じたか」お粗末。

 2007年上期のヒット商品番付が発表になっている。東横綱は、「都心ランドマーク」、西横綱は、「電子マネー」どうしてこれらがヒット商品なのか?ボケ爺には全く縁が無い。何処の誰に、こんなところで消費できるお金を持っているのだろうか、ボケ爺はいささか納得が行かない。ヒガミかな。

 梅雨明けもほど遠い。天気予報も合わない。そんな中、芙蓉の花は季節感を守って可憐に美しく咲き誇っている。いろんな色がある、種類も沢山ある。それによって癒されるはずだが、今年のボケ爺にはそんな余裕は無い。

<読書>

「アメリカの新国家戦略が日本を襲う」日高義樹 徳間書店

日高氏はアメリカ人かもしれない。しかし、的確な指摘には、耳を傾ける価値は高い。海外コミュニティの中に居てこそ、日本が見える。日本は所詮、小国、その自覚が足りないし、世界とは鎖国を続けている。政治、戦略は5流である。

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2007年7月19日 (木)

いまさらGoogleでもないが

 昨日の日経の夕刊に、インテルの44%の増収の記事が大きく報じられていた。いまさら、半導体の業績の浮き沈みで一喜一憂はないが、メモリーチップの方は青色吐息である。H/Wの競争は過酷なものがある。

 その下には、ヤフーの業績が6期連続の減益となっている。ヤフー方式(旧ネットビジネススタイル)では、ネット広告を確保する方法はもうなくなってくるであろう。それは、ゴーグルが居るからである。ネット広告売り上げは、全体の30%以上となっている。さらに伸びており、グーグルが独り占めし始めたからである。新聞雑誌がグーグルを訴え、裁判が毎日行われることであろう。マイクロソフトのように。

 同じページに、グーグルのシュミットCEOが巨大化に危機感を募らせている。と言う。いまや、売り上げ、一兆二千億円、時価総額が18兆円、それも9年間の実績である。78年前にサンノゼあたりで、「グーグルって知っている?」「何だか、恐ろしいことを考えているらしいね」と言う噂を聞いていた。カルテ、論文、画像、図書館文献などの検索エンジンの技術動向を調べている時であった。

その時は、ヤフーの二番煎じ、と思っていた。検索技術はSWだけでも、ビジネスのコア技術であって、しかも、グーグルの検索SWの技術は革命であったことは後で分かった。それだけボケ爺の頭はボケてしまっていた。

この技術が膨大な収益を生む構造にも全く気がつかなかった。NNのリンクがもたらす、「収益逓増モデル」である、と教科書で教えてもらっていたにもかかわらず。

 とにかく、グーグルを使ってみてください。表のメニューだけでいい。他のプロバイダーとの違いは明らかである。ニュース?各報道の全てが読める。残念ながら、日本での普及は遅れている。日本人の頭が付いていけないからである。

 一番恐ろしいことは、マーケティングが個人で出来る、と言うことだ。毎日、グーグル分析をするだけで、未来が見えてくる事は、「個人の能力が勝負の時代」である。社会現象はどんどん変わる。クワバラ、クワバラ。ボケ爺は歳を取っていてよかった。

<読書>

「グーグル革命の衝撃」NHK取材班  NHK出版

将来に起きる(今も起きている)革命がよく分かる。Web2.0と同じように、個人情報を預けることによって、いろんなチャンスが生まれる、なんてすばらしい。いよいよ、ネグロポンテ(MIT教授)が提唱している$100PCの時代がやってくる。教授のにこやかな顔が浮かぶ。

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2007年7月18日 (水)

技術の将来に期待(ボケ爺が若ければ)

 最近、メモリーを活用する場面が多くなっている。データなりコンテンツなりを蓄積する。蓄積すればそれを検索する。半導体の進歩は一定の法則により確実に進歩しているように思える。その点では先が読める。一方、磁気記憶(ハードディスク)は壁にぶつかり、何度かのイノヴェーションに見舞われている。垂直磁化方式で、もう行き着くところまで来た、と思っていると、さらに先があるようだ。磁気と光(近接場光)を活用すると、なんと、PC活用で1.2テラビットには出来るそうである。リードライトする時間は一体どうなるのだろうか、付いていけるのか?と、心配が逸る。さらには60テラビット(デジタル映像が150時間録音できる)は可能だ、と言う。なかなか磁気もしぶとい。

