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2006年9月22日 (金)

雲の上

 デンバーは一転して雨となった朝を迎えた。ニュースによると、西の方では平地まで雪となったと報道していた。

 デンバーの空港は変わった空港でもある。メインビルディングは巨大なテントで出来ている。アメリカの空港は十人十色と言うけれど、いずれも変わった姿を見せる。人間にしても、十人十色である。日本など二人二色程度である。否、それ以下かもしれない。日本の空港は想定内ということで一色しかない。それでも、人間関係に悩んでいるし、空港などでは表示が悪いと騒いでいる。日本は甘えの構造、と言った人がいた。誠に真である。

四方に滑走路があり、風の影響を考慮されていると思える。サンフランシスコまでのフライトは、ロッキー山脈越えである。雲はそのロッキー山脈をすっぽりと覆っている。山脈を飛び越えるまでは、2時間程度の時間が必要である。アメリカ内でのシートは窓際が良い。広大なアメリカ大陸のいろんな顔を見るのが楽しみである。所どころ、雲の合間から見える山脈は雪あり、砂漠ありで、その変化の激しさに、心が奪われる。遠くで、飛行機雲が右に左に見える。

ウトウトしている間に、アナウンスはシートベルトの確認を知らせる。快晴のサンフランシスコはフィアモント市から侵入する。サンファランシスコ湾を滑空して着地となる。ふと気がつくと、隣に平行して侵入している飛行機がいる。ほんの200m横であろう。同時の着地である。日本ではニアミスと大騒ぎであるが、アメリカでは飛行機はバス程度と考えているから、問題ではない。そのように設計されている。特にここのこの平行滑空はアメリカでも有名である。

ここまでは定時のフライトである、が、ゲートでドアが開かない、係りがいないのである。女性パイロットは盛んに、定時フライトだが、地上係りが悪いと誤っていた。15分ほど待たされてしまった。その間、その女性パイロットは香港までのフライトを担当すると、コックピットから出てきて、早く次の任務に着かなければ、と客室乗務員と冗談を交わしていた。この先、無事でありますように。

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2006年9月21日 (木)

デンバーにて

 コロラド、デンバーはロッキー山脈の東側で、全米の中央より、西側に位置していて、広大な平野の中にある。高度1300mぐらいか。この近くで、さらに西北へ、ボルダー市がある。日本のマラソン選手の合宿地で有名だ。

 多少のトラブル以外は、連日、晴天で昼間は気持ちがいい。ホテルから見えるロッキー山脈の頂上の一部はすでに雪がかぶっているように見え、くっきりと浮き出て美しい。朝は冷え込む。7~8℃、位になっているようだ。さすがに、朝のウォーキングは寒くて出来ない。(夏物は用意していたのだが、寒さ対策を怠ったからである)街路樹も少し黄色に色づき始めた。こんな日に、学会の出席のため、連日、部屋の中で缶詰は、内容が分からないこともあって、気が滅入る。

 市内の人々は、雰囲気がどちらかと言えば、シカゴ市的ではないかと思う。マー、格別変わったことは無いと言うことだ。Coorsビールの本拠地であるようだ。どのレストランも置いているという。また、Coors球場もホテルの近くにある。市電が走っているし、メイン通りは無料のバスが走っていて、ドイツ的な雰囲気も感じられる。

 これで、長期ロードも終わった。後は、アクシデント無く、無事帰国できることを期待する。

<読書>海外出張には、数冊の文庫本を持ち込むが、疲れを癒す、軽めのものが多いので、ここでは、紹介出来ない、悪しからず。

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2006年9月17日 (日)

USA3日目、16日

 JW Marriott Hotelは空港から北に、繁華街を通り過ぎてはるかに遠い場所にあり、カジノに無縁なリゾートホテルである。一泊はもったいない。砂漠の朝は雲ひとつ無い晴天である。ラスベガスは益々発展している。リゾートアパートの建設ラッシュであるし、ホテルも北にどんどん増えている。ネバダ州の財源は健在のようである。

 昨日、飛行機から見えたフーバーダムは強風のために送電線が倒れて通行止めだと、ニュースは知らせていた、そんな強風だと感じなかったが。そういえば、最近の大きな事件は、ホーレン草を食べて一人の死者がでて、50数名が危険な状態であるとか、バクテリアが繁殖しているらしい。スーパーからホーレン草のパックが消えているようだ。なんだか、昔、日本でのモヤシの事件とよく似ている。

