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2006年5月31日 (水)

故郷がなくなる

 田舎を思い出すとき、二つの辻が瞼に浮かんでくる。我が実家の東と、西に辻が通っていた。東の辻は、小学、中学、高校、それに山陽本線の駅に通じ、未来を夢見る辻であった。西の辻は、村の人々との暮らしがあった。夏休みになるとムシロを敷き、わらじ造りを長老から教わった。祭りに履くのだという事であったが使ったためしはない。左右形が違っていた。長老は、それ以外に、獅子舞の踊りも教えてくれた。村の人の陰口も沢山聴いたような気がする。日陰であり、辻を渡る風が暑さを忘れさせてくれた。

 少し前、入院している母の見舞いに帰郷した時、実家の前を通ってみた。跡形もなく崩されていた。実家を継ぐ長男の家を作るからである。100年以上もの古い家であり、故人となっている父が修理をしながら使っていたので、当然、建て替えなくては住むことができない。母はつい先ほどまでそこに住んでいた。

 もう帰る家がなくなった、帰る故郷も失った、と実感した。当然、二男として生まれ実家を離れた運命は十分に理解が出来ている。実家という存在を、意識できるほど人の思いの歴史の重さを知らなかった。

 悪戯者であり、出来の悪かったボケ爺は、父や母に、何回ともなく、蔵や、屋根裏に押し込まれた事がある。鉄の扉の蔵の中は真っ暗である。始めは怖くて、大いに反省もしたが、慣れてくると、蔵の中のものをひっくり返せるようになった。それ以来、母は懲りて、蔵の作戦を変えて、屋根裏にした。今から考えると、小さな体の母が、3mはあるはしごを、このボケ爺を担いで、よく上ったものである。裏にあった、農機具や米の貯蔵などの小屋は、友達を集めかくれんぼう遊びなどした思い出が詰まっていた。

 そんな思い出の跡形はすっかりなくなった。我が子に心の田舎を残さなければならないと思った。子供の育った今の住まいを子供たちの故郷にするにはどうすればいいのか、これから考えなくてはいけない。

<読書>

「辻」吉井由吉 新潮社

生と死の深遠を見極めると、思い出すのは辻である。人の心の記憶には、辻があり、その辻にあらゆる記憶が凝縮されている。辻にある思い出が人を苦しめる。苦しみを慰めるのも、また辻から始まる。人々の過去は多種多様で、何なのか。極度に丁寧な描写は、すぐには前に進めないが、進みながら後戻りする読み方は、人の過去を一層深く呼び起こす。そんな作風であった。

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2006年5月30日 (火)

DNAで有機EL素子

 東京工業大学の岡畑教授らのグループで、生物のDNA(デオキシリボ核酸)を加工して、有機EL素子の試作に成功した、赤、青、オレンジに光るという。素子の構造は、従来より簡単で、サケの白子から作ったという事も驚く。将来はディスプレーへの活用に期待できる。

 いよいよ、ここまで来たか、と感激している。将来の電子素子は生物科学の応用となると思っていた。不思議な生物が沢山いる。生物科学の応用で、先ず、光に応用されるだろう、それには、DNAか、酵素の働きを応用した物でないかと、おぼろげに考えていました。それだけに、今回の成功は嬉しい。

 これを機会に、情報処理の分野の研究が加速されるのではないか、と思います。DNAは2nm線径である。配線、金属との組み合わせ回路、塩基などの応用でコンピュータなどが出来るはずである。きっと、今の速度よりは100倍にはなるだろう。

 日本は遺伝子解析の方針で、決定的な失敗をした。当初、日本は世界の中でトップクラスであったが、政府など、その重要性を認識せず、支援を惜しみ、アメリカに負けて、壊滅状態である。今後、この分野の活用では、我々は多額のロイヤリティを払わなくてはならない。

 この生物工学の分野で、まさか、失敗を繰り返すことがあってはいけない。将来に、この重要な技術を、官民で応援、支えていかなければならないと思います。

 免疫細胞制御などの仕組みも解明が進んできている。最近の日本は革新(イノベーション)がない。この分野が最も可能性がある、と思っている。政府はよく科学、技術の評価をして、政府方針として夢を国民に示す義務がある。

<読書>

「動物の言い分、人間の言い分」日高俊隆 角川ONEテーマ21

今日のテーマの本はあまりにも専門過ぎるので、ここで紹介するにははばかれる。我々、自然に学ぶ事を心がけるといいと思う。直接関係ないのだが、動物の行動学から学ばなければならないことが斯くも沢山あるのか、と、考えされられる

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2006年5月29日 (月)

