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2006年9月 9日 (土)

エッセー「子猫殺し」

 日本経済新聞で、今日最も活発な反応があったのが、818日付け夕刊「プロムナード」欄に寄与された「子猫殺し」と言う、坂東眞砂子氏のエッセーを巡る議論である。意見が約1450件も寄せられている、と言う。

 その要約は、タヒチ島に住む著者が飼い猫の産んだ子猫を谷間の空き地に捨てて死なせた、として、生き物の「生」を問う。「獣にとっての「生」は人間の干渉なく生きることである」と言う。タヒチ島の自然環境から、避妊手術をせず、自然の中での「生」の充実を選び、子猫殺しを選んだ。それに伴う心の痛み、悲しみを引き受けている、と言っていた。

 それに対し、「不愉快だ」「生命を軽視している」との意見が寄せられているのである。一方、納得がいく、と言う意見はないことはないが小数だ、と言う。意見の多くは、「野生動物とペットとしての動物」、とは違う。「避妊手術で種を絶つ、事と、子殺しと同列ではない」と言う事である。

 それに対して、「そもそも、飼うべきでなかった」と、言う意見が多くある中で、「現代文明の偽善性を指摘したのではないか」「生と死を巡り社会環境の変化を再考すべきである」と言う、賛同するわけではないが、このような事件、事実、社会意識の変化など、これをきっかけに、大いに議論するべきだという意見もある。

 人間は肉を食べる、そのために殺される動物は数知れない。殺さなければ生きていけない。一方無駄に殺す事と、何が違うのだろうか。「殺される死」は共通なのだろうか。

 ペットの子供の処理は困ったものである。飼い主が見つかれば幸いであるが、多くは処分に困っているのだろう。田舎時代の子供頃のことを思い出すが、犬はおかげで、飼い主は見つかったように思う。子猫は一度に産まれる数も多いので、半分ぐらいしか飼い主が見つからなかった、と思う。残りは神社に捨てに行ったことを思い出している。今思えば、やはり買うべきでなかった、と言う結論になる。

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坂東眞砂子は、日本の小説家・作家です。 [続きを読む]

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