 デンバーの空港は良く出来ているが、広大な平野の中だけに、風が強く、よく揺れる。着地のときに子供が泣き出した。デンバーはよく来たが、ボルダーへ行ったので、ダウンタウンに泊まるのは初めてである。

 またまたアクシデントである。カードが使えない。他のカードは持っていない。泊められないと、言われて、カード会社とすぐに交渉するのに電話が必要と、繰り返しの交渉で、やっと部屋には入れた。まだ続く、アクシデント、何とかして欲しい。

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2006年9月16日 (土)

USA2日目、15日

 今日は、Newarkから、Denver経由Las Vegasである。空港が混雑するとの噂で、ホテルを早く出た。チェックインカウンタは全く混んでいない、さらに、チェックも数人の待ちで、すんなり通過、暇をもてあますばかりである。外をなんとなく眺めていた。小雨の中、Fedex,UPSの専用貨物ターミナルは、それぞれ6機ほど、待機して忙しそうに行き来している。人を運ぶより、大きなターミナルを占有している。

 それでも1時間半ほど待って予定通り乗り込み、定刻にドアが閉まった。が、10分もしても動かない。何のアナウンスも無い。悪い予感がした。すると、ゲートから離れたが、自動車の引率は外れないまま。また泊まってしまった。やっとアナウンスがあった。混雑しているので、しばらく待ってくれ!と。自力で動き始めて、シートベルトを締めよ!のアナウンスがあり、これで、25分遅れで出発だ、と喜んだが、先ほどのFedexの倉庫の前で止まってしまった。結局、70分も待機してやっと滑空した。

 飛び立つと、低気圧の関係か、下降が時々起きて、ジェットコースター並みの揺れである。エンジンを全開にして飛び上がって欲しいと思うのだが、ガソリン高騰の折、無駄なガソリンは使わない、と言わんばかりで、パイロットは揺れを楽しんでいるようだ。客室乗務員もシートを握り締めて不安そうに外を眺めている。隣もその隣も、チケット取り出しては、不安そうである。Denverはハブ空港で、そこから乗り継ぐ人が多い。一般には1時間もあれば十分に、空港は設計されている。誰一人、乗り継ぎに遅れたときにどうしたらいいのか、聞かない。おとなしくしている。途中、アナウンスがあり、約40分遅れで到着するだろうと言う。また、いっせいに、チケット取り出し、眺める姿が痛々しい。結果は、70分の遅れである。ボケ爺のフライトはすでに飛び立ってしまっていた。フライトの変更を急がなくてはならない。ラウンジがすいているだろうと思って、交渉しても、会員で無いと言う理由から、中には入れてくれない。サーヴィスカウンタに行け、の一点張りである。遠いサーヴィスカウンタは無常にも無人であり、別のところに走る。そこは、50人ほどの待ち人がいる、事務員は2人して対応している。右に左に走ったが何処もだめである。次のフライトはB24番ゲートだ。そこへ急行したが、カウンタには誰も、とおもいきや何処からかスーと現れた。やっと次のフライトに座席を確保した。空港まで迎えに来てくれる人に、急いで、電話をしたが、留守電である。多分、定刻どおり迎えに来てくれているドライブ中なのだろう。10分ほどして、再度電話したがまた繋がらない。結果は留守電を聞いてくれていた。2時間ほど空港で待たしてしまった。そんなアクシデントの一日であったが、面談は最高に盛り上がり、目的は成功に終わった。そこの会食も美味しくいただいた。

 しかし、最後まで、アクシデントである、カードにガードがかかって使えないと言う。アクシデントは、これで終えたい。

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USAに出発、14日

 Newark at New Jerseyに向かって、予定通りに到着することを祈りながら出発した。NJには強い思い出がある。OEMビジネスを始め時に、今から20年ほど前だったと、思うが、Bell研究所に売り込みに行った。遠くから見えてくるビルディングは四角で、それでも10階程度の建物は、そんなに驚くほどのものではない。しかし中に入ると、膨大な広さの建物で、吹き抜けの、それも広大な規模で、いたるところにレストランがあって、その規模に度肝を抜かれた。こんなところで研究するに、日本ではありえない恵まれた環境を垣間見た。IBMから、一度ワトソン研究所に来て欲しいと言われているが、その規模はその3倍とも5倍とも言われている。早く実現したいと思っている。その規模に日本の筑波と言えど、環境の貧弱を嘆かない訳にはいられない。隣の韓国に負けている分野も出てきている。