知的生産

 11日の日経の夕刊に、「知的発見の楽しみ、梅棹忠夫さんに聞く」という記事が載っていた。「知的生産の技術」(岩波新書)なる言葉は確か35年以上も前の衝撃的な言葉であった。その衝撃を今でも鮮明に覚えている。それまでは、知的な発想は、苦学を学ばなければ、得られない、は当たり前と思われていた時代である。それにもかかわらず知を生み出せる打ちでの小槌のようなノウハウがあるらしいと。

それ以来、数知れない、知的生産技術、知的発想の著書が出版された。これらの著書からどれだけの知が生産されたであろうか?いささか疑問である。ボケ爺は未だに不完全燃焼である。

 どうやら、梅棹先生も84歳になっても未だに満足されていないらしい。癌もどこ吹く風!知的活動をまだ少なくとも10年は続けると言っておられる。それらの内容を要約してみる。

 「知的能力は衰えない。」失明を60代にしたが、周りに助けられて活動が続けられている。出来ない事はある、運動、将棋、囲碁、音楽である。音楽が出来ていると、もっと人生は変わったかもしれない。絵なら今からやれるかもしれない、数学も出来そうだ。

 「自分で考え、体験した事が基本になる。」仕事、社会で学んだ事をベースにコツコツ知を耕す事が一番である。自分で観察、考察した知識という素材を用いて理論を組み立てる姿勢で、大事なのは「設計図」である。それが思想である。設計図を表現するのが楽しい。

 「知的生産をしないと生きる価値がない」、それが生きる証である、と言い切る。何かを作り出したい願望を持ち続けることである、やる気の問題とも言う。

 知的生産をするための基本は、他人の考えを知ることである、それは引用するためでなく、自分より先に考えていた内容がないか探すためである。また、独創のためには「ひらめき」大切である。ひらめきを得るためには、当然、知識を詰め込むことと、瞬間に生まれる何かに気がつくこと、それを捕まえる捕捉装置が必要とのことである。

 といわれても、凡人にはやはり、簡単にはノウハウは身に付かない。チャーリーは枕元で、バカなボケ爺はボーとして生きるしかないから諦めよ、と言う。

<読書>

「「複雑系」とは何か 吉本良正 講談社現代新書

梅棹先生には悪いが、正当な知的活動時代から、今は複雑系、その中での知的生産の技術が必要である。そんな時代でも、知的生産の技術は変わらないのか。それを考えるために複雑系のまとめとしては良く書かれている。

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2006年5月28日 (日)

雨に打たれ!

 かなり曇って暗かったので、目覚めは遅くなった。それでも、午前中は霧雨が降ったり止んだりで、このまま止むのかな、と思っていたが、午後に入り、急に、南東の風が出てきたか思うと、大粒の雨が降ってきた。アパートの窓に叩きつける。その音の激しさは、ここに来て久しく聞いたことがない。なんだかリズミカルなようで、不規則な揺らぎの音に、ソファーにもたれこみ思わず、うたた寝をしてしまった。30分ぐらい寝たであろうか、目を覚ますと、風はおさまっていて、雨は小降りであったが降り続いていた。

 反対側の窓は雨に濡れていない、その窓からは、小雨に濡れて、緑を抱いた小山が美しく、まばゆい。山裾に群生している白い花をつけたアカシアはすっかり花を落としている。小山だが山頂付近は煙っていて見えない。目を右に向けると、裾野の緑が剥ぎ取られて、赤土がむき出しになっている。高速道路の建設を急いでいるようだ。赤土と緑のコントラストも、悪くはない。

 一日中雨の休日は始めてかもしれない。こんな日は、本を読むに限る。何か行動しないといけないと言うせき立てられる事なく、その時間割を考える事が必要ないのだから、心からのんびりとできる。

 それでも夕方ごろ、雨が止んだのか、子供の声がにぎやかに聞こえてくるので、頭が霞んで来たことでもあり、酸素を取り入れようかと、少し散歩に出かけることにした。窓ガラスが濡れていて雨の量は分からない。下りてみたが、やはり傘がなければ少し歩くとシャツがしみるぐらいの雨が降っている。子供たちはそれでも、傘をささずに、戯れている。

 玄関から見える歩道には、バラの垣根がある。真っ赤なバラの花が雨に洗われてその鮮やかさが真紅となり、引き立っている。この国は赤い色のバラがほとんどである。どうして、赤がほとんどなのかとたずねた事があったが、答えは、税金の関係だそうで、輸入する時に、赤色のバラだけが関税が掛からなったからだ。今は、そんなことはなくいろんな色が栽培されている、と言う。嘘のような、ホントの話だそうだ。

