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2006年12月31日 (日)

大晦日

2006年の大晦日である。2006年はすでに締めくくったのだけれど、なんだか忘れ物をしているようで、不安であった。その理由が分かった。第九を聞いていなかったからである。ベートーベン「第九交響曲」のことであるが。日本は何故か、12月に入れば、この第九があちこちで演奏される。新しい年を迎える「祝祭」として、ボケ爺の若かりし頃は、必ず生演奏を聞きに行っていた。歳を重ねるに従い、ずぼらになって、レコード、テープ、CD-ROM,そして、iPodと、ITの歴史の遍歴とともに、聞き方が変わってきた。

ボケ爺として、第九は不思議な交響曲だと思うし内容にはた異変に感動する。その不思議さの一つは、交響曲に合唱が加わる事に、いまだに不思議な感動を覚えている。それは演奏に合唱が加わるのではなく、演奏を切り裂くように入り込んでくる。ここにマーラーと大きな違いがある。ベートーベンは「音楽」の超越、ニーチェの宗教の超越と共通するところがあったのではないか?二つ目には、この第九交響曲を作曲したときには、耳はほとんど聞こえなかったと言われている。聞こえない状態で、こんな最高の感動を覚える曲が創れることに、ただただ驚く。ボケ爺にはまったく不可思議な事である。だから「歓喜の歌」と言われるゆえんであるのだろう。

来年は、ボケ爺は、頭の働き以外は、まだ五体満足であろう。だからこそ、第九に負けることなく、「歓喜」を創造したいし、「歓喜」を味わいたい。そう思うと、震えがきたボケ爺は久々に風邪を引いたかな。

<読書>

「餃子屋と高級フレンチではどちらが儲かるか?」林 總 ダイヤモンド社

会計を知らない経営者は会社を潰す。そのとおりである。多くの企業で財務分析は常に行われているが、経営はそんなに簡単ではない。数量か、高付加価値化、と悩みは尽きない。本書はそんな悩みを、心地よく解析してくれる。本著で経営者は最勉強を期待する。さて来年は、餃子か、フレンチか、どちらで進もうか?

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2006年12月29日 (金)

2006年の締めくくり

 2006年も、もうすぐ暮れていく。ここで、一年の反省をしなければならないのが凡人の常であろう。毎年、元日には、今年こそ、こんなことを、と意気込んで、実行できないことを知りながら、高い目標を立ててしまう。ボケても、爺になっても、そのしぐさは繰り返される。それだけ凡人だということである。

 さて、今年の期首にどんな目標を掲げたかが、はや、ボケ爺にはそれすら思い出せない。記憶力の悪さは人には負けない、が自慢にはならない。家族の健康?仕事で成果?英会話?趣味をものにする?読書でウン冊以上読む?なぞ、後付になってしまう。家族の健康以外は、きっと守れていない事は明らかである。それこそ、来年は誓いを記載し、残しておこうと反省するしだいである。情けない。

 今年最後の読書になるのだが、年を締めくくるに当たり、最高の傑作に巡り合えた事は、今年は良い年であった、と思う。少なくともボケ爺は、この読書に幸せを感じた。

<読書>

「奸婦にあらず」諸田玲子 日本経済新聞社

「内は若君はんのためだけに生きとおす」身分の違いの一途な恋情を内に秘め、彼女は大老の「影」となった。幕末を生きた忍びの女の激しく数奇な生涯を描いている。女流作家の見る「女」の恋の生き様が克明に描かれている。「愛の流刑地」で男女の恋、特に女性の愛の究極とか、騒がれているが、あれは男からの不倫とか、征服とかの「願望」であって、真実とかの意味は薄い。荒唐無稽なエロ小説の一種ではないか。谷崎潤一郎のフロイト心理学的作品とも異にする。しかしこの作品は、こんな生き方が出来るのが女の情念で、そんなものかと深く考えさせられる、女の心理が学べる。凄い。フィクションか、ノンフィクションか分からないが、ボケ爺の読んだ中で、今年最高の良書だと思った。

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2006年12月26日 (火)

汗をかく

 落ち葉の観賞時期が過ぎる冬場はどうしても、散歩が億劫になる。それも、冬場のトレーナーを持っていないからで、準備不足はゆがめない。そもそもその気が無いことが問題である。すると、体はすぐに反応する。一ヶ月もすると、2キロも太り、今では3キロを越してしまった。やせなければならないと忠告されている体にレッドカードが出てしまっている。

