旅の原点
自分の旅立ちは何時であったか、考える事がよくあった。自分は田舎の次男坊であったため早くから自立させられた、とは思っていたが、果たしてそうだったのかの疑問は絶えずあった。
「ああ、顔文不一致」 勢古 浩爾 洋泉社新書Y を読んでいて、ハタと気が付いたのだ。それは「顔」からが始まりであったと。
自分はコンプレックスの固まりである。今の今までも、「顔」についてはまったく自信が無い。自分の最ものコンプレックスは、実は「顔」である。小学校4年生の始め頃だったか、鏡に映った自分の顔を初めて見て(それまでにも見ていたのであろうが)、すっかり自身を無くした。「こんな顔に皆は何も言わずに遊んでくれているのだ!」と真剣に考えるようになった。随分と悩んだ。それまでは、餓鬼大将で、みんなの上に立って悪漢ぶりを発揮しては、親を困らせていた。がそれを機会に、落ち込んでしまって、いつか餓鬼大将は譲らざるを得なくなってしまっていた。多くのコンプレックスの中の最も大きな位置を、今も占めている。
だから、写真は嫌いである。極力撮らないことにしている。やむなく撮られる集団写真も破いて捨てている。下戸でありながら酒で誤魔化してきた。
顔がよくなくて、「悔しい!」こりゃダメだ!と諦めた人生でもある。その間も「顔じゃない心だよ」「人間は見かけじゃない、中身!」と言い聞かせてみても、むなしい叫びであった。人は見かけで判断をしてしまうものだ。
自己を強く意識し始めて、親から自立、離れていったのが、この「顔」であり、小学校4年からであった、と、いま頃気が付いた。
その「顔のコンプレックス」が今日のボケ爺の姿であり、自分史を語る元となっている。何と慰めればいいのやら。
<読書>
「ああ、顔文不一致」 勢古 浩爾 洋泉社新書Y
文は人なり、顔は文なり、故に、顔は人なり ???無理かな?
「人は見た目が9割」 竹内 一郎 新潮新書
人は見た目で判断をする。言葉は7%しか伝えられない。
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