<読書>

「無痛」久坂部 羊 幻冬舎

加害者も被害者も本当の「痛み」を理解する事ができない。治療においても、「痛み」をなくする、ことと、治療をすることとの相関を取る事は難しい。また、人はどこまで正常でどこからが異常なのか、も分からない。罪なき罰と、罰なき罪があるがどれが一番悪いのか。そんなテーマを複合して、複雑に絡ましてのミステリは、現代に、多くの課題を提示してくれる。久しぶりに一気に読めた。課題は深いが、ストーリには無理があるように思える、のが欠点か。

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2006年5月27日 (土)

病と闘う

 病に戦うのではなく、「病と共に生きる」と、言い「苦」と闘っている人が居る。脳梗塞で倒れてもなを、活動されている、多田富雄(免疫学の第一人者)と柳澤桂子(遺伝学)である。

 「書き続けなくてはならない、何故か、を自問しているから。人間に希望を持っている。演劇や音楽に概念でない力を感じている」、と言う。これらの方々は、概念の世界だけではなく、今も、第一線のロジカルな活動をもされている。

 多田富雄先生は、最近、著書が出てこないと思っていたら、NHK(昨年124日)「脳梗塞再生、免疫学者多田富雄の戦い」だったかで出演されていた。ダンディな先生からは想像も出来ないくらい変わり果てておられた。しかし、手足は不自由でも、学生は押し寄せてきて先生の意見を乞う、それに答えている姿は驚くばかりである。最先端の科学ですから、勉強していなければ答えられないはずである。それにもまして、再び、能楽の演奏に挑戦され、さらに新作能の台本も沢山書き続けておられる。

 「いのち」を考えるのは、これまでに取り組んできた事と無縁でない。人の体には、免疫系と、脳・神経系と言う、自分と他を区別する二つの仕組みがある。免疫学の延長線に脳がある。いずれも自己を決めるからである、と言う。

 何でも興味を示すボケ爺は、多田先生の著書を読んで、免疫の働きを知ると同時に、その仕組みで、2点の驚きを今でも覚えている。免疫細胞は、自己、と非自己を認識する細胞があるという事、60数個(正確には忘れてしまった)あって、はっきりと働きが分かっているのは、その内22個だったか24個のみである、と言う。その他は、何らかの補填をしているらしい、が、はっきりとはしない、と言う生命の構造に、いたく感心したものだ。そう言う「冗長性」に人間社会の営みを重ね合わせる事ができるからである。これらを工学の中に取り入れなくてはならないと、教えられたからでもある。これからも免疫学、脳科学の進歩に目が離せない。

<読書>

「免疫の意味論」青土社 多田富雄、

ここでは、免疫学の基本が丁寧に解説されている。

「生命の意味論」新潮社 多田富雄

免疫学の応用編というべく、免疫学から見た生命の不思議さを教えてくれる。

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2006年5月23日 (火)

感情と個人差

 感情に個人差があることなんて、当然です、と思っています。同じ花を見ても、同じ本を読んでも、同じ映画を見ても、感動する人、しない人が居ます。恋人には感情に同情してくれる人を選ぶのが常識です、と思いきや、脳を鍛える観点からは、自分と違和感を感じる人の存在が貴重なのだと言う、その人は脳科学者で有名な、茂木健一郎である。

 色、形や音などは個人差が少ないのだそうです。しかし、好き嫌い、喜怒哀楽といった感情の反応は個人差がかなり大きく現れるのだそうである。

 人は生きる上で、遭遇する不確実な状況に対処するために感情は進化した。不確実な状況の下では正解を一つに決めきれないから、感情の働きを通じて判断し、行動する事で人間は生き延びてきたと言っても過言でないらしい。

 答えが一つでないから、その答え方に、人によって採用する「戦略」が異なってくる、と言う。どうなるか分からない局面で「さまざまな戦略」(=感情の反応)を取れるから生き延びてこれたのである、とのことだ。つまり人は「曖昧な意思決定を戦略的」にしていることになる。それが前頭葉を刺激して活性化しているし、脳を鍛えている事になる、と言う。

 一般には、感情的にぶつかる人に出会うと不愉快になる。そんな時、「アア、この人は不確実性に対して私と異なる「戦略」をとっているのだ」と、思うことにすれば腹も立たないであろう。「感情の多様性」が「豊かな社会」を作り上げているらしい。ぶつかり合う感情が、「脳を鍛えている事」になる。「前頭葉の活性化」に良いと言うである。さて、ボケ爺がボケないようにするために、夫婦喧嘩は「戦略」として大いに続けておかないといけない、と改めて考えさせられる。

<読書>

「秘密」池波正太郎 文春文庫

こんなに多様な場面で展開させられ、それについていけると、脳は鍛えられる事間違いなし。偶有性で、人の気持ちは逐一変化してくる。そんな変化を複雑に操る様はさすがに、池波でなければ描けない。とにかく面白い。

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2006年5月22日 (月)