 家庭用燃料電池も酸化物型方式では、固体高分子型の36%に対して、発電効率が45%まで上がってきたとの事。コストが下がれば一気に普及しそうである。クリーンエネルギーとの競争が激しくなる。そこには水素がキーとなるから、光による電気分解などの二次変換が重要だ。

 でんぷんから、化学原料のカテコールが作れると言う。生物(トーモロコシなど)からアルコールを作るようなもので、これもバイオマスの活用が実用化してくる。これには酵素が重要な働きをする。酵素は酒造りの基本である。健康食品の製造には欠かせない。

 さらには、有機材料によって、生物で起きているあらゆることが出来る時代になろうとしている。有機光エレクトロニクスなど、もっとも最先端であろう。すでに、ディスプレイなど実用化の声が聞こえてくる。白色LEDの実用化と平行して、白色有機ELが家庭内の照明(壁、天井、オブジェ)で活用される日も近いことだろう。

 ボケ爺がもう少し若ければやってみたい研究がある。「光合成」である。水と二酸化炭素で有機物を作る。生物で言う「菌」の活用、藻生物で起きている光合成など興味は尽きない。

 ガイヤが言っていた、「地球温暖化は、森林伐採とは大きな相関は無い、大陸灘に住む藻生物に依存する」と。波で発生する泡が二酸化炭素を包み込み、藻生物が合成する、そんな単純な世界に魅力を感じる。藻生物の人工繁殖が出来ると地球温暖化は救える?

南カリフォルニアで、エリアン・クロロティイカ(ウミウシ)の研究に没頭する老後もいいのかもしれない。

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2007年7月17日 (火)

定性、と定量のバランス

 世の中で示されることは定性的なことが多いな、と思う。特に今日、政治の間で、取り交わされる数字は定性的である。数字は本来定量でなくてはならないが、根拠が曖昧なので、その数字が曖昧になる、つまり定性的に考えてくれ、と言っているようだ。特に社会保険庁で示される数字、公務員制度改革、教育問題、山ほどある。

 先日、建築家の藤森照信氏が、日経新聞のコラムに、「炭の効用」で、炭の良さは分かるが、それを、実用化するためには、分量、となる定量値が必要である。つまり、モノづくり、とは、定性と定量のバランスの上で成り立つものだ、と言われていたのを思い出す。ここでは、確か、室内の正常化と、保湿効果で、家庭内にどのぐらい(定量)取り込めば良いかのデータがない、との話であった。

 連日、ダイエット、美肌、長老、とかの効果では定性的な話は山ほどでてくる。医学面から言っても、下を噛むような化学銘が連なる。一体、どんな量のバランスで。摂取すればいいかは全く公表されない。これは化学でない。だから最後には、毎日30種の食物をとっていれば、そんな特殊な物質を接す摺る必要は無い、とこれまた定性論が蔓延る。アメリカなどのドラッグストアーではビタミン剤から、無機剤まで、専門店がモールには必ずある。個別が基本であるが、コンビネーションもこのごろ増えてきている。

 ボケ爺もモノづくりの端くれである。開発現場では、この定量値を求めて日々苦しんでいる。が、最後は神頼みで、定性値で終わってしまう製品も多々ある。慰めと言うわけではないが、科学(工学)が、完璧に定量化してしまったら、そこで進歩が終わってしまうのではないか?定性で、定量の余地があるから、科学(工学)には終わりが無い、と思っている。工学は科学以上に定性的である。

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2007年7月16日 (月)

今日の新潟、中越沖地震

 休出出勤で、担当者と、データの中身のレヴィユーをしていると、多少のたて揺れから、横揺れと変わり大きく揺れた。このビルは地震には丈夫に作られているので何の不安も感じることは無かったが、それにしても大きな横揺れであった。

 打ち合わせしていた部員に、「この揺れは新潟方面である」、と断言しました。急いで、インターネットを開くと、やはり新潟方面である事が判明した。大きな災害でないことを祈る。被災者にはお悔やみを申し上げます。