 シカゴに無事着いたのだが、繋ぎの便が1時間半ほど遅れているという。早々に面会者に時間の変更を連絡する。さらに悪いことに、乗り込んだ飛行機は滑走路で動かなくなった。Newark空港で激しい雨のために30分程度、出発時間を遅れせよ、との、ことだからしばらく待機する。結果は許可が出るまで、40分とかかった。

 目的地に近づいてくると、入道雲(積乱雲)が夕日に染められて美しく輝いている。高度を下げ始め、その中に突入すると、しばらくは雲海の中を滑っていく。すると突如、明るい光が差し込み、また積乱雲の美しく輝く林が現れる。二重構造になっていたのである。さらに高度を下げて再び雲海の中を突き進む。アナウンスは雨が上がったことを告げる。無事に滑走路に滑り込んだ。

 夕立でのアクシデントで思い出した。アトランタの空港で、滑走路で1時間ほど待機したことがあった。その時は、わが飛行機に落雷するのではないか、と恐怖を感じながら、雷の激しい稲妻の舞踏会を観覧する幸運に興奮したものであった。

 面会者とは、当然楽しい夕食の一時期であった。USAでトップクラスのステーキハウス(Shula‘s2)での16オンスのプライムリブを堪能した。

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2006年9月12日 (火)

隗より始めよ

 年取ったボケ爺に、新たな業務指示が出て、苦しくも検討している。ボケ爺のサラリーマン人生は、ほとんどが、企業内アントレプレーナーの連続であった。今回も、ある開発部隊を立ち上げるための議論をし、ロード二日目を終えた。そんなことから、宿泊は高輪プリンスホテル、さくらタワーとした。

 その理由は、自分で開発した製品をOEMとして売込みを始めたときに、海外からのお客様の接待場所として、会社から近いということもあったが、この高輪プリンスホテルの立派な日本庭園の中庭のある「桂」と言うステーキハウスを活用した。つまり、今日のビジネスマンとしての事始の場所であった。そのころを思い出して、「隗より始めよ」から、心を新たにして気を引き締めるため、このホテルを選んだのである。その庭園は未だにその面影を保ち変わっていなかった。「桂」も健在であった。

 そのころの接待費は一人当たり、1万5千円程度であったが、今も値段は変わらない。質のほうは分からない。そこでこれからの企業内起業の構想を練っている。場所に申し分は無い、結果がでるかどうかである。

 その日本庭園は朝から秋雨でしっとりと濡れて静かなときが流れていた。

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2006年9月11日 (月)

日本の混雑、に思う

 長期ロード出張の初日は東京である。6時半ごろに羽田から品川に到着した。新幹線の駅が出来て品川駅が変わったことは良く知っていた。東出口のビジネス街も大幅に変わってきていたことも知っていた。しかし、ビジネス人の帰宅時間でもあったであろうが、その混雑ぶりには驚いた。知っていたときの倍ぐらいの人々で混雑していた。

 なかなか真っ直ぐに歩くことが出来ない。それはともかく、ぶつかることを無くして歩けない。ボケ爺は一生懸命よけているのであるが、よけるとその隣の肩とぶつかってしまう。昔はもっとすんなりと混雑の中をすいすいと泳いでいた、と思っていた。ボケ爺が鈍くなったのか、以前より混雑が激しくなったのか、よけることに協力する人が少なくなったのか、の3点の理由しかない。

 ボケ爺としては、どうしても、最後の、よけることを協力する人が少なくなったのではないかと、思う。もう少し秩序があったのではないかと思う。感でどちらによければいいか、相手も読んでくれていた。そのころは、正面を真っ直ぐに見て歩いている人が多かった気がする。こんにちは、相手の顔を見ることも無く、自分は自分と、人との関係を避けるように見て見ない、つまり相手は眼中に無い、と言った人生の達人が増えた様子である。時代が変わったといえばそれまでであるが。ボケ爺はそうでなく、人生に疲れて、気配りなどやってられない、と言った生気の無い姿が目立つ。 何か日本の良さがまたひとつ失われつつあるようで、ボケ爺には寂しい気がする。これで本当に経済は成長に向けて助走しているのであろうか、と考えさせられた。気になる初日であった。