場の空気を読む

 人間には「場の空間を読む」驚くべき能力がある、と言うのは脳科学者、茂木健一郎である。

今日、携帯電話や、インターネットが私たちの生活スタイルに及ぼす影響は益々大きなものになっている、と議論がなされている。若者の犯罪の増加、親子のトラブルなど、現在社会のひずみは全て、このITの発展によるとの非難が噴出している。本当にそうなのだろうか。

携帯電話、ウェブの発展で、場所や時間の制限を越えて、且つ、自由に意識や、知識を活用している。メールなどは世界と言う場を、時間差なく、複数の人、場所を結びつけてしまう。昔と比べれば、格段に多い会話をして活動している。

このような変化は、当然、脳の働きに何らかの刺激か、変化が起こっていることと思う。脳内では、場所、時間を越えた情報の処理をしなければなりません、茂木健一郎博士は「場の空気」は複雑で豊かな物になっている、と、言う。

変化が急で付いていけないという批判があるが、茂木健一郎博士は、人間の脳はそんなやわなものではない、さらに発展すると言い切る。

その例として、モーツァルトその人であるという。複雑な文脈を引き受けて驚くべき創造性を発揮した。歌手は誰にするか、台本は何時出来るか、舞台装備は、王様の好みは?次から次に、現在人も顔負けの気配り「場の空気」を活用して創造性を操っていたのである。現在はモーツァルトのような能力が必要である。今、モーツァルト的活動の仕方を見直さなければならない、と思う。

<読書>

「容疑者Xの献身」東野圭吾 文芸春秋

偶然性でありながらも、それにか耐えながら、心を統制しながら、意識を制御しながら、自己を確立して、献身的な愛を育てていく。「場の空気」の活用である。

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2006年5月21日 (日)

脳を鍛える

 体を鍛えるように、脳は鍛えられる、といいのだが。体を鍛えるすべはよく分かっている。運動をすればいいのである。このことは万人が知っている。その為に、人々は

道場で教えを乞い、スポーツクラブで汗を流す。年寄りには、歩く事が良い、と散歩が進められる。いまでは正しい散歩の方法まで唱えられている。

 しかし、脳については、どう鍛えればいいのか、簡単ではない、とされてきた。「読み書きそろばん」は古くから言われている基本の方法論であった。それをしてどんな脳に鍛えられるのか具体的ではなかった。とにかく勉強をすればいいとは分かっている。脳の発達は、3歳までで、80%に達し、8歳までには99,8%は完成すると言われている。ましてや、20歳を過ぎれば脳細胞が死んでいく、それはあたかも衰えていくとまで言われ、どうしようもない、と諦めていた。しかし近年になって、歳をとっても発展は続く、と慰めのような、人に迎合するようなことを言う人も現れてきた。

 近年、脳の機能の解明は随分と発展してきたようである。論文の数が、それを物語ると言う。脳についての本の数も衰えを知らない。右脳左脳、男女の脳の違い、など近代的解明学がいつの間にか影を潜め、ポスト近代では、いずれの方法論も前頭葉の働きに注目を集めているようだ。

 東北大の川島隆太博士は、前頭葉の活性化が脳を鍛えることになる、と前提を置き、前頭葉の活性につながる、行動を定義してきている。簡単な計算、声を上げての読書、目的を持って指を使う、コミュニケーション、笑いが良い、子供との会話、ペットとのふれあい、など、老人を中心とした臨床実験から実証してきている。

 一方の説、脳科学者として活躍の目立つ茂木健一郎博士が居る。それは「偶有性」が脳を鍛えるのだと訴えている。いずれも前頭葉の働きである。意識としてのクオリアを如何に活性化するか、それは偶発的なものであるという。不確実性であり、それを乗り越えるところに課題があると言う。如何にドーパミンを増やすか?つまり脳にとって心地よさ(快楽)を、「偶然性の体験」を増やす「意欲」で脳が鍛えられる、と言う説である。「思わぬ幸運に偶然出会う能力」=「セレンディピティ」が大切である。

 体を鍛える時にはどこを鍛えるかによりそのメニューが決まっているように思える。一方、脳を鍛える時、どの機能を鍛えたい、とはっきりと言い切ることも出来ないし、とにかく頭が良くなって欲しいのだ。そこが悩みである。脳の鍛え方が出来れば、このボケ爺、早々に鍛えてみたい。それまでは寝て待とう。

<読書>

「ひらめき脳」茂木健一郎 新潮新書

ひらめき脳を作ることは、脳を鍛えることであり、自分(個人)の意識を作り上げる基本であると言う

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2006年5月20日 (土)

