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2006年6月14日 (水)

心の病

 漱石の生い立ちは複雑だったそうである、と一般に言われている。「坊ちゃん」を読み返している内に、漱石の生い立ちが明確に描かれている場所にぶつかった。引用すると「おやじはチットもおれを可愛がってくれなかった。母は兄ばかり贔屓にしていた。・・・・こいつはどうせ碌なものにはならないと、おやじは云った。乱暴で、乱暴で行く先が案じられると母が云った。・・・御覧の通りの始末である。・・・・」今まで、痛快さに紛れて、さらりと書かれていたので読み飛ばしてしまっていた。「坊ちゃん」のこの幼少の頃の悲惨さは、この作風にも、他の作品にも、大きな影響を与えているのであろう。「坊ちゃん」の読み方を変えなくてはならない。坊ちゃんが無鉄砲、生真面目、一本義と描かれているとすると、漱石は、「坊ちゃん」ではない。

 そう言う、ボケ爺もこの「坊ちゃん」と全く同じような幼少時代があったことは以前に話したと思っている。だから、漱石の作品になんとなく惹かれてきているのだろうか、改めて、考え込んでしまった。幼少の頃の「疎外感と劣等感からの心の病」は一生抜けきらない。それを隠そうとする心は、「皮肉れと見栄」として必ず現れる。そんな二面の自分に葛藤して狂気化することを隠すことに苦しんできた、今もすっきりとしない。黄色が好きだけれど、青紫に描くのも「心の病」であろう。「恥」の多い生活もその現れの一つであろう。恥は見られることの恐怖である。いつも恐怖を感じている。しかし、他人の視線がなくして生きられないのも確かである。そこに、「心の病理」、「意識の病理」、がある、と考えている。

 「心の病」を描いた小説は多い。漱石は「文学論」で「精神衰弱と狂気とは否応なく余を駆って創作の方面にむかわしむる」といい、作風の中に現れ数々の名作を生んでいる。芥川龍之介の神経症の現れた「歯車」「或る阿呆の一生」は有名である。

 近年では、「博士の愛した数式」小川洋子は記憶障害を、そのものずばりの「幻覚」渡辺淳一は少女時代に受けた精神的外傷を、ミステリー分野では数々あるが、「容疑者Xの献身」東野圭吾のずば抜けた天才の純愛、など、など数え切れない。

<読書>

「坊ちゃん」夏目漱石 岩波文庫

漱石の作品はいろんな読み方が出来る。何度読み返しても、新しい発見がある。そこが不思議である。

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