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2006年9月10日 (日)

秋の始まり

 金曜日の夜から土曜日の午後まで、しとしとと、秋雨が降り続いた。天気予報で知る限りでは、寒冷前線の通過のようである。これが過ぎると、本格的な秋に入るだろうと、予想していた。

 窓を開けて寝ていた所為か、寒さに朝早く眼が覚めてしまった。慌てて、窓を閉める事となった。それでも午前中は、あれこれしている間に過ぎてしまった。窓から見る空は透き通った紺色で一杯である。いそいそと散歩に出かけることにした。日焼け止めに、帽子をかぶろうかとも思ったがやめにした。空を良く眺めたかったからである。

Tシャツ姿ではさすがに肌寒い。そんなに気温が下がっているし、乾燥もしてるのだろう。いつもの山を登る。行き交う人々はほとんど長袖である。気候に敏感であり、豊かさの身持ちが、すぐに対応できるのだろう。豊かな国の香りを感じる。

至る所に、まだ緑の新鮮な感じの松ぽっくりが落ちてきている。昨日は、あまり風はなかったはずだが、不思議である。そんな中、緑色した毬栗も落ちている。この毬栗は割れていて、中身はもうない。誰かが持っていってしまったのだろう。そんな合間に、萩の紫の美しい花が美しく哀れを感じる。ススキの気配は見当たらない。ススキがあるのかも分からないほど、黒松を中心とした林は生い茂っている。松の木の先端から見える空の青さの透明さに、秋の始まりを感じた。韓国では、こよなく秋を愛し、この季節を楽しむようだ。ベンチの至る所には若い二人が肩を寄せ合って、夏の恋の清算に語り合っているように見えた。

散歩は「ひらめ発想」にいいとは、京都にある哲学の道を散歩していた、西田幾多郎の弁である。凡人にはいまだ、散歩をしながらのひらめきは現れない。散歩は周りの変化が気にしなくなるほど同じ道を行き来しないといけないのではないかと、脳科学者の茂木健一郎の説である。ボケ爺のように、キョロキョロしながらの散歩ではひらめの発想は全く望めない。まだまだ煩悩が多すぎるのか。

明日から、約二週間の長期ロードに出かける、そんな感傷もあるのか。

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2006年9月 9日 (土)

エッセー「子猫殺し」

 日本経済新聞で、今日最も活発な反応があったのが、818日付け夕刊「プロムナード」欄に寄与された「子猫殺し」と言う、坂東眞砂子氏のエッセーを巡る議論である。意見が約1450件も寄せられている、と言う。

 その要約は、タヒチ島に住む著者が飼い猫の産んだ子猫を谷間の空き地に捨てて死なせた、として、生き物の「生」を問う。「獣にとっての「生」は人間の干渉なく生きることである」と言う。タヒチ島の自然環境から、避妊手術をせず、自然の中での「生」の充実を選び、子猫殺しを選んだ。それに伴う心の痛み、悲しみを引き受けている、と言っていた。

 それに対し、「不愉快だ」「生命を軽視している」との意見が寄せられているのである。一方、納得がいく、と言う意見はないことはないが小数だ、と言う。意見の多くは、「野生動物とペットとしての動物」、とは違う。「避妊手術で種を絶つ、事と、子殺しと同列ではない」と言う事である。

 それに対して、「そもそも、飼うべきでなかった」と、言う意見が多くある中で、「現代文明の偽善性を指摘したのではないか」「生と死を巡り社会環境の変化を再考すべきである」と言う、賛同するわけではないが、このような事件、事実、社会意識の変化など、これをきっかけに、大いに議論するべきだという意見もある。

 人間は肉を食べる、そのために殺される動物は数知れない。殺さなければ生きていけない。一方無駄に殺す事と、何が違うのだろうか。「殺される死」は共通なのだろうか。

 ペットの子供の処理は困ったものである。飼い主が見つかれば幸いであるが、多くは処分に困っているのだろう。田舎時代の子供頃のことを思い出すが、犬はおかげで、飼い主は見つかったように思う。子猫は一度に産まれる数も多いので、半分ぐらいしか飼い主が見つからなかった、と思う。残りは神社に捨てに行ったことを思い出している。今思えば、やはり買うべきでなかった、と言う結論になる。

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2006年9月 8日 (金)

中秋の名月?