アカシアの花

 今日は会社の関係で、山腹にある研修所に出かけた。朝早く、少々辛かったのですが、「早起きは三文の得」と言われるように、すがすがしいひと時を過ごす事が出来た。

 そこに待ってくれていたのは、アカシアの花である。さらに、昨日と比べて5℃ほど低い気温で17℃ほどと聞いた、爽やかな空気である。無色の空気ではなく、新緑の浅い緑で一杯である。それにまして、アカシアの匂いである。ライラックの匂いもいいが、それと並ぶ初夏の甘い匂いで、思わず目を閉じてしまう。空気もこんなに美味しいとは、ここ暫く忘れ去っていた。そこに薄っすらと朝日が山々の間から差し込んで来た。朝方の霧にむせていた芝生や、木々の露がきらきらと輝いてくる。この国と、この会社に、こんな光景が味あえる幸せを感謝する。

 夕方、夕日が差し込むアパートの窓から、すぐ目の前にある、解放されていて、すばらしく立派な小学校の庭を眺めると、子供が何かをして騒ぐ声と、笑う声が何時までも続いている。豊かな社会の一面である。その小学校の隣のアパートとの間には、落葉樹だけれど針葉樹が10階ほどの高さまで伸びている。十数本ほどあり、なんと言う木のなか知らない通り道があり、心を落ち着かせてくれる好きな一角が見える。

<読書>

「信長の棺」加藤廣 日本経済新聞社

信長の遺骸がなぜないのか、消えたのか、を推測した歴史ミステリーである。とにかく面白い。読んで損はないことを保障する。

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2006年5月19日 (金)

技術人材

 最近、よく技術人材の育成などのコメントが新聞を賑わっている。これも、以前に紹介した「生物の同期性」の一つなのだろうか。

 これからの世界戦略には、世界で勝てる技術が必須である、と言う。当然であろう。その技術で勝つためには、その人材を発掘しなければならない。発掘すると言う事は、そんな人材が居る、と言うことが前提である。その前に、育成する事を考えないといけない。などの課題が提示がなされている。

 技術がある、蓄積されている、と言うだけで、技術革新は出来ない。他に何らかの要素があるだろう、と、「技術革新学」なる国際シンポジウムは3月末に開かれていた。そこでは、「技術は製品化されてこそ発展する」、だから、「何を研究するのか」ではなく、製品かに「どう研究するか」が重要なようである、で、まとまったようである。つまり、技術革新には、想像以上に「社会、文化の要素」との絡みが重要であると言う事が分かってきている。技術革新とは未来のことではあるが、「歴史の研究」からしか未来は予想が出来ないとの結論のようである。このシンポジウムに集まった人々との経歴は分からないが、技術家の経験からは、ある一面では分かるけれど、今日の「複雑系の社会」ではそんな単純な物ではない。歴史から発想したものが顧客の心をつかめなくなった事が課題である。

 バブル以降、企業において、真っ先に削減されたのは、企業教育訓練費用であり、研究開発費である。そんな人材教育費が削減されて今日に至っても十分に回復はしていない。企業活動は、今日は、優秀な人を雇用すればいいと思う風潮であるが、企業内で、長年かかって多様な能力を持つ人材を育てる事が最も重要な時になっていると思う。「目標へのベクトル合わせ」が重要だからである。

 キャッチアップ時代から、フロントランナー型になるにつれ、「人材の質」が重要である。そんな人材を育成するには、社会的支援システムが必要で、コンテスト、奨励金、スポーツ同様なエリート的育成支援なども必要であり早くこんなインフラを整えてもらいたい。

<読書>

「知の経営を探る」常盤文克 PHP研究所

人材の活用と、育成を大自然の摂理に学び、仕事を楽しくする方法など、黙示の知などの重要性を訴えている。

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2006年5月18日 (木)

眼中にない?

 次世代のアジアをどう描くのか?日本はこのことを真剣に議論をしているのであろうか、疑問である。相変わらず、アメリカを見ているだけである。経済的な売り場としてのみ、BRIC‘sに注力をしている。しかし、中国への進出は遅れている。製造工場はかなり進んでいるが、販売市場は遅れている。お隣韓国のほうがはるかに進んでいる。ロシアについても、インドについても遅れている。言うまでも無く、政治問題は論外である。

 果たして、この状態で、日本はアジアの中で生き残れるのか?日経の517日付けに、アジア、とりわけ、日本、韓国、中国の将来展望について、百人のアンケートが載っていた。

 「密接な関係をもつ国は日本」である。に対し、中国は、百人中一人、韓国は、八人のみである。ちなみに、中国はロシア29人、アメリカ23人、韓国は中国53人、アメリカ19人である。今後アジアの結びつきは、中国は90%、韓国は74%、日本は54%と日本以外は相互依存の戦略を考えているように思える。シンガポールはそれを踏まえて、着々と準備に励んである。最近は特に教育戦略を強化して、インフラを整えて、大学の誘致も盛んにしている。

