重い著書
珍しく山を散歩した。梅雨空で薄暗さが、生い茂った黒松で山路は一層暗くなっていた。
「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ、とかくに人の世は住みにくい。」は「草枕」の冒頭の有名な一説である。夏目漱石が、熊本の山路を歩いている時に呟いたと言われている。まさにその心境である。度々思い出すが、なるほど、この世の生き様を巧く描ききっている、これ以外の明言は他にはない。
大変に重い本に出会ってしまった。この本を熟慮すればするほど、こんなコラムなど書けない日々が続いた。やっとの思いで、書くことにする。
「日常は、決して空気のように存在するのではない」「さまざまな動的要因の微妙なバランスの上にかろうじて成り立っている」「日常は、いかなる場合にも無垢では存在しない」「日常に埋没するものに、日常が書ける訳がない」と言い切る。
「漱石の「坊ちゃん」において、漱石は坊ちゃんではなく、赤シャツである。狡知を巡らしてうらなり君からマドンナを奪っていく、赤シャツこそ漱石その人である」とも言い切る。赤シャツは「こころ」における先生に真っ直ぐにつながっていく。そのような尋常ならざる自己認識に基づく表現行為が成立しているから、「坊ちゃん」は誰が呼んでも楽しめる青春小説であり、骨までしみる悲しみと慈しみに満ちた傑作たり得ている。」と言う事に、大いなる共感を得てしまった。このような調子で、漱石を解体していく。今までないない漱石論が展開されている。表現者は痛みを伴う。痛み無くして人間の本質は語れない。日常にその痛みが存在する、を基本とする。
「生身の個として逃げようの無さを引き受け続けたからこそ、漱石はその生涯を創造者たり得たと言う。これは小林秀雄に通じる事であるとも言う。
その本の名は「クオリア降臨」茂木健一郎(文芸春秋)である。小林秀雄の「無常と言う事」以来の、否、もっと大きなショックを受けた作品である。脳科学者の見る、小説の世界は、物質的存在の脳は有限だけれど、脳が生み出す表象の世界は無限である。意識の中の全ての表象はクオリア(質感)を単位としている。と分析をする。
本著は、脳化学者からみた小説の読み方を追及している。どの章も、ボケ爺にとっては今までに出会った解説よりも鮮明で、新鮮であり、理解が行き届いた。それだけに、次に何をしたらいいのか分からなくなってしまった。先ずは基本から、全てを読み直さなくてはならない、重い課題を頂いた。新たな苦難の道をこの歳で歩き始められるのか。しかし、一旦知ってしまった世界を避けるわけには行かないだろう。
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