 何故、新潟方面だ、と判別ができたかと言うと、今から、40年ほど前に、やはり新潟地震が起きて、液状化現象で多くのアパートが傾いてしまった。その時、ボケ爺は、御茶ノ水の道路を歩いていた。「ゴー」という地鳴りと共に、横揺れが激しくなって、足を取られながらも、研究室の荷物を支えに戻った。その時の揺れと良く似ていたからである。恐怖は良く覚えているものだ。その間、三陸沖での地震とか、福島県沖の、大きな地震を経験しているが、少し揺れの形が違う。距離の問題でなく、地盤のつながり具合が違うのであろうと思う。

 それにしても、中越地震、能登地震、今回の中越沖地震と、日本海側に集中しているのであろうか?東海、東南海地震が何時起きてもおかしくない、と言われて20年以上である。こちらは一向に起きそうにない。そんな警告をよそ目に、別の場所で被害が発生するのは、イヤハヤ皮肉なものである。その間に、淡路阪神地震も起きてしまった。経済が理論通りに働かないのと何か共通している。

 未来どころか、近未来も予測が付けられない、困った社会現象である。関係あるかどうか分からないが、学問が、あまりに微細になってしまい、大局が見られない状態のように思える。そういえば、天気予報でも同じことが言えるのではないか。大型高速コンピュータの計算に頼りすぎて、予報が当たってこない。最近は表現を変えて、あたかも当たっているかの表現はしているが中身はお粗末と言われても仕方ない。

 なかなか、難しい世の中になったものである。ボケ爺の先は見えているから、安心だ。

<読書>

「獄医立花登手控え二 風雪の檻」藤沢周平 講談社文庫

とにかく、面白い、と言うか、事件の内容が近年でもよくある内容である。江戸時代の組織も良く考えられており、今がそれを引き継いでいる。大きく変化していない事に、喜ぶべきか、どうか?とにかく、周平の時代小説は今を考える参考にもなる。

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2007年7月14日 (土)

 無事で済まない、今回の出張

 何が気に入らないのか、このごろの行いが悪いのか、何かが起こる。昨日から、今日の朝まで、インターネットが、スローダウンして、一件のメールを処理するのに、30分は掛かる。それに時々、凍結する。再立ち上げ、の繰り返しで、たかが五件のメールと、三件の稟議の処理に4時間ほどを要した。眠れない夜となってしまった。

 朝早く、空港に向かう。時間の読みを誤って、あまりに早くゲート前に来てしまった。さらには、ゲートはブリッジではなく、階段で地上に下り、徒歩にて、タラップを上る。重いバッグで悲鳴を上げているのはボケ爺だけではなかったが。

 その割には、天気は、この上も無く良い。何だか皮肉に感じるのは、ボケ爺が歳を取りすぎてヒガミ人となってしまったからか。朝食代わりのハンバーガーをかじりながら、ボーと待合ラウンジから外を観る。ゲートから次から次に飛び立つ飛行機を眺めていると、不思議と虚無の気持ちになる。皆はどんな出会いに期待を馳せているのだろうか。商談をまとめるためか?家族にあるためか?バケーションか?親の死に目に会うためか?

 小さな空港では、小さな個人もちの飛行機が意外と忙しく、離陸、着陸を繰り返している。アメリカの金持ちの贅沢なのだろうか?ビジネスの必需品なのか?街の中にある空港での離陸は、異常に急である。一気に駆け上がる。日本も考え直す必要がある。ロスアンゼルス市の北側からカナダに掛けてロッキー山脈が横たわる。積層のあとの地形がむき出しである。海底からのせり上がりである。それが3000m以上の山並みになっているのだから、自然は不思議である。その東は、ネバダ州の砂漠がはるか彼方まで続く。ネバダ州をもらった人は気の毒である。9割が砂漠だからだ。アメリカはとてつもなく広い、とつくづく思う。

 これ以上のアクシデントは終わりを告げるであろうか、これ以上はお許しを乞う。さて、これから帰国に向けて乗り込むことにする。

<読書>

「消失 第一巻」高杉良 ダイヤモンド社

金融腐蝕列島「完結編」となっていて、4巻で完結するらしい、長編である。いつもながら、高杉はずばり、衣を着せず、暴露してくれる。そこが心地よい。こんな作家にモットモット、経済政治の恥部を暴露して欲しい。それにしても、「悪」は何時の時代にも引き継がれるものだ。「悪」は強し、か。

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2007年7月13日 (金)