 仕事が忙しくなったり、お酒を飲んだりした朝は、早く眼から覚めてしまうことが多い。それだけで、ボケ爺の歳が知れてしまう。今日の朝は、5時ごろに、仕事のことが気になって目が覚めてしまった。と言うと、仕事人間のようで、自慢しているわけではない。つまらない、くだらない事が気になる歳になり、恥ずかしいが告白している。次の話に結びつけるための枕の導入をしているだけでもある。

 西の空には大きなまん丸な月が沈むところである。こんなに美しく、温かみのある色は久しくお目にかかっていない。冬には寒々とした冷たい満月の輝きは良く出会う。思わず、夕焼けかと、間違うほどの明るさと、穏やかさである。秋に澄み切った空の色なのだろう。7日はカレンダーで調べてみると、

旧暦の715日となっている。カレンダー上の中秋の名月は今年に限って106日だそうだ。旧暦は本当に難しい。

 にょきにょきと、たけのこのようなアパート群の奥には小高い松ノ木の群生の山がある。その山に沈む月に浮かび上がる櫛のような松の木の群は、冬場では、もっと哀愁を帯びていたであろう。ここ、韓国でしか味わえない幻想的な美しい光景である。

 そんな絵を書き残したいと思っている。いつになったら実現できるか?思っても実行に移せないのが情けない。どんどん絵心が衰退していく悲しさを味あう今日この頃である。

<読書>

「幕末気分」野田武彦 講談社文庫

こんな眠れない夜にぴったりの読み物である。幕末の歴史の見方を裏の裏から描くと、表とは全く違った見方が現れてくる。江戸幕末のそんな光景が、現在に通じるとい言う。「幕末の遊兵隊」など、個として、無気力になる心境が良く想像されている。「徳川慶喜のブリューメール十八日」は、情の薄いリーダに従えば行く先が知れる、そんな事は現代に繋がる、と思う。

 歴史の見方は本当にいろいろと語りかけてくれる。

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2006年9月 3日 (日)

三四郎と昔の思い出

 先週は、毎日酒漬けなってしまった。やはり改めて、酒はいけない。脳の細胞を殺してしまう。どんどん退廃して言っているように思う。そんな時には、いつも、父を思い出し、田舎を思い出す。酒好きの父は何を感じて、考えて生きていたのだろうか?

 そんな田舎をイヤだとの思い出、東京に出てきた。その頃、東京に行くための電車は、特急というものがあった。特急券は高いので、急行を活用した。夜行寝台も会ったのだろうが、やはり、高価で乗るわけには行かなかったのだろう。急行(一部快速)で東京まで行くためには、3回の乗り継ぎが必要であって、14時間ほど掛かった。所々で調達する弁当は唯一の楽しみであった。今でも思い出す美味しい駅弁は小田原駅で買う鯵すし弁当であった事を鮮明に覚えている。今もあるのだろうか?新幹線になってから、小田原駅を使う事はなくなってしまった。

 漱石の三四郎を読んだ時、冒頭で、熊本から東京への行く道程の出来事が書かれていて、良く似た経験に驚いた物である。イナカ者としての都会生活の窮屈さも含めての話である。そんな事から、漱石の作品を読むきっかけにもなった「三四郎」が懐かしい。しかし、当然、名古屋で一泊しないと東京までいけない状況ではなかった。(残念ながら、サイドに女性が乗り込んできた事は、今日の飛行機を含めても、ほとんどない。そこが漱石と違うところで、作家になれなかった所以でもある)

 今まで、何百回となく往復したが、今日では新幹線となり、4時間ほどで、移動できる世の中となっている。その分、イナカが都会に近づいてしまって、差が無くなったことでもあろう。そんな社会が犯罪の地域普遍性に関係している事と思う。

<読書>

学生と読む「三四郎」石原千秋 新潮選書

重い本である。簡単に読み流せると思っていたのに、4日(一日2時間)ほど掛かってしまった。三四郎の作品の解釈に重点があることと思っていたのに裏切られた。文科系の学生の勉強に仕方が主であった。理科系が実験で苦しむのと同じように、文系には、ゼミという実務で、こんな鍛え方をされるのか、と驚いている。

 理科系は到底、文筆家にはなれないと思った。基本的な文章の書き方など習わないのだから。このように書いている事が恥ずかしくなっている。

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