 チャーリーとの散歩道の一つに、仙川の街めぐりがある。その入り口に、「仙川、ゆけむりの里」、なる今、東京都内の、はやりの深層水のくみ上げのお風呂屋がある。そのことを思い出した。(仙川は調布市の東の端で世田谷区と入り組んでいる町で、桐朋学園大、白百合女子大、などの学生の街でもあり、住宅街でもある。近くには、キューピーの本社、栄太郎の本社などもある。わが家はその隣の町である。)

 散歩の代わりに、お風呂で汗をかく、というズルをする事に決めた。650円、設立当時、(多分10年は経っている、と思う。)と変わらない。薬草、ラジウム、サウナ、岩盤湯、露天などの設備を備えており、結構楽しめる。とにかく、人で一杯である。芋の子を洗うとはよく言ったものである。結構大きな駐車場も土日は20台、30分以上の待ちは確実である。当然、そのことは分かっていたので、ボケ爺は歩いていった。

 サウナは二回、ジャグジーで30分、その他、転々と移動して回って、約2時間を過ごした。その効果は、なんと1キロダウンである。よし、毎週来ると、3回で元に戻る計算になる。「ズル」も効果があると、ボケ爺は思わず微笑んだ。

<読書>

「ハゲタカの饗宴」ピーター・タスカ 講談社インターナショナル

外国人がここまで日本の金融業界の中身を知っていることに驚く。表の部分だけでも凄い、と思うのに、裏社会のダーティーな恥部まで知り尽くしていることに驚きである。さらにはその中から抉り出される日本人の性格まで読み取った、このノンフィクションのリアルさは恐ろしい。文章がまた、心地よい、弾むようなテンポも良い。翻訳者の苦労かどうかは分からないが、読みやすい。

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2006年12月18日 (月)

今年の秋

 今日(18日)は昨日と違って、すばらしい晴天の朝である。多摩川を渡っている時に、マンション群の窓が朝日でまばゆい。東を見ると多摩川の河口水面からのご来光である。時間は650分。どうでもいいのだけれど、日の出とは、水平線から、太陽が出始めて時、それとも半分まで出た時なのか?多摩川河口面からのご来光は、第三京浜から出しか見えないものだろうか?わき見運転は長くは続けられない。

 異常気象の続きであるが、昨日の日曜日はいろんな現象を見つけた。我が家のブドウの木の由来の話は以前にした。今年は、今までに無い豊作であった。ボケ爺と同じ、狂い咲きで、もう寿命がなくなり来年は実を付けないのでは、と心配しながら、何時もの通り剪定をした。ところが、何が狂ったのか新芽が出てきた。それだけあったかい日が続いたことになる。20年ほどの期間で初めての経験である。その葉っぱが黄色く透明感のある美しい色をしている。その奥にある山もみじの紅色の紅葉と交差、混合して、なんとも表現の仕様のない心和む風景を味わった。ブドウの紅葉が黄色であることをはじめて知ったような気がする。

 散歩に出かけると、老犬チャーリーとの散歩道をたどってしまう。ボケ爺もそれだけ頭が固くなっている証拠である。実篤公園の中道は、多くの山茶花の大木が伐採されたので、通年よりも明るくなっている。すると、山つつじがこんなにたくさん植わっていたのか、と驚きと、深紅の紅葉が一面に広がりこれはこれで感動である。山茶花と、この紅葉とどちらを好むのか、と問われても答えることは難しい。

 一番遠い散歩ルートにNTT中央学園のコースがある。その学園は、春は桜で有名なのだが、秋はイチョウの紅葉が美しい。今日が最高と思えるような、黄色の花道で全盛である。落ち葉が絨毯を敷き詰めたようで、子供たちが、拾い上げては散らしはしゃいでいる。チャーリーともはしゃいだ思いがよぎる。

 2006年の平均気温は0.3℃上昇したと言う。それにしても、紅葉の次期が十二月半ばから、末まで続くことは異常と言う事であろう。

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2006年12月16日 (土)

エルニーニョ4年ぶり

 エルニーニョ4年ぶり、と天気予報で言っている。つまり、南米ペルーの11月の海面水温がわずか、0.6℃高いということである。このまま春まで続くであろう、とのことである。すると結果的には、日本の南東の海上に高気圧が発生しやすくなって、西高東低の冬型気象が崩れるから、暖冬と、雨が多くなると、いうことである。この1週間は気温が高く、雨が多く、その変化が激しい。すでにその影響を、もろに受けているのだろうか。