 失われた10年とよく言われるが、それは、「日本経済の停滞」のみ言われる事がほとんどである。実は、アジア戦略、WWの市場戦略など手が付いていなく、世界での日本はどうあるべきか?の議論と対策が遅れていることが気にかかる。

 一方、「心配ない」、それは、中小企業の部品技術は中小企業を中心として、100品目以上で市場を占有している物がある、と、花王の元社長で特別顧問の、常盤文克は言う。確かに、基本要素となる部品は重要なポイントであろう。しかし、それらの市場の規模は小さくなっている。デジタル化の時代、その点も徐々に、技術内容が変わってくるであろう。

 世界から、「日本は眼中にない」、なんて言われないようにしなければならない。今からでも遅くないはずだ。

<読書>

「コトづくりのちから」常盤文克 日系BP社

モノ作りで、No1になるには、それを実現するために、コトが大切である、という。コトとは、「もの狂いする」ほどの集団を作ることである、という。ベクトルの結集は、人的情熱しかない、と断定する。そんな実例を数多く解析された、参考になる実用書である。著者は「知と経営」ですばらしい、知的経営の展開をされていた。

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2006年5月14日 (日)

散歩とドッグショウ

 いつもの日曜日の過ごし方で、午後から散歩に出た。散歩のコースも変わりがない。しかし何か変わった光景はないかは注意している。10mから20mはあろうかと言う黒松に覆われた林の中の散歩道は適当な木漏れ日があって、松の匂いと新芽の匂いが適当に混ざっている。新芽は、以外に細くて大きくなりきれない柏の木である。ところどころブナの木、カシの木なども備わっている。松も今は盛んに新芽を噴出している、その為に古い葉が散歩道に層をなして降り積もっている。

 日曜日の割には人手が少ないような気がする。先週の連休で出歩きすぎたのであろう。それでもところどころ、木陰でマット敷き、いろんな取り合わせの人がひと時を楽しんでいる。そんな中、バイクのデリバリー屋が携帯をしながら通りすぎたり引き返したりしている。こちらでは、公園の中までデリバリーサービスがあると言う。ある人の弁によると、学校の運動会までもが昼休みにデリバリーサービスを利用している、と言う。アズマが弁当を作るのをサボるらしく、そんな状況を嘆いていた。女性が強くなったとも嘆いていた。出産率は1.02になってしまっている。これは一概に女性が強くなった勢ばかりではない。社会機構の課題である。日本と良く似た理由で、社会環境の状況がある。

 中央公園の北西に大きな芝生の広場がある。市庁分室の前でもある。いろんなイベントが開かれる。その近くまでたどり着いた時、急に犬の鳴き声が多くなり、強くもなっているので、何が起こったのかと野次馬根性で見に行くと、韓国ケンネルクラブ主催のドッグショウであった。ペルグミチャグも協賛している。審査コートは5箇所ほど儲けられて、次から次と審査が行われている。周辺には、テントが立ち並び、出場を待っている犬が所狭しと、控えている。どこを見渡しても、ダックスフントはいなかったが、おおよその種類は揃っているであろう。シェパード、シビリアンハスキー、ゴールデン・・・、の大型犬は迫力がある。プードルはまるでファッションショーである。そんな中、フリスビーを追っかけて捕まえる競技をしていた。なかなか面白い。フリスビーを捕まえても飼い主のところに帰らず、持ち去る犬もいて笑いを誘っていた。老犬チャーリーを思い出した。合掌!おかげでその周辺の広い道路は大渋滞である。こんな散歩は豊かな韓国の生活面を見せてもらうチャンスである。

<読書>

「顔のない裸体たち」平野啓一郎 新潮社

ネット社会になり、恥、と、自己の表現がバランスを崩してしまっているのではないか、と問題提起している。顔をモザイクすれば簡単に裸になれるのか?本性と主体とは一体なのか分離してしまうのか、分離する本性とは本当の人間の本性か?

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2006年5月13日 (土)

萌木色

 若葉の季節も過ぎて、葉の色は日々緑が濃くなっていく。萌木色と言えば、手短なところでは、カシの木の葉っぱであろう。その若葉の林の中に入り、太陽の光線を通す色が、なんと言っても、萌木の色ということであろう。ブナの若葉も萌の美しい色の代表だと言う。

 ここ韓国の街路樹もいろんな木が植えてある。ほとんどが若葉を通り越して、緑豊かなみずみずしい、すがすがしく、そして、たくましくそびえたている、その姿はアパート群の殺風景な幾何学的な風景を一新させる。たくましい森林となっている。

