理解できない現在小説
最近読む新進作家の小説は理解しにくくなっている。そんな思いに悩んでいました。日本経済新聞の夕刊に、入門講座が始まった。「21世紀ニッポン文化史」で、「綿矢りさ は樋口一葉である」と言うショッキングな表題である。
その理由は、“まるで、時代が一巡したかのようだ。星雲状態にみえる今の作家も、なじみ深い巨星たちになぞらえればその位置とりが見えてくる、と言う。
両氏の共通点は「新しさ」への反旗、であると言う。新人はいつでも新しさを売り物にしようとする。否、新人だけではない、誰でもが常日頃から、「新しさ」でアピールしたい、と考えている。競争社会ではさらに、何か差別化を探し、意識し、そんな個性を売りものにしよう、と悩んでいる。
TVドラマなど、モット早い循環を見せている。さらには、両氏に共通する事は「新しさ」ではなく「一番大切な事は日本語を愛し抜くことである」と言う。日本語を愛し抜くとはどんな事か、今一、分からない。綿矢と、樋口の日本語は全く違うように思える。もう少し詳しい解説を希望する。確かに、今は「日本語」ブームでもある。そんな著書が山ほど出版されている。これらは、IT機器での文章化が諸悪の根源のように言われている。果たしてそうなのだろうか?
また、読者はそんな循環を期待しているわけでない。将来を暗示してくれる、何かを期待している。題材が無くなっている、新しさを見つけられない代わりに、“日本語らしさ“のみにしか主題が見出せないのではないか?そんな事が返って読みにくい作品となっているのではないのか?日本語の美しさ、文章の美しさも当然であるが、読んだ後の物語性についてが、大切であると思っている。そんな作品を期待している。そんなことから、現在作家よりも近代作家の方が好きである。
<読書>
「包帯クラブ」天童荒太 ちくまプリマー新書
永遠の仔のベストセラーはよく知られている。久しぶり(6年)の長編小説、と言う振込みで、「傷ついた少年少女たちの感傷てきな物語」と言う。しかし、内容は全く分からない作品であった。悲劇役者のようにブリッコしているだけではないのか?理解できないのが悪いのだろう、それだけ歳を取って遅れているのだろうか。
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