あれっ!カラスがいる。

 昨日は、フェニックスからの移動であった。国内便にもかかわらず2時間も余裕を持てフェニックス空港に着いたが、カウンターには長蛇の列で、40分待ち、その上、なんと無常にも、ボーディングパスには見事にSが四つも印刷されている。「今日も付いていない」とぼやくと、カウンターの人は「ラッキーと思わなくちゃ」と言う。ボディーチェック、荷物検査が特別に厳しいと言うことである。ゲートに着いたときはすでに乗り込みが始まっていた。間一髪でセーフと言うことだ。

 朝から、暑い、それに加え、サボテンの針のように鋭く高音で鳴く小鳥に起こされて、頭痛がする。やっとの思いでフェニックスの荒野を後にした。

 南カリフォルニアのアーバインは、カラリと晴れて、乾燥していて、夏と言うには涼しく感じる。オフィスの間に植えてある大木の中に、聞きなれた鳥の声を聞いた。まさかと思って観察をすると、なんと口細カラスが戯れている。アメリカにはカラスがいるのだ。初めての観察は驚きの方が先である。朝方、ホテルの周りを散歩した時は、愛嬌のある小鳥にさえずりに、心地よさを感じていたが、カラスの鳴声は、幻滅である。

 今日は無事に過ごしたいが、カラスにからかわれては無事では済むまい。クワバラ、クワバラ。アーバインは来るたびに新しく、すばらしく良い町になっている。

<読書>

「獄医立花登手控え一 春秋の檻」藤沢周平 講談社文庫

周平の時代小説は、その時代の生活の様子が良く行き届き描かれている。地図もしっかり、その時代の背景を物語っている。資料の調査がそれだけ行き届いているのだろう。人の人情を描くことの上手さは言うに及ばない。

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2007年7月11日 (水)

歳はとってもボケたくはない。

 今日(10日)は、アリゾナのフェニックスにいる。40℃ほどの暑さで、さすがに蒸す。レンタカーを借りるのに、40分もかかる。ノンビリがサービスと思っているようだ。冬はリゾート市になり、夏の間、住民は町を飛び出す、と言われているように何事も緩慢である。リゾート地の良いホテルに泊まっているが、安い。木々は、少なく、葉っぱは針のように細いものばかりが生えている。サボテンも至る所に植えられている。それだけ、夏は厳しい、砂漠のインデアンの町であると、想像できる。土地は広いから、モールなども、1.5倍はあるだろう。

 借りたレンタカーはパンクをしてしまった。レンタカーでの事故は今回が始めてである(車の中に鍵を忘れたことは何度かあるが)。レンタカー屋への連絡で、30分、何せ、英語で伝えるのにグッショリと汗を掻く。来てくれるまでに、1時間半である。また、今日も、アクシデントに見舞われてしまった。

 8日にサンフランシスコに入り、レンタカーでサンマティオのホテルに到着して、早々にパーキングで、車の後ろを柱にぶつけてしまった。通常、アメリカではバックして止めることはない。今日に限って、何故か、日本と同じように、バックをしてしまった。バンパーと少しのランプが壊れた。

 昨日は、レストランで、パスポートの入ったパースを忘れてしまって、探したが見つからず、会議のセットだけをして、領事館に駆け込んだ。パスポートがなければ、明日からの国内も移動できない。書類を申請している時に、電話が入り、見つかったとの事、嬉しいやら、ボケが来たことに悔しいやら、複雑な気持ちで、お礼を言いながら、引き取りに出かけた。

 歳を取ると、何かとボケてしまうのだろう、「ポカ」をやってしまう。「ポカ」は「ボケ」とは等価である。パスポートを忘れた所と、情景は明確に覚えていたことに、多少の慰めの意味づけてしまうところが、さらに歳を感じる。

明日はどんなアクシデントが待っているのだろうか?年寄りをいじめるのはよして欲しい。どんな、ボケが始まっているのであろうか、それが分からないほどボケることは怖い。

<読書>

「刺客商売七 隠れ蓑」 池波正太郎 新潮文庫

言うことなし。こんな本を読んで、一人ニヤニヤしているから、ボケてくるのか?アクシデントには会いたくないものだ。中身の良さをモット味わいたい。

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2007年7月 7日 (土)

庭木の性格と人間の性格

 先週と今週は、梅雨の合間を縫って、延びた庭木の剪定を行った。猫の額ほどの庭でも、伸び放題にしていると、近所から苦情が出るほど、庭木は一雨ごとに伸びてしまう。梅雨の雨で、剪定した後の若芽を育てることによって、美しく整えることが出来る。剪定力がモノを言う時である。