 ガイアの説があって、気候も、さらには異常気象も、地球規模で考えなくてはならない、といっている。2006年も異常気象が地球規模で起きていた。夏は、アフリカ大陸の東部で、大雨の災害が続き、インドネシア、オーストラリアでは8月~11月は少雨であった。またガイアは、オゾン破壊による炭酸ガス増加説を嫌がっている。森林の伐採よりも、大陸棚の海水の浪打現象による炭酸ガス封じ込めの方がはるかに大きな量であるという説を唱えているからである。

 今日は暖かい小春日和である。東京にもやっと秋が来たのかと思わせるように、イチョウの葉っぱが黄色く色付、イチョウの枯葉の黄色は格別美しい。心を和ませる光景が出来ている。東京は格別イチョウの木が多い。イチョウの枯葉の落ち方は、さまざまな風情をかもし出す。カラカラと少しずつ、落ちるかと思ったら、ガサガサと多量に落ちるときもある。寒い朝など、大雨のような音をさせながら、ザーッと、一気に枝から黄色が抜け落ちる。薄暗いと、妖怪にさらわれたようである。自然の音楽が奏でられているようで、摩訶不思議である。

ボケ爺の家から駅までの間にあるイチョウの大木が何本かある。その中の一本には銀杏を一杯付けて風の強い朝など、たくさん落ちている。近頃の人はそれを拾おうとしないので踏み潰されて惨めである。今度強風の朝など銀杏を拾ってみたいものである。田舎のうちにあった銀杏の木を懐かしく思い出す。こんな思い出を懐かしむようだと、ボケ爺もさらに歳をとったと、悲しくなる。

<読書>

「これから何が起こるか」田坂広志 PHP研究所

我々の働き方を返る「75の変化」と副題が付けられている。田坂説の集大成のような作品である。「複雑系の経営」で彼はいち早く、わかりやすく、これからの時代は「複雑系」と、いい続けていている。その解説は具体的に実例を挙げながら解説するので、ファンが多い。今回は特に、その「複雑系」の進化が、ウェブ2.0で加速するといっている。まさしくその通りの変化が起きている。賛同の著書である。

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2006年12月15日 (金)

なぜBlogか?

 なぜブログを書くのか?と聞かれたことがある。理由ははっきりしない。自叙伝的に、「何かまとめておきたい」、がその主たる理由である、と信じている。以前、社内イントラネットにHPを立ち上げたことがある。何百人の社員に仕事上のことで、あるいは人生論的なことで、ベクトルを合わせたかったから、自己主張をすることを主な目的で、書き込んでいた。結構反応があったことが、ブログを書くきっかけでもあった。ボケ爺の家族からは、「目立ちたがり屋」と不評である。

 本屋で立ち読みをしていたら、「日記ブログで夢をかなえる」(経沢香保子)なる本が出ていた。「日記を書くことで、自分の成長が加速して、思いが伝わる。それによって、周りに、すばらしいことが起き始めます」といっている。ボケ爺の場合はそんな変化は一向に起きてこない。きっと、自分の成長が止まっているか、後退しているからだろう、と疑える。

 ブロッガーで人気のある有名な真鍋かおりのブログを覗いてみると、「ウーン、あんなことはかけないよな、あんな形ではかけないよな」と、諦めてしまう。ボケ爺と時代が違うのか、周りで起きる環境が変わってしまっているのか、とにかく、「朝起きて、顔を洗ってご飯を食べて、学校に行きました。途中で、何に、何に出会いました、怖かったです。先生は、夫婦喧嘩でもしたらしく、不機嫌で、ひげもそっていませんでした。あそこの店の駄菓子は美味しいです。」調は日記なのだろうか?

 とにかく、時代が変わった。ボケ爺は思想も持たない頑固爺で、こんな自叙伝的ブログで自己満足しています。

<読書>

「快楽なくして何が人生」団鬼六 幻冬舎新書

こんな新書が出てくるようになり、時代も変わった。使われている言葉は禁句ではないのかと思われるが、堂々と書かれていて、「カツ」か「アッパレ」と言うしかない。腎不全の治療を断り、死を待ちながらの快楽的自叙伝であるらしい。徒然草を座右の書として、「一期は夢よ、ただ狂え」の父からの思想を守り(ボケ爺は子供にこんなメッセージは言えない)、狂った人生を送ったとの暴露本は、「不揃いな秘密」より面白い。「快楽の追求なくして、何の人生か」は本物の人生だ。