 この町の一角には、結構、長く続くプラタナスの街路樹の並木道が4箇所ほどある。そのプラタナスが新芽を噴出し始めている。街路樹としては、もっとも遅い芽吹きである。あんなに大きな葉っぱも、芽吹きの葉っぱは、やはり小さく、薄緑であり、柔らかそうで、触れば傷つくようで、太陽の光に反射する光が、なんと萌木色なのである。一週間もすれば新緑の美しい並木道となり、若者が手を繋いで、恋を語りながら、明日の夢が生まれる街となるであろう。

 一瞬の春風が萌木色の匂いを運んでくる。その匂いはやはり蒼い。しかし、自動車社会のこの国は自動車の騒音、排気ガスで、その情緒を打ち消してしまう事が残念である。

<読書>

「小説の自由」保坂和志 新潮社

小説を考える。小説とはなんだろうか?小説とは、自分を問う、社会に問いかける、自由な試みである。作家がいろんな問いかけをしている小説は、この解説で暴かれていく。時代とともに変化もする。世界に挑戦もする。小説はもっと自由な表現があっても良い。サー、そんな世界を探検してみよう。

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2006年5月12日 (金)

市場原理主義とは

 ライブドアの騒ぎは一段落した。残すは、裁判で、真の問題点が議論されるだろう。単なる業績公開の不正の問題だけでなく、株価操作、資金調達のあり方などにメスが入ることを期待している。次は、村上ファンドの方法について問題が浮上している。株価操作で、ファンドに投資している人の利益のみを還元する、と言う事から、逸脱して、会社乗っ取りに近い操作を仕掛けてきている。

 これらは、市場原理主義の建前と言いながら、個人の名誉欲、権利欲、金持ち欲の全てを手に入れようとしているように思える。純粋な経済原理の追求とは思えない。人間のもっとも醜い、本性をむき出しにした行動のように思えてならない。果たして、これが市場原理主義の行き着く先なのだろうか。こんな人間の本性から、市場原理主義が捻じ曲げられて、無意味な規制が施されると、経済の発展の将来に汚点を残す事になるであろう。 

 村上ファンドの阪神株については、強欲な戦略でなく、経済のみの原理で考えて欲しいものである。

<読書>

「乱世を生きる、市場原理は嘘かも知れない」高橋治 集英社新書

勝ち組、負け組はなぜ生まれたのか、そんな社会は嘘の固まりか。どうして生きていったらいいのか分からなくなっている。だから、何をしても勝ちたくなる。すると泣ける人も出てくる。嘘で固めなくてはならない。

「蔓の端」乙川優三郎 講談社文庫

「貧乏」と、「不幸」とは違う、と言うテーマで人間の本性をえぐり出している重い課題を巧く描いている小説である。乙川優三郎の作品は、いずれも、重い小説であるが、人間の本性をえぐり出す表現の巧さは、この人を置いていない。時代小説ではあるが、現在の企業社会の、新本主義社会の中に現れる矛盾を描いている。

 以前に「むこうだんばら亭」を紹介したと思う。先のない人生を、行き場のなくなった男女を鋭く考察して描いている。

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2006年5月10日 (水)

日本電産、永守社長

 以前に、ビジネスの先生として、日本電産の永守社長を紹介した事があります。ハードディスクのスピンドルモータを軸に、日本のモータ会社を次から次にM&Aして、業績を伸ばしている。M&Aした会社も生き返っている。

 「社長に聞く」、と言う事で、永守社長のコメントが新聞に載っていたので、要約する。

1)     要素技術と、商品化技術とは違う。商品化技術は経営者の心構えで決まる。

2)     潜在力のある会社の伸ばし方は、働く人の成果が認められる企業経営をする。つまり汗を流した人を評価できる企業であるべきである。

3)     業績のよい企業は皆が汗を流して働く。業績の悪い企業は、働かない。

4)     そして、実力主義である。

5)     頭が悪くて努力しない人が一番悪い。頭がよくて、働かない人がその次。頭が悪くて、努力を惜しまないのがいい。さらにいいのは頭がよくて、努力も惜しまない人である。

6)     朝遅刻するとか、無断欠勤する人は最悪である。

7)     勝ち組、負け組の二極化が違ってきた。大黒字化、か、大赤字である。

8)     昔は、商品力、原価力、マーケット力で決まったが、今は、時間軸で決まる。人より早く、発売できるかで決まる。スピードが全てである。

9)     時間軸の差は、開発力、技術力、経営者の意思決断の早さ、である。

10)             10年前と比べると、10倍の速度が必要となっている。

<読書>

「経営革命の構造」米倉誠一郎 岩波新書

何時までも革命が必要である。そんな折、改めて、経営革新の歴史を学び整理する必要な時である。

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2006年5月 9日 (火)