 剪定の仕方は、企業の事業ドメインを決めるようなものである。形良くなるか、不細工になるかは、剪定力で、「企業戦略の集中力」に等価である、と思う。

 ある木は他の木と相性が悪い時は、どちらかが遠慮しあって、枝を出さなくなってしまう。全く気にしない組み合わせもある。お互い絡み合っている。これらは常日頃見受けられる常識の範囲である。

 うっそうと大木が蔓延ると、下木の様子が一変する。嫌がって枯れる者、光を求めて変則な伸び方をするもの、雑草類は品種が置き換わることもある。我の強い雑草が蔓延ることは人間の世界も同じとである。

 今日は新しい発見をして思わず笑ってしまった。木自身の中でも、人間の世界と全く同じ競争があることに。(また今日は、070707とラッキー番号の記念すべき日であり、七夕でもある。)同じ木の中で、枝の領域と言う個ごとで、さまざまな枝同士が競争をしていることである。隣の枝に覆いかぶさるように伸びて、その領域の元の枝を枯らそうとしていたり、自分だけ光を求めて、どんどん伸びていったり、枝の領域の陣地を競争して奪い合ったりしている。

 木々の間では考えられることであったが、同じ遺伝子の枝の領域でも競争していることに驚く。生きることは競争である、とボケ爺、改めて思い知らされた。

<読書>

「露の玉垣」乙川優三郎 新潮社

待望の書を手に取った。裏切らない出来である。乙川の人の描写力は群を抜いている、と思っている。今までの作は市井の苦労人を描いていた。この人に、武家ものを書かせたかった。それがこれである。藩を一つの企業と仮定すると、歴史ものは面白い。今回も企業内で行われる政治向きと人との絡み絶妙である。

 藩(ある企業)の将来は、指導者、人材、商品、財政で決まる。

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2007年7月 6日 (金)

長寿企業は経済発展に寄与するか?

 NHKが日本の長寿企業を取り上げる番組を組んだらしい。その番組は見ていない。経済作家(損保課題)、幸田真音がその番組に参加した時のエッセイを日本経済新聞に載せていた。

 創業1400年余を誇る「金剛社」を筆頭に、100年以上続く企業が5万社ほどあるという。その感想に、現在のM&Aを含む時価価値経済社会を、暗に非難をして、伝統のある企業が、働く人々の「誇り」を基本にしている人材の質、と、その厚さに、世界に誇れる日本の宝物があると、コメントしていた。

 本当だろうか?5万もある伝統企業は、日本経済に発展にどれだけの寄与をしているのだろうか?グローバル時代、この「誇り」「日本の宝物」は日本を本当に世界経済から救ってくれるのだろうか?経済作家で有名な人のコメントだけに気になる。

 企業30年寿命説に対して、長寿命企業のその努力は重要なことだろうとは思うけれど、よくよく中身を見てみなければならない。その長寿命企業の90%は業態を変化させているはずである。だから生きてこられた、と思う。そこで働く人々は苦しい業務変化の嵐に耐えてきた人々であろう。そこに本当に「誇り」はあるのだろうか?

 忠誠心と言う意味では、欧米型の企業で働く人々のほうがあると思う。業績を上げなくては、生きていけない。その間働いている間は確実に「誇り」を持っている。長くダラダラ働く日本人は、居酒屋で山ほど、愚痴っている。ボケ爺もそうであった。内部では本当に誇りを持っていただろうか?外部の批判に対してだけ、防衛をしていたように思える。自己満足としての「誇り」という、曖昧さに自分を防衛したくなる気持ちは分かる。それが、現在の日本人の気概の建て直しに「足を引っ張っている」事を忘れてはならない。

 日本国を守ろうとするならば、今の世界社会で生きていこうとするなら、豊かに暮らしていくことを望むなら、経済を中心とした戦略の発想が大切であろう。曖昧さは毒薬となる。

 江戸時代、貧困にあえいだ藩の人々の心は荒廃し、「武士の誇り」にこだわった心の秩序の乱れ、猜疑心から廃藩なって行った歴史が物語る。

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2007年7月 5日 (木)