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2006年12月11日 (月)

大阪の「値ごろ感」

 今日の大阪は雲がかなり出ているが晴れている。朝日に輝く淀川がきらきらと輝いて浮き立っている。だが、どこか寂しげな気配を漂わせている。時々、カモがいっせいに飛び立つ光景はいつもの冬の風情である。昨日の小雨の闇を飾っていた、オフィス街の窓はまぶしく朝日を反射させている。淀川の橋に立ち並ぶ街灯も昨日の演出は無く唯の街灯でしかない。通る車は少なくひっそりとしている。

 大阪駅の北にはヨドバシカメラのビルが立ち活気を呈しているという。その近くにある馬券売り場も昨日は最高の人手だったと、報じていた。その脇には広大な元JRの空き地が放置されている。再開発だと言って、立派な計画はあるようである。しかし、その開発で大阪経済の地番沈下を救うことは出来るのであろう、と危ぶむ声も多い。

 昼間のビル間で行きかう人の数は数年前に赴任した時と比べ、いっそう少なくなっているようである。が、夜の歓楽街は、さすがに難波人、忘年会シーズンもあわせ、道路一杯に、老若男女の酔っ払いがうごめいていた。

 マーケティングの話題は価格評価、「価格のつけ方」に興味が移ってきている。値ごろ感の経済心理学がはやっている。大阪の商売はそのようなビジネスモデルの発祥地であった。値引きの仕方、おまけのモデルはみんな大阪から発信されていた。IT革命が古いビジネスモデルを駆逐してしまったのか、そうとも思えないのだが。このホテルも、宿泊料からすると、東京よりすこぶる満足である。2倍以上の満足価値の価格差がある。

 今一度、大阪が商業の活気を取り戻して欲しい。と願うのはボケ爺だけではないであろう。

<読書>

「おまけより割り引いてほしい」 徳田賢二 ちくま新書

 商品の価値はどれだけのお金を払うか、の結果である。つまり「値ごろ感」が商品の売れ筋を決める。ベストセラーも、衝動買いも、そんな価格表示に一喜一憂している。

本著は「値ごろ感」が何処から来るのか?を徹底追及している。新書版にしては重い内容である。

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2006年12月 9日 (土)

小雨むせぶ大阪

 旧友と久しぶりの会食後、すこぶる気分良く酔いが回ってからのホテルへのご帰還である。ホテルの30階から見える、雨にかすむビル街が一望できる。特に大阪駅の西側のビルは個性がある。駅の北には昔からある、空中庭園などで有名になったオフィスビルも、土曜の夜だというのに、何処のビルにも負けないように残業の仕事に追われている光が伺える。そんなに急ぐ仕事があるのはいいことなのだろうか。その割に経済の回復は思うに任せない。あまりにその差に何か割り切れない気持ちが押し寄せる。

 淀川に架かる橋が何本か見える。オレンジ色の街灯が提灯のようにぼやけて、穏やかに輝き、その上、川面にもむせびながら映る姿は、例えようのない哀愁を感じてくる。その哀愁の中身はいまひとつはっきりとはしてこないのだが。小雨の宵は大阪に良く似合う。

 阪急電鉄の梅田駅から出入りする電車は、規則正しく制御されている。家路に急ぐ人々のために、デートの時間を気にしている人のために、さらには、いろんな人生の人たちのために、そんなことを気にすることなく、右に左に行き交っている。

 肌寒い小雨は、いろんなことを考えさせる。百人十色の人生はどのように落ち着いた社会を作り上げていくのだろうか?人、一人一人、物憂げに考え込むように、幾分うつむきかげんな早足が気になる。

 しかし、酔いはそんなことを忘れさせて、何時までも、雨にむせぶ宵闇の光景を、ボケ爺の弱い記憶脳のキャンパスに、どのように描こうかと思いながら、ウトウトとしてしまった。

<読書>

「使える読書」斉藤孝 朝日新聞社新書

斉藤の著書は徹底して実利を目的としている。「使える」、とは「引用する」ためにであって、著者から盗み取るために読書すると、言い切るところがすごい。想像を巡らす、いつか役に立つかも知れない、脳の老化防止のためなどという漠然とした読書を批判する。人生のため使えなくして読書は無い、と言い切れる切れのある解説である。

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2006年12月 5日 (火)