教養とは

 今日、「品格」、「けじめ」などが話題になっている。強度の業績主義時代の中にも、「教養」の必要性が強調され始めているように思える。教養についての論議は長い歴史がある。「高学歴」=「教養」を強制された時代から始まる。初期は福沢諭吉の「学問のすすめ」前後から始まるのだろう。

 今日では、「教養主義」は非難の的であるようである。「ようである」とは、そもそも「教養主義」なる物がよく理解できていないからである。

 そんな状態であるが、思い出す事がある。大学時代、友人と言えば一浪より二浪の友人が多かった。そんなひねた友人は、それなりにもっともらしい人生観を持ったおじさんのような存在であった。いろんな意味で刺激されて、今日のひねくれた人格が身に付いたことに感謝をしなければ、そんな友人に申し訳ない。そんな友人の中で特に、マセタ者がいて、彼が、この「教養主義」を身に付けなければ、「一人前の人間ではない。」「一緒に輪講をしよう」と呼びかけてきた。二年生の時であった。「教養」と言う事に多少気になったので、早々参加した。

 その時の最初の「教養書」は「三太郎の日記」阿部次郎であった。何を読んで、何を議論したか、すっかり忘れてしまったが、「男は悩み、苦悩の中で生きないといけない存在である」「何でこんなに、人生は?人生とは?」と考えないと生きていけないのか、との疑問だけが残った。その次が、「愛と認識との出発」倉田百三であったが、全く何も残っていない。最後まで続いたかも忘れてしまった。その友人はそんな状態にあきれ返って、いつの間にか輪講は辞めてしまった。

 その後、「若きヴェルテルの悩み」を読んだが、なんだか分かったような気になったものである。そう言えば、「君たちはどう生きるのか」吉野源三郎にもで会った。漱石に傾倒する中で、教養主義に見切りをつけることとなった。それは、漱石の「新聞屋が商売なら、大学屋も商売である」と言う一言からである。この時代、漱石が小説で生きていくにはどれほどの苦悩があったのか想像を絶する。

 その後も、時々、教養主義が芽を噴出す。今日は、改めて、若手の何人かがその論争を始めている。

 そういう中で、科学技術の面で、設計の、商品開発に関する、「教養主義」たる「定石論」なるものをまとめたいと思っている。矛盾かな?

<読書>

「グロテスクな教養」高田里恵子 ちくま新書

知的マゾヒズム宣言!とも言っている。受験勝者の優等生は他人に知的性を示さなくてはならないと気負った若いエリートの苦悩に日本的教養主義の歴史が詰まっている。

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2006年5月 8日 (月)

よい季節

 5月はよい季節である。一斉に咲いた花が盛りとなっている。ここでは、今は、つつじ(チャルチョ)がいろんな色を放出している。それに、ライラックの花が、特に紫色が多く、長く咲き続けている。その甘いほのかな香りがなかなか得がたく、快適な心地よい気持ちになり、楽しませてくれる。空は透き通り、山々の木々は新芽が浮き出し、街路樹も新緑で彩って、さわやかさを通り過ぎ、日差しをさえぎる格好の姿のように見える。

 しかし、所謂、夏風邪ではない、春風邪にかかってしまった。咳が出るし、鼻汁が出る。熱は出ないが、これが結構ヒツコイ。このよい季節を無駄にしてしまったと、後悔する。

ここ十数年来、風邪をひいたことがないなんて自慢したとたん風をひくなんて、気がたるんでいるより他はない。少し暴飲暴食が続いたのかもしれない。もっと体力をつけなくてはならないと考えるこのごろである。

老犬チャーリーと散歩している時には、「ボケ爺、歳が歳だけに、無理をスンナよ」と良く注意をしてくれたものだ。チャーリーが他界してから、そんな注意をしてくれるものがいなくなったことも重なっているであろう。老犬チャーリーの口癖の「ボケ爺、無理スンナよ」を今一度かみ締めて、生活習慣を改善していく事にする。

<読書>

「「脳」整理学」茂木健一郎 ちくま新書

脳は世界との交流の中で得たさまざまな体験、経験を「整理」して、消化する「臓器」として進化し続けている。脳はコンピュータのメモリーのように、入力情報をむき出しのまま記憶するわけではない、と言う。脳は入力を「整理」し、出力の時も「整理」して言葉にする。それが人間の脳である。その「整理」から、自分と言う意識を見つけ出して、自活の方法を生み出し、新しい知恵が生み出される。

 「世界知」と言う、データに基づく、科学的検証によって得られる知識、と、「生活知」と言う、経験、曖昧な知恵とを如何に融合させるかが「生きるヒント」となると言う。もっともっと、「整理」を活発にするには「偶有的」な出会いをもっと体験しなければならないと言う。脳を脳たらしめるのは、「整理」を活用させる事であり、それは生活知である、偶然な出来事を増やす事が大切である、と言う。

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