やっと分かった信号のメカニズム

 今朝、信号のメカニズムがやっと分かった。と言うのは、成城学園の一方通行の交差点で、何時も赤信号で止められる。一向に青にはならない。前方の信号は、何度も変化している。朝が早いので、信号間隔を変えるプログラムになっているのだろうと考えた。それにしても変わらない。後続車も来ない。信号無視を決め込んで、そろりと前に出てみる。たちまち青に変わって、信号無視の違反を免れた。これを二回経験した。今度は、良く観ると、押しボタンがある。そうか、時間外は押しボタンで操作するようにプログラムされているのだと思って、車から降りて、操作をして違反をせずに通過した。これも二回経験をした。

 今朝は、ふと、梅雨空の方を眺めた。なんと停止線の上辺りにセンサがある。それも二箇所、並行ではなく、斜めになっている。どうやら、二個同時に検出しなければ、車が待機していることを見つけ出せないようだ。そう言えば、ボケ爺は、奥ゆかしいので、停止線の2mぐらいは手前で、通常は停まっている。

 何事も三度では解決しなければならない。なんと五回目で分かるとは、ボケ爺の脳みそも焼きが這入ってしまった。と、落ち込むと同時に、年寄りの怒りが起こってきた。何故、もう少し、手前にセンサを付けないのか?何故、二個センサを付け同時検出でないといけないのか?これは、今流行の失敗学の教材になるのでは、と考えたが、事故が起きたわけでないから、教材にはならないか、と思うと、さらに腹が立つ。さらには、何分ロスをしたかと、思うとさらに怒りが増す。次の信号で止められると、さらに怒る。こんなことに、一喜一憂する自分にも腹が立つ。歳は取りたくはない。

 こんな時、チャーリーがいてくれると、チャーリーの頭を叩いて、すっきりと出来るのだが。合掌!

<読書>

「剣客商売 新妻」池波正太郎 新潮文庫

やっと、剣客商売の六巻目にして、大治郎と三冬が所帯をもった。喜ばしいことである。男勝りの三冬の恋を知る女らしさの表現が、これまたたまらない。

 これで怒りが治まれば安いものだ。

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2007年7月 4日 (水)

国産ジェット旅客機に期待

 なんと言ってもボケ爺、飛行機野郎である。今でも運動方程式はスラスラ出てくる。62次微分方程式である。

 先日、三菱重工業が70~90人乗りジェット旅客機の開発に着手すると言う。嬉しいことではないでしょうか?どんどん、こんなチャレンジがでてきて欲しい。IHIのエンジンにも期待したい、全世界のジェットのエンジンに採用されるようになって欲しい。これには採用されないようだ。どうしたIHI

 しかし、ちょっと気になる点がある。完成模型の写真かから予想すると、少し、胴体の径は細い。あまりにも70~90人に最適なデザインになってはいないか?エンジンが小さすぎる?点が疑問である。

飛行機とその運用システムは、マーケティング力が試されるもっともいい実例となる。なにせ、昔は8年後を想定して市場の動向を読むからである。この国産ジェット機は、今から5年後の交通網で、かつ、どんな市場を狙うか、運用システムはどうなっているか?ハブ型方式か、ネットワーク型か、をまず考えなければならない。多分ダイレクトネットワーク型であろう。ハブを狙うには大きすぎる。

エアバスA380の巨大なジャンボはハブ型運用を想定した。一方、ボーイングのB787はネットワーク型を狙った。7年前の市場分析である。典型的な市場見込みの違いが現れた。どちらが成功かすぐに分かる。

結論を急ごう、国産ジェットは70~90人市場はダイレクトネットワーク型で良いところを狙っている。ただし、差別化で、離着陸距離を短縮したいので、大きなエンジンを積みたい。それに、ボディーの径を大きく取ってずんぐりむっくりとしておく。これはきっと成功するだろう、その暁には、胴体を伸ばして、100~120人が簡単に作れるように想定した二機種一機体のデザインにしておくべきである。ボケ爺は嬉しくて、こんなアドバイスを送りたい。

<読書>

iPodは何を変えたのか?」スティーブン・レヴィ ソフトバンククリエーティブ

Marketingの勉強には飽きが来ないほど、iPodは、いろんなメッセージを送り出した、否、今でも送り出している。一つ一つは、何一つ革新技術はない。ウォークマンの時とは違う。が、システムデザインの発想がすばらしい。小さな新技術の積み上げである。ハード的には、回転式選曲ダイヤル、ソフトにシャッフル検索が織り込まれている。他社が真似の出来ない技術である。ボケ爺もこんなデザイナーになりたい。