2℃の朝

 今日は、昨日より寒い。2℃を示す。東京の日の出は630分を過ぎる。その前に家を出る。東の空は雲が無く、赤く染まってやがて黄色となり、さらに青空へと静かに急ぎ変わっていく。そんな自然の色使いは誰が教えたのであろうか。朝起きは「三文の徳」に預かることなど、この方、全く無い、寂しいボケ爺である。

 環八から第三京浜の高速に乗ると、多摩川の橋を前面に、西川崎地区の全景が広がる。その川の上空には、何組かのカモ(?)の群れが、黄色に変わりかけた大空を、舞い、駆け抜ける。朝早くから、なぜ急ぐのか?なぜ舞っているのか?鳥の目覚めは早いから、ボケ爺と同じように、暇つぶしか、生活習慣病予防のためか。

 横羽線1号は、事故のため、東神奈川から渋滞だ。ゆったりと横浜駅から、東神奈川の東側を眺める。遠くには「みなと未来」開拓地が見える。高層アパート群が、これでもかと、高速道路わきまで迫ってきている。こんな高級アパートに、こんななにたくさん入れる豊かさが日本にあるのだと、ボケ爺はやっかむ。また嫌味に、地震ではきっと、このあたりの写真が出て無理な建設云々と、書き立てるのではないかとも想像している。

 高速道路の街頭は規則正しく、美しく続いている、その上にはきっちりと一羽ずつのかもめが陣取って、人間様の争いを観察をしているように見える。きっと、事故現場も、その原因も知っているに違いない。空はすっかり青くなってきた。遠くに、また、何組かの鳥の群れが、じゃれあっている。

<読書>

「真相」横山秀夫 双葉文庫

 横山の初期の短編集である。この短編集は、人間心理のいくつかのパターンの習作が組まれているように思える。「噂話の信憑性に惑う心」「疑心暗鬼、人を信じきれない人間の心」「家族愛と世間体との狭間の心理」「強制集団生活、と個人心境のギャップ」などなど、人間の心の傷、とその傷の綻びの行為に犯罪が潜む。犯罪はすべて心の弱さと、言い切るように様に買い続ける横山ミステリーに乾杯!

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2006年12月 4日 (月)

師走

 師走に突入したとたん、気温が下がり、各地より本格的な雪の便りが届く。誰かが、ボケ爺に言った、「この一年は特に早く過ぎました。いろんなことがあって!」と。「歳をとるとそんなものではない。年々加速度的に早くなるよ」とアドバイスしたつもりである。良く考えると、歳をとるに従い、早く時間が過ぎる、と感じるのは本当だろうか?

 若い時よりも、雑用は多くなっていることは事実である。一つのことに集中が出来なくなっていることで、集中力をなくしている。それに、とにかく、歳をとると良く忘れることである。集中できないから、雑用だから、記憶をなくする。その記憶の忘却が、過去を振返った時に、時間を短縮した思い出となって、時間の経過が早く感じるのではないだろうか?と考えてみた。

 あるいは、集中とは違う意味で、考えすぎる。つまりあれやこれやと。そのあれやこれやのいろんな考えを部分的に忘れてしまうことから、時間経過が飛んでしまって、時間が短縮されるのかも知れない。とにかく、記憶と時間の関係ではないかと思う。

 そんなことを考えながら、実篤公園の中道を歩いていると、夕焼けが綺麗に輝く、これも今までに無かったことで、多くの木々が伐採されてしまった結果である。鬱蒼としていた時と伐採された時との時間が短縮されてしまっている。わが街を歩いていても、至る所で、店の看板が入れ替わっている。ビルが出来、ハイカラ(死語)な店に変わっている。いずれも、ファーストフード、ファーストクリーニング、激安、それに感じだけよくした店に変わっている。これらも、「時間短縮」、を中心にしたビジネスモデル、つまり忙しくせわしなく、「皆で走ろう、この人生」、と呼びかけているように、ボケ爺には思えてくる。人生折り返し点を優に過ぎたボケ爺としては、「この一年は長かったね」と言える生活をしてみたい。

<読書>

「ナイチンゲールの沈黙」海堂尊 宝島社

ミステリーである。本題以外に、長々と本題の環境つくりのストーリーが続く。その雑学には驚かされる。本題も、進んでいるのだか、後退しているのだか分からない。とにかく、長々と本題を待たせる。内面の心理を読むのではなく、状況から本題を推測するように仕向けている。こんなミステリーのあってもいいのだ。疲れた。

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