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2007年7月 3日 (火)

帰ってきてよ「ガマ蛙」

 昨日の続きだけれど、我が家のガマ蛙は、本当に何処に引越ししてしまったのか?まだ、地下に潜って、我慢していないのだろうか?それとも、犬か、猫に食べられたのだろうか?あんなに大きな体で、気味が悪い色をしていたら、今日の犬、猫は逃げるだろうに。

 ガマ蛙は、無口である。泣いた声を聞いたことがない。怒ると白い粉、否、白い汁を出すと言う。お目にかかったことはない。話しかけても無反応、さすがに手では突けないので、棒切れで突いたら、のっそりと、移動する。まるでナメクジのように。

 この時、ガマ蛙は何を考えていたのだろう。「このボケ爺はバカだ」「このうちは居心地が悪い」「餌をくれない(ところでガマ蛙のえさは何かな?)」「優雅な気分で外にでてきてゆっくりしているのに、棒切れで突くとは失礼な」と言っていたのか?

 今では、「石のガマ蛙で我慢するのなら、俺は要らない」とふてくされていたのか?「大事にするならまた帰って来てやるよ!とどこかで見守ってくれているのか?ガマ蛙は沈黙を保っている。だから、いろんな想像をしてしまう。ガマ蛙はそんな徳がある。

 「沈黙は金なり」はよく分かる。徳を得た人はいいのだが、しかし、沈黙ほど恐ろしいものはない。気持ちが全く分からない。そんなことに出会うと、沈黙は凶器となる、暴力でもある。会議をしても全く意見を出さない。顔にも出さない。ひたすら黙り続ける。議論がすすまない。勢い押し付けてしまう。同意が得られたかもも分からない。そんな時はどうすれば良いのか?ボケ爺も沈黙をしたが、正義がそれを拒んでいる。

 ボケ爺はガマ蛙になりたい。

<読書>

「作家の誕生」猪瀬直樹 朝日新書

まずはタイトルが面白い。作家の作品もデビューするには、単純ではない。「歌の誕生」と同じく、他の商品と同じようにマーケティングである。面白い物語ではある。東京都の副知事になることから、金の工面で忙しいのか、かなりの手抜きが見られる。(自作の盗作に近い?)

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2007年7月 2日 (月)

何時もの「ぼやき」

 2007年後半が始まった、が早々に寝不足である。この土曜日曜に蚊に悩まされた。何時から寝室に入り込んだか、一匹の蚊が、夜中に出没してくる。それも決まって2時か3時である。何処から進入してきたのか?顔の辺りに来るから叩くが逃げてしまうらしく、5分ほど経てばまたやってくる。血を吸うだけすえば消えうせるだろうと我慢することにした。それが2日間も続いた。家の住人になって欲しくはないのだが、とぼやく。

 家の住人と言えば、家の改築前には、ガマ蛙が住んでいた。20cmほどの体長であった。のっそりと優雅に歩いていた。普段は何処に住んでいるのか、梅雨時から、夏の初めには出没していた。そんなことから、庭には、改築後、ガマ蛙の石の置物を買い求めて置いている。その時、石屋さんは二匹番で買っていくものですよ、と言われたが、一匹は居ますから、と石屋産を煙に巻いてきたのだが、その後は何処に行ってしまったのか、現れない。あんな体長をしているので、道路を渡るにも騒がれるだろうし、西は3m下に川となる崖である。何だか悪いことをしまったようで、かわいそうだと思っている。石のガマ蛙を眺めては、かえって来いよ、とぼやく。

 後輩からの定年の挨拶状、それに噂も聞こえてくる。人生こもごもの「ぼやき」が聞こえてくる。

「仕事ネ ご機嫌で送る 粗大ごみ」

「仕事なき にくさ懐かしさ 定年後」

「定年後 皮肉ばかりの 女房ども」

<読書>

「かってまま」諸田玲子 文芸春秋

以前にも紹介したが、すごい作家が居たものだ。人間の運命の構成が上手い。人の表現が上手い。宿命を味方にした生き方には元気をもらう。「ぼやい」